すきすきシュガー

「ナナミンさーん!」
「…………」
「あれ? ナナミンさんてば!」
「…………」
「ナ・ナ・ミン!さん!」
「一体何ですかあなたはさっきから」

呆れ返った声と共に、その人はようやく顔を上げた。平日真っ只中の昼下がり、律儀にも任務のお迎えにやって来た後輩に対して、「一体何だ」とはひどい言い草ではないですか。
遺憾の意を表明すべく尖らせた唇は、しかし彼と目が合った瞬間にもうほろほろと綻んでしまった。金色の髪をぴたりと撫でつけ、きっちりかっちりネクタイを締めた仕事モードの彼は、いつ見ても惚れ惚れする。眉間にこれでもかと皺が寄っていても、だ。

「悠仁くんがナナミンって呼んでると聞いて」
「私は許可した覚えはありませんが」
「いいなーと思いまして」
「はあ……」

学生に影響されてどうするんですか、なんて溜息混じりに言いながらも、大きく広げていた新聞を閉じてくれるから優しい。向かいに座っていいですよという合図だと勝手に解釈した。ちなみに、なんとその新聞は英語で書かれているのである。日本語で書いてあったってちんぷんかんぷんだというのに。

きちんと折り畳まれた新聞を彼の手から遠ざけるようにテーブルの端へ寄せて、私はいそいそと向かいの席に腰を下ろした。深い眼窩に嵌め込まれたサングラスの奥で、ガラス玉のような瞳がすっと細くなる。この人が座ると、高専の古ぼけたソファさえアンティーク家具のように見えてくるから不思議だ。

「ナナミンはダメですか?」
「ダメに決まっているでしょう」
「じゃあ私はなんて呼べばいいんですか!」
「普通に呼びなさい普通に」
「……七海先輩」
「はい」
「つまんない……」
「つまるつまらないの話ではありません」

にべもない。私は猫のように鼻を鳴らして、ソファにだらりと背中を預けた。私だって七海先輩ともっと仲良くなりたいのになあ。じっとり視線を送ってみるが、彼は素知らぬ顔でこの後の任務の資料に目を通していて、こっちを向いてもくれなかった。

――私がこの人に恋をしたのは、まだ十代の、何も知らない少女だった頃だ。

初めて見かけたとき、お伽話の王子様みたいだと思った。どんよりと濁った呪術界にはおよそ不釣り合いな、キラキラに輝く金の髪と翠玉色の瞳。剣のようにすらりと伸びた手足。眼差しは射るように鋭いのに、他愛ない会話の隙間で一瞬だけ柔らかくほどける表情が好きだった。

学生時代の私は現在に輪をかけて阿呆だったので、惚れた腫れたなど何もわからないまま、流行りのアイドルを追いかけるような軽薄さでもって、ただただ七海先輩の後にくっついて回っていた。遠くに姿を見つけたら走って行ったし、ちょっとでもおしゃべりするために暇さえあれば寮の共有スペースをうろうろしたり、任務が一緒になった日の前の夜は全然眠れなかったりもしたっけ。

それが確かに恋だったのだと気がついたのは、彼が呪術師を辞めてしまった後のことだった。

学校でも、任務でも、姿を見ることも声を聞くこともなくなって、ああこれが、と思った。“胸に穴が空く”というのはこういうとを言うのだと、私はそのときに初めて知ったのだった。

恋心というのは厄介なもので、自覚した瞬間からどんどん大きく膨れ上がっていく。もう手遅れだと何度言い聞かせようがお構いなしだ。なんとか宥めすかして腹の底に収めても、忘れた頃にまた首をもたげてくる。しゃんと背筋を伸ばして歩く姿だとか、唇の端っこだけを持ち上げるぎこちない笑い方だとか、ふと思い出すのはそんな些細なことばかりだったけれど、何年経っても私はそれを手離すことができなくて。

――そうして、彼はまた、ここへ戻ってきた。

「そろそろ時間ですよ。支度してください」
「……はあい」

ソファから立ち上がり、ジャケットのボタンを留め直す七海先輩をじいっと見上げる。少し頬がこけた以外は、昔から何も変わらない。口では愛想のないことを言いながら、結局は私が周りをうろちょろすることを許してくれてしまう。そのくせ、もう一歩を踏み込む隙はちっとも与えてくれないのだ。そういうところがずるいんだよなあ。

その静謐な瞳を、どうにか振り向かせてみたい。そう思ったら、唇からするりと言葉が滑り出た。

「――建人さん」

それは一瞬のことだった。エメラルドの双眸が驚いたように丸く見開かれたのを、私は見逃さなかった。さっと踵を返したグレーのジャケットの裾を光の速さで引っ掴む。ちょっといまの顔、もう一回見せてください。

「いっ、いまちょっと動揺しました? しましたよね!?」
「……うるさいですよ」
「否定しない!?」
「うるさい」

ぴしゃりと跳ねつける声とは裏腹に、耳の先がほんのり赤く染まっているのを見てしまった。そうしたらもうだめだった。溜め込んできた好きが溢れかえって、胸に収まりきらなくなって、洪水みたいに喉元まで押し寄せてくる。

「な、七海先輩」
「……いまのは、ルール違反でしょう」

視界を遮るように大きな手が伸びてきて、私の頭をくしゃりと撫でた。まるで子猫にするみたいな優しい手つきだった。そっちのほうがよほどルール違反では。

「先輩、めちゃくちゃ、すき、です……」

気がついたら、口からぽろりとこぼれ出していた。
だってもう無理だよ。私、どうしたってこの人のことが好きだ。過去もいまも未来も、眉間に寄った皺も呆れた声も優しい手のひらも照れた顔も、全部。

唇を噛んだ私の顔を見下ろして、七海先輩は深く溜息をついた。さっきの可愛い顔はどこへやら、すっかりいつもの大人の顔つきに戻っている。写真に撮っておけばよかったかな。

「ご存知ないようなので、この際言っておきますが」
「は、はい」
「私も好きですよ」
「はい…………はい!?」

自分でもびっくりするくらい見事に声が裏返った。いま、この人いま、さらっととんでもないこと言わなかった?
うろたえる私の頬を両手で挟んで、七海先輩は真上からこちらを覗き込んだ。ぱっかりと口を開けた自分の顔が淡い色のサングラスに反射する。ひどい間抜け面だった。

「あなたのそういう、馬鹿みたいに真っ直ぐなところ」

馬鹿は余計なんですよ。口先まで出かかった文句の言葉は、突然降ってきた彼の唇に吸い込まれて消えてしまった。

すきすきシュガー


昔から好きがダダ漏れだった後輩と、いつか自分から言おうと思っていたのに先を越されてしまった七海さん。
一足早く、お誕生日おめでとうございます!

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