悪辣と雛罌粟

※高専時代で七海視点
※悪ノリ許せる方向け

 

 

どすんという鈍い音を上げて、私は強かに背中を打ちつけた。同時に土埃に包まれ眉を顰める。やはり廃墟は好かないな。痛みよりまずそう思ったところで、鈴を転がすような声がした。

「――ご、ごめんなさい!」

それは予想外に近くから聞こえ、思わず体が強張る。この陰気な建物におよそ似つかわしくない清廉な響きを発したその人は、私の胸に手をついて勢いよく上体を起こした。見上げた瞳は羞恥に揺れている。

「すみません、下敷きにしてしまって……! だ、大丈夫ですか……!?」

大丈夫かと聞かれれば、正直あまり大丈夫ではなかった。
腹の上に、重さとも思えぬくらいの僅かな重量を感じる。肘をついて少し顔を上げれば、めくれかけのスカートと黒いタイツに包まれた太腿が目に入った。脇腹から腰の辺りにかけてぬるく伝わる体温が生々しかった。

薄汚れたリノリウムの床の冷たさだけが、かろうじて私を現実に繋ぎ止めている。胸の底でざわざわと騒ぎ立てる己の感情がうるさく、頭が痛くなりそうだった。

悪辣と雛罌粟

「七海、さん。あの、」

長閑な昼下がりの陽光が差し込む廊下で、か細い声に呼び止められた。振り返ってもそこには何もなく、はたと気がついて少し目線を下げれば、私の胸よりさらに低い位置に小さな頭があった。

「い、いま、お忙しいですか……?」

慎ましやかにこちらを見上げる瞳は可憐で、じっと見つめられると胸に迫るものがある。思わず足を半歩引いてしまった私に気づいた彼女は、不安げに眉尻を下げた。違う。そういう意味ではない。断じて。

「……私に何か?」

密かに足の位置を戻して彼女に向き直ってから、平静を装って答える。浮き足立たぬよう、しかし冷たく聞こえぬよう、細心の注意を払った。

「これ、この間の任務のときのお礼、です……」

彼女が目を伏せると、ふるりと震えた睫毛がその白い頬に淡く影を作った。そんな僅かな仕草だけで心臓を鷲掴みにされたような心地がする。彼女の両手には、丁寧にラッピングされた包みが大事そうに抱えられていた。

ひとつ下の学年に入ってきた彼女と初めて二人での任務についたのは、半月ほど前のことだ。派遣先は都内近郊にある廃校だった。呪霊自体はなんのことはない低級の集まりで、あっという間に祓い終わった。問題はその後だ。

所々崩れ落ちた階段を降りる途中、彼女が足を滑らせた。数段下を歩いていた私が、咄嗟に下敷きになって彼女を庇った。たったそれだけのことだ。

たったそれだけのことなのに。私は自分が自分で思うより単純な人間であったのかもしれないと考え至り、いささかショックを受けた。なぜならあのとき、己の腹の上で瞳を潤ませる彼女の姿を目の当たりにして、不覚にも、落ちてしまったのだ。……何に、とはもはや言うまいが。

私は走馬灯のように巡った記憶を掻き消し、ずいぶんと下にある彼女のつむじを見つめた。髪の隙間から覗く耳もうなじも、憐れなほど真っ赤に染まっていた。ぐっと詰まりそうになる喉を密かな深呼吸で鎮め、まだだ、と自分に言い聞かせる。まだ、期待するには早い。

「あれくらい、別に感謝されるようなことでは」
「わ、私がお礼をしたいだけなので」

受け取っていただけませんか。

切実な瞳でそう言われ、先程の戒めは早くも崩れ去った。心の中で白旗を揚げる。この状況で少しばかