アインスタインの花ぎらい

※高専時代〜原作軸の少し前まで

 

 

寮で見かけた金髪に声をかけたのは、ほんの出来心からだった。

今日は二月十四日で、制服のポケットには小さな固い感触があって、すぐそこに可愛い後輩が座っている。それだけの理由で、私は彼の隣に無断で腰を下ろした。

「なっなみ〜、これあげる」
「……なんですかそれは」
「そんなゴミを見るような目をしないで」

指先でつまんだ四角を彼の目の前にかざしたら、七海はその鋭い目をさらに細くしてぎろりと私を見た。失敬な。チロルの何が不満だというのか。

「言っておきますが、そのチョコが不満なのではなく、あなたの態度が気に入らないだけです」
「もっとだめじゃん」
「軽薄は一人で充分なので」

人の思考を先読みしたかのような物言いに、私は閉口した。七海が誰を揶揄しているのかはよくわかる。が、あんなのと一緒にされてはたまったものではない。

「五条と一緒にしないでよ」
「似たようなものでしょう」
「たまたま奴と同学年なだけの、いたいけな女子高専生だよ私は」
「そうですか。それはご愁傷様」

あ、こいつ話を切り上げにかかっているな。そう察した私は、ソファから腰を上げようとする七海の腕をぐいと引き戻した。頑丈な男の体はびくともしないが、目線だけはこちらに向いている。そんなに嫌そうな顔されると、センパイ傷ついちゃうなあ。

「……じゃあ、七海は私のこと嫌い?」

彼は一瞬だけ、その綺麗な緑色の瞳を丸くした。いつも大人ぶっているくせに、こういう顔をすると年相応の男の子に見える。そこがこの無愛想な後輩の可愛いところだと私は密かに思っている。

「……別に、嫌いではありません」

幾分かやわらいだように聞こえる声で小さく答えて、七海は私の手の中にあったチョコを拾い上げた。

「これは頂いておきます」

そのちょうどひと月後、七海は美しい化粧箱に入った宝石みたいな飴玉を私にくれた。費用対効果って知ってる?と問うたら、彼は眉間に刻まれた皺をマリアナ海溝もかくやというほどに深くしたので、私は人差し指で丁寧にそれを伸ばしてやった。

アインスタインの花ぎらい

あのとき触れた七海の皮膚の感触を、いまでもふと思い出すことがある。柔らかくてすべすべして、薄い膜みたいな肌だった。

目の前にかざした右手の人差し指越しに、向かいの空席を見やる。今日は珍しく少し遅れるらしい。
始まりはあの小さな四角いチョコレートだったのに、十年経ってもこうして七海を待っているのが不思議だ。

あれから毎年毎年、私は性懲りもなくちゃちなバレンタインチョコを贈り続け、七海はこれまた飽きもせずに毎度毎度釣り合わないお返しをくれた。釣り合わないどころか、どんどんグレードアップすらしている。現に今日だって、こんな高級レストランに呼び出されているのだ。バレンタインには安い居酒屋にしか連れて行ってあげたことないのに。

慣れないピンヒールがベルベットの床に沈み込む感覚を味わいながら、ひと月ぶりに会う後輩の実直な顔を思い浮かべる。

彼が呪術師を辞めていた時期ですら、この謎のバレンタインとホワイトデーのやり取りだけは粛々と続いていた。どこかのタイミングでどちらかがやめてしまえばあっさり終わっていたと思うのに、そうはならなかった。そのくせそれ以外のときにはお互い見向きもしないのだ。だから二人きりで会うことなんて、年にこの二回だけだった。

この関係にはまだ、名前がない。これが一体何なのか、自分から始めたこととはいえ、私にもわからなかった。こんなに続くとは思っていなかったというのが正直なところだ。意味もよく知らないまま、けれどなぜだか途絶えさせてはいけないような気がしていつまでも続いていく、ある種の宗教儀礼にも似ていると思った。

あれは三年前だったか、今日と同じようにホワイトデーに二人で食事をした。少し遅れて現れた七海は、すみません遅れましたと謝りながら、洗練されたデザインの紙袋を私に手渡した。中身は巷で流行りのマカロンだった。狂喜して「私これ大好き」と言ったら、彼はいつもの仏頂面で「そうですか」とだけ返した。その翌年も翌々年も、ホワイトデーには同じマカロンがやってきた。

