レイニー、傘に入るかい

※一般人夢主、モブ彼氏あり。

 

 

 

「あ、傘忘れた」

お気に入りの折り畳み傘が鞄の中に見当たらないことに気がついたのは、改札を出てすぐのことだった。

金曜日の深夜0時近く、残業帰り、外は大雨。どれひとつとっても気が滅入るシチュエーションなのに、おまけに傘まで忘れてくるとは。会社のビルは地下鉄駅直結だから、外でこんなに雨が降っているなんて知りもしなかった。

呆然と立ち尽くす私の脇を、飲み会帰りと思しき赤ら顔のおじさんたちが、似たようなビニール傘を手に次々と通り過ぎていく。駅前のタクシープールには長蛇の列ができていた。待つのが早いか、雨が止むのが早いか。ばしゃばしゃと滝のように降り注ぐ雨を眺めて、深く溜息をついた。

今週は最悪の一週間だった。仕事は繁忙期の大詰めで、毎日朝から晩までてんてこまい。上司の機嫌は悪いし、先輩からは雑用を押し付けられるし、後輩は泣くし、なんとか時間を作ってねじこんだデートの予定だってドタキャンすることになってしまった。それが水曜日のことで、謝罪のメッセージに既読がついてから丸二日経っても彼氏からの返信はない。もう終わったんだろうな、と他人事のように思う。『お前ってほんと仕事好きだよな』と嫌味たらしく言われたのは記憶に新しい。

なんだかすべてに疲れてしまって、私はおもむろに取り出したスマホのメッセージアプリから彼の連絡先を消去した。もうなんでもいいや。とりあえず早く帰ってベッドにダイブしたい。ぼうっとする頭で考えながら、土砂降りの雨の中へ足を踏み出そうとしたときだった。

(――あ、あの人)

数歩分離れた場所に、その人は音もなく立っていた。月明かりのような淡い金色の髪と、花緑青の瞳には見覚えがある。いつも朝の通勤電車で見かける男の人だった。

鋭利な刃物みたいな人だと思った。
毎朝、決まった時間に駅に着くと、彼はいつも私より先に電車を待っていた。話したことはない。私が知っているのは、片手に持った文庫本を読み耽る横顔だけだ。蒸し暑い地下鉄のホームでも、息が詰まるような満員電車の中でも、彼の周りだけはしんと冷たい空気で満たされているように見えた。そういう、異質な雰囲気を持った人だった。

(……帰りに会うのは初めてだ)

あの人も残業かなあ。俯いた頬には疲れが滲んでいるように見える。もしかして毎日こんな時間まで働いているのだろうか。道理で帰りに見かけないわけだ。お疲れ様です、と心の中で労いの声をかけたとき、それが聞こえたわけではあるまいが、切長の目がついとこちらを向いた。

「――あの」
「えっ!」

咄嗟に大きな声が出てしまって、慌てて両手で口元を覆う。見つめているのに気づかれたという気まずさと、予想外に流暢な日本語が飛び出してきたことへの驚きとが半々だった。

「す、すみませ……!」

謝罪の言葉を言い終える前に、彼はつかつかとこちらへ歩み寄ってきて、私の目の前に立った。そびえるように背が高い。遠目にはすらりとして見えるのに、その肩や腕は思いのほか筋肉質だった。ちょっとそこらにはいないような立派な体格だ。

思わず身を引いた私を見て、彼の瞳がすっと細くなる。元々鋭い眼差しがさらに強さを増した気がして、私は肩をすぼめた。これは絶対に怒られるやつだ、人のことをじろじろ見てなんですか失礼な、とか言われるやつだ。こんな綺麗な顔の人から怒られたら泣いちゃうよ。いや私が悪いんですけどね!

