それはつまり愛です

お題企画

※少し長いです

 

 

 

「これは何ですか?」

透き通る緑色の瞳が、目の前の皿をじっと睨んでいる。
二人で暮らす都心のマンションの一室の、ピカピカに磨き上げられたキッチンの片隅。シンプルながら滑らかな曲線が美しいその白い皿は、彼が選んだものだ。

「……お、オムライ、ス」
「どう見てもただの消し炭ですが」
「消し……!?」

思わず上げかけた抗議の声は、尖った視線によって簡単に制された。
つややかに光る皿の上には、見るも無惨に焼け焦げた黄色の塊が乗っかっている。オムライス、になる予定だったものだ。午前の任務を終えて帰ってきた彼に、昼食として振る舞うはずだったもの。

「待って。もう一回やればきっとうまくいく」
「もういいです。私がやります」

散らかったキッチンで再び包丁を取ろうとした私の手を、七海がぎゅっと掴んだ。絆創膏を貼ったばかりの指が鈍い痛みを伝えてくる。たまらず顔を顰めると、それを見咎めた七海はさらに表情を険しくした。

「できもしないことに気まぐれで手を出さないでください。火事にでもなったらどうするつもりですか」
「き、気まぐれじゃないもん!」
「大方、雑誌か何かに影響されたんでしょう」

ぎくり。七海は視線だけじゃなく観察眼も鋭い。カウンター越しにさっとリビングに目を走らせて、今朝私が読んでいた雑誌をすぐさま見つけたようだった。

――『デキる彼女の愛され手料理!』なんて恥ずかしい見出し、一体誰が考えたんだ。私を唆してこんな状況に至らしめた責任を取ってもらいたい。

「……心配しなくても、」

深い溜息をつく七海の呆れ果てた顔を見て、私はいよいよもって雑誌への恨みを爆発させた。

「あなたにそんなもの、期待したことは一度もありませんよ」

ほら、ぜんっぜん愛されないじゃん。嘘つき!

 

「――で、なんで僕のとこに来てんの?」

高そうな革張りの椅子に深く腰掛けた五条は、ことさら怠そうな顔で私を見た。目元は黒い目隠しで覆われているが、めんどくせえな、と思っているのがひしひしと伝わってくる。

「いいじゃん暇そうだし」
「あのねえナマエ、僕って特級術師なんだよね。ものすっご〜く忙しいの。わかる?」
「七海のやつ、ひどいと思わない?」
「人の話聞いてないね」

五条の言葉を無視して、私は手近な椅子を引っ張ってきて彼の前に腰を下ろした。久しぶりに訪れた高専の職員室は閑散としている。ここはいつでも人手不足なのだ。
私が頑として退かないとわかると、五条は諦めたらしく長い息を吐いた。いつもくだらない話を聞いてあげているんだから、たまにはこっちの役に立ってくれてもいいでしょう。何より、長い足を投げ出して大福をむさぼる姿はどう見ても暇人のそれだ。

「はーヤダヤダ。何が悲しくて、至福のおやつタイムにお前らの痴話喧嘩の話なんか聞かなきゃなんないんだよ」
「あとでアイスも買ってあげるから」
「そんなんじゃ僕の時給には釣り合わないね」

むすっと膨れた白い頬はまさに大福みたいで、ようやく私は少しだけ笑うことができた。

――あの後。「七海のばか! 一生焦げたオムライス食ってろ!」なんて子供じみた捨て台詞を吐いて、私は家を飛び出した。
行きたいところなんかもちろんなかった。恋人と喧嘩した直後、ひとりで歩く都心の街はまるで地獄だ。自分以外の誰も彼もが幸せそうに見える。むしゃくしゃして、心細くて、でも帰ることなんかできなくて、だから老舗和菓子店の一日限定五十個の大福を餌に、同期のこの男を釣ったのだ。

一個四百五十円の高級大福をあっという間に腹に収めた五条は、早くも二つ目に手を伸ばしながらこちらを見た。

「つーかなんでいきなり手料理? お前そういうの一番苦手じゃん」
「そうなんだけどさあ……」

なんでって、そりゃあ。怪訝な顔をする五条を前に、私は言い淀んだ。引く手数多のこいつには到底わかるまい。恋人にいつ愛想を尽かされるかと不安に怯える、いたいけな女の気持ちなんて。