七海建人とはそういう男だ。まるで真面目を丸めて律儀で塗り固めて出来上がったような奴なのだ。

――私からやめてしまったら、と考える。この奇妙な応酬を私からやめてしまったら、七海はどう思うかな。

ふと視線を巡らすと、天井まで続く大きな窓に自分の姿が映っていた。東京の夜景を背景にして浮かび上がった私は、びっくりするくらい着飾っている。普段なら絶対に選ばない淡い色のワンピース。口元には艶めくピンク色のリップ。髪をこんなに丁寧に結いたのはいつぶりだったかな。いくらなんでも、三十手前の女がマカロンごときで浮かれすぎなんじゃないだろうか。

跳ねた毛先が気になって指で撫でつけていると、向かいの椅子が静かに引かれた。

「すみません、遅れました」

聞き慣れた一本調子な口調で言って、七海がふわりと腰を下ろす。それから珍しく少し緩んでいたネクタイをきゅっと締め直した。そんなに急いで来なくても、多少の遅刻なんか気にしないのに。

「任務?」
「ええ、それから野暮用をひとつ」
「珍しいね」
「遅れるつもりはなかったのですが、申し訳ありません」
「いいよ別に」

私と話しながらも七海はワインリストを手に取って、すらっと目を走らせた。音もなく近づいてきたウェイターと一言二言交わす頃には、もう私の分の飲み物まで注文が済んでいる。そういうことを嫌味なくこなせるところに育ちの良さが滲み出ていて、美しいな、といつも思う。七海と食事に出るときの密かな楽しみだ。

すぐさま運ばれてきた細長いシャンパングラスを傾けながら、七海はついと私を見た。

「なかなか似合いますよ」
「何が?」
「その格好」
「……そ?」
「黙っていれば」
「…………」
「冗談です」

お望み通り黙って優雅に微笑んでやったのに、七海はくすりとも笑わない。冗談なら冗談らしく言いなさいよ。

こうして向き合っていると、あれから十年もの時が経ったことを忘れそうになってしまう。相変わらず七海は無愛想で堅物で、私はちゃらんぽらんで惰弱だ。

「七海はさあ、私といて楽しいの?」
「あなたでもそういうことを気にするんですね」
「どうなの?」
「別に、つまらなくはありません」

答えになってないじゃん。口を尖らせてみたが、七海はつんと澄ました顔で酒を飲み干すだけだった。

食事が進むにつれて、元から少ない七海の口数はさらに減っていった。いつもそうだ。「食事は静かに楽しむもの」とか言って、二人でいるのにろくに話もしない。それで七海は楽しいのかな。……私は別にいいけど。メインディッシュの仔羊から顔を上げて、音も立てずにナイフとフォークを操る手元を盗み見る。姿勢を正して行儀良く食事を口に運ぶ様はどこか宗教画じみて神々しく、有り体に言えば、とても綺麗だ。

そうやって七海に食べられた仔羊は、いつしか彼の血となり肉となる。対して、彼の向かいに座る私は何だろう。友達でもなければ恋人でもなく、ただ宗教儀礼的に繰り返される二月と三月だけで繋がったこの関係は、果たしていかほどのものなのか。

「――ねえ七海。私たちってさ、」
「ミョウジさん」

私の言葉を遮った七海の顔を見て、そうか、と気が付いた。私はこの男が好きだったんだ。小さな四角いチョコレートを制服のポケットに忍ばせたあの日よりも、ずっと前から。

白い波のようにたゆたうテーブルクロスのドレープの下から、真っ赤な花束が現れた。七海はそれをそっと捧げるように私に差し出して、またあの抑揚のない声で言う。

「今日から私の恋人になっていただけませんか」

ようやく理解した。ちゃらんぽらんな自分が毎年バレンタインを忘れなかった理由も、年に一回しか着ないようなワンピースをわざわざ選んで買った理由も、いま、七海の目元が少しだけ赤い理由も。

「……今日は、マカロンないの?」
「はあ?」
「マカロンないなら、やだ」
「子供ですかあなたは」

七海は呆れこそすれ、怒ることはない。だってこの人、十年もこんな茶番に付き合ってくれるくらい私に甘いのだ。なんでこんなにも気が付かなかったのだろう。呪術師失格かな。
はあと溜息をついた彼は、サングラスでも隠し切れないくらい柔らかな瞳をしていた。

「……今度の土曜日、買いに行きましょう」
「うん」
「それでいいですか?」

返事をする代わりに、七海の手から受け取った花束をそうっと抱きしめた。甘酸っぱい花の香りが胸をくすぐって、心がそわそわと浮き足立つ。

「七海」
「まだ何か」
「大好き」

十年分の幸福を込めて言ってやったら、七海は目を丸くして口を開けた。相変わらず可愛い奴だ、私の恋人。

 

 


遠回りすぎるふたりの10年間の帰結。

Title by 天文学