「傘がないのでしたら、これを使ってください」
「……え」

間抜けな声が漏れた。目の前には、黒い折り畳み傘が差し出されていた。ぽかんとして上を見れば、生真面目そうに唇を結んだ顔がある。これをつかってください、とは。

「あ、あの、」
「私は家が近いので、お気になさらず」
「……え!? いや! いやいや大丈夫です! 私こそ家まで走りますから!!」

はっと我に返った。まさか見ず知らずの方から、この土砂降りの日に傘を奪うなんてできるはずがない。一息に言って両手をぶんぶん振ってみせると、彼はなぜか小さく笑った。固く閉じていた花の蕾が微かにほころぶような、ひどく繊細な微笑みだった。

「そんな疲れた顔をして、濡れて帰ってはいけませんよ」

レイニー、傘に入るかい

あれから一ヶ月、その人には会えていなかった。
いつもの時間、いつものホーム、いつもの車両にも、彼はいなかった。前後に時間をずらしてみたり、改札の見えるカフェで閉店まで待ってみたりしてもダメだった。決してストーカーではありません。

あの黒い傘は、ずっと私の鞄の中で眠っている。次に会えたら必ず返そうと、晴れの日でも持ち歩いているのだった。細身のわりに芯が強く、私が扱うには少し重たい。一目で上質な代物とわかるそれは、やはり彼が持つべきもののように思えた。

(今日も会えなかった……)

あのときと同じ金曜日の夜、すっかり馴染みになった駅のカフェを出ると、ぽつぽつと雨が降り始めていた。残念でした、今日はちゃんと長傘持ってるもんね。誰にともなく勝ち誇った気分で、淡いグリーンの傘をばさりと広げる。先週末に新調したばかりの晴雨兼用のやつだ。

――そういえば、あの人の瞳も綺麗なグリーンだったなあ。

ぽつりとそんなことを思い出す。半ば押し付けるように私に傘を持たせて、あの人は雨に紛れて消えてしまった。せめて名前くらい聞いておけばよかったな。この広い東京の街で、偶然ばったり、なんてあるわけがないし……。

うんうんと唸りながら、交差点を渡りかけたときだった。視界の端にきらりと光る金色が映って、私は慌てて振り返った。

あの長身、あのぴんと伸びた背筋、几帳面な七三分けは。
夜闇に埋もれるように建っている雑居ビルのエントランスから現れたその姿に、心拍数が一気に跳ね上がる。次の瞬間には、一も二もなく駆け出していた。

「――あのっ!!」

ゆるりとこちらを向いた眼差しは、淡い色のサングラスに遮られていた。けれどもその奥にある宝石みたいな瞳は、まぎれもなく、あの人だ。

「あの、か、傘の方ですよね!?」
「……あなたは、」

駆け寄った私を見て、彼は僅かに目を見開いた。この人でもこんな驚いた顔するんだな、なんて冷静に思う頭と裏腹に、心臓はどんどん鼓動を早めていく。金色の髪から雨粒がぽとりと垂れ落ちるのを見て、思わずその頭上に傘を差しかけた。

「あのときは、本当にありがとうございました……! ずっとお返ししたくて探していたんですけど、会えなくて」
「それは……わざわざすみません。職を変えたので、駅には立ち寄らなくなりまして」
「あ、そうだったんですか」

見れば、以前はサラリーマン然としたシンプルな服装だった彼はいま、小洒落たグレーのスーツと派手な柄物のネクタイを身につけていた。とても似合ってはいるものの、お堅いお仕事ではないことは明らかだ。けれども前に会ったときにはひどかった目の下の隈は、ほとんどなくなっていた。

「……転職、うまくいきました?」
「はい?」
「なんだか前より顔色が良さそうに見えて」
「……まあ、どっちもどっちですよ」
「そ、そうですか」
「やり甲斐という意味では、多少マシになりましたが」

言って、彼は大きな手を私の肩口あたりに伸ばすと、何かを振り払うようにすいっと水平に動かした。その仕草をきょとんと見つめる私に、少しだけ唇を持ち上げて笑う。あのときよりもずいぶんと柔らかい微笑みだった。

「あの……?」
「失礼。虫が寄っていました」
「あ、ありがとうございます」
「送ります。もう遅い時間ですから」
「え」

当たり前のような顔で、彼は私の手からするりと傘を奪うと、ふたりの上に差しかざした。街灯を透かすグリーンの傘の下、鈍く輝く金色に目を奪われる。鞄の中にあの黒い折り畳み傘があることは、すっかり言いそびれてしまった。

「ところで、もし次に会えたらお訊きしたいと思っていたことがあるのですが」
「は、はい! なんでしょう」

グレーのスーツの肩に、雨粒が滴り落ちて色を変えていく。もっとこっちに寄らないと濡れちゃいますよ、なんて言い訳をしたら、彼はどんな顔をするだろう。

「――あなたの、お名前は」

 

 

 


いつも駅で見かける女の子のことが実は気になっていた七海さん。

Title by 天文学