ひとつ年下の七海に告白されたのは、私が高専を卒業する日のことだった。

『ミョウジさんのことが好きです』

迷いなくまっすぐに投げかけられたその言葉の響きを、まだ鮮明に覚えている。すらりと長い体の横で強く結ばれた拳が微かに震えていたのも、宝石を嵌め込んだみたいな美しい瞳がゆらゆらと揺れていたのも、全部全部、昨日のことのように思い出せる。

私にとってそれはまさに青天の霹靂だった。だってあの七海が私のことを好きだなんて、一体誰が思うだろう。

私は学生時代からだらしない女だった。ずぼらで大雑把、めんどくさがり。家事なんてひとつもできなくて、部屋はいつも散らかり放題だし、洗濯物はしわくちゃだった。いまどき男の一人暮らしだってもうちょっと小綺麗にするもんだと硝子に呆れられたくらいだ。

そんな私のどこを彼が好きになってくれたのか、正直言ってまったくわからない。いまも、ずっと。

「……だって私、このまま七海のそばにいていいのか、わかんなくなっちゃって」

万年二級術師の私と違い、七海は会社員だった頃も呪術師に戻ってからもたいそう優秀で、バリバリ働いて稼いでくる。帰ったらきちんとごはんを作って食べて、暇を見ては家中をピカピカに掃除して、私の服にまでアイロンをかけて。そんな彼を見ていると、ふと不安になるのだ。七海にとって、私って必要なのかな、って。

「今更すぎない? 何年付き合ってんだよ」
「一緒に暮らすようになってさらに、というか……」
「同棲中のカレシに甘やかされて大事にされて幸せって話? もう終わっていい?」
「私の話ちゃんと聞いてた?」

五条は相変わらず、我関せずという顔で大福を咀嚼し続けている。もう四つ目だよ、こいつどうなってるの。言外に非難した私に対し、五条の返答は実に素っ気なかった。

「ちゃんとも何も、七海の言葉がすべてなんじゃないの」

事もなげに放たれたその言葉は、覚悟していたよりもずっと鋭く胸を刺した。もしかして違うかも、何か別の意味があるのかも、第三者から見たらあるいは、なんて、所詮浅はかな考えに過ぎなかったのだ。つまり、やっぱり七海は。

「私には何も、期待してないってことかあ……」

言っているうちにもう涙が込み上げてきた。デキる彼女も愛され手料理も私には無理だって、七海は思っているわけだ。そしたら私は彼に何を返せばいいのだろう。どうやって彼を繋ぎ止めればいいのだろう。それとももう手遅れで、そのうち別れを告げられて……ああ嫌だ、そんなことになったらこの世の終わりだ。

私の顔がよっぽど悲惨だったのか、五条はおもむろに大福を食べる手を止めた。指についた白い粉をぱっぱと払ってから、頭の後ろで手を組んで背もたれに大きく寄りかかる。そうして私に問いかける声は、なぜだかとても教師然として聞こえた。

「ナマエはさあ、ちゃんと考えてみたことある?」
「何を……」
「あのクソ真面目な七海が、なんでお前みたいなちゃらんぽらんと付き合ってんのか」
「五条にちゃらんぽらんて言われたくないんだけど」

あと、それがわからないからこうして悩んでるんですけど。ずび、と鼻を啜る私を横目に見た五条は、大袈裟なほど深い溜息をついて天井を仰いだ。なんだよその訳知り顔。むかつく。

「あいつがお前に期待してることなんて、昔からずーっと一個だけだろ」

なにそれ、どういう意味。
聞き返そうと口を開いたところで、私は息を止めた。

「——見つけましたよ」

開け放たれた戸口に、眩しいほどの日差しを背負って彼が立っていた。

「やーっと来た。さっさと回収しちゃってくれる?」
「え、なな、えっ五条!?」

素っ頓狂な声を上げる私に、五条はにやりと笑ってスマホの画面を向けてみせた。トークの相手はもちろん『七海建人』だ。いつの間に……!

「七海、その、えっと……」

七海は黙ったまま、ずんずんと音が鳴りそうな足取りで、あっという間に私の目の前までやってきた。ジャケットもネクタイも、ついでにサングラスも外している。晒け出された翠緑の瞳と視線が絡まって、それはもう条件反射のように心臓が大きく跳ねた。昼に見たときにはかっちりと整えられていた金髪は、少しだけ乱れていた。

「バーゲンダッツ十箱でいいよ」
「明日ご自宅に届くよう手配しました」
「さすが。仕事早いねえ」

ぱちんと指を鳴らし、五条は愉快そうに笑った。私はアイス十箱で売られたらしい。文句のひとつでも言ってやりたかったが、私の手首を掴んで強く握りしめる七海の顔を見たら、もう口を噤むしかなかった。

 

「な、七海。どこ行くの……」
「……」
「七海ってば、」

繋がれた手を強く引くと、ようやく七海は足を止めた。元々の歩幅が違うのにさらに大股で歩くから、私は半ば走っているような状態だったのだ。普段いかに彼がゆっくりと歩いてくれているのか、こんなときに思い知らされて泣けてくる。

乱れた息を整えながら辺りを見回す。そこは古い校舎の裏手にある中庭だった。春には満開の桜が溢れんばかりに咲き誇る場所だ。あの日、七海が告白してくれたのもここだった。

「……心配しました」

ぽつりと、掠れた声で七海が言った。
一秒とおかず、力強い腕に抱き寄せられる。優しい香りを纏った白いシャツは、汗でしっとりと湿っていた。

「ま、まだ三時間も経ってないよ」
「電話も繋がらないので、もしや事故にでも遭ったのかと」
「電源切ってた、から……」

背中に回された腕にぎゅうと力がこもる。それだけで、どんなに心を砕いてくれていたかわかってしまって、息が詰まった。

「……さっきは、言葉を間違えました。謝ります」

七海の深い声が、ゆっくりと胸の奥に沁みこんでくる。張り詰めていた心がほどけて流れ出すみたいに、目尻に涙が滲んだ。七海の声って不思議だ。聞いているだけで、泣きたくなるほど安心する。
たまらなくなって、私は大きな体に縋りつくように彼のシャツを握った。皺になるでしょう、って怒られるかと思ったけれど、七海はただ優しく私の頭を撫でてくれた。

「料理なんかできなくたっていいんです」
「……うん」
「私が作った食事を美味しそうに食べてくれたら」
「……っ、……」
「疲れて帰ったとき、おかえりと言って迎えてくれたら。洗いたてのシーツで気持ちよさそうに眠ってくれたら、それでいい」

少しだけ体を離してこちらを見下ろした七海の瞳は、あの日からまるで変わらず、ひたすらにまっすくだった。
そうだ、あのときも、この目が好きだと思った。いつだって一点の曇りもなく、一欠片の嘘偽りもなく、痛いくらいに気持ちを伝えてくれるから。

「――あなたが笑っていてくれるなら、それだけで私はなんだって頑張れるんですから」

宝物を眺めるみたいにきらきらとした顔で、七海は微笑んだ。

ああ、私って馬鹿だなあ。こんなにも愛されて、大切にされてきたのに、なんにも見えていなかったなんて。そりゃあ五条も呆れるわけだよ。

堪えきれず溢れた涙を拭うように、七海はそっと私の頬に指を這わせた。甘くとろけた瞳を見つめ返すと、触れるだけのキスが落ちてくる。

「……笑ってるだけで、いいの?」
「大事なことですよ」
「本当に?」
「試してみますか?」

悪戯っぽく指を絡めてきた七海の手をぎゅっと握り返して、私は精一杯に笑った。涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、不恰好にも程がある。けれど、七海が心底幸せそうに破顔するのを見たら、そんなの全部どうでもよくなってしまった。

「……あと六十年くらいかけて、試してみようかなあ」
「それはいい。付き合います」

今度こそ満面の笑みを浮かべた私は、ぺたんこのサンダルで思いっきり背伸びして、愛しい恋人に口付けた。

それはつまり愛です


夕食に特製オムライスを作ってくれる七海さん。

お題:恋人七海さんと喧嘩して五条さんに相談→仲直りイチャイチャ/暦様
お題ありがとうございました!七海さんは恋人にとことん甘くあってほしいです。

Title by 弾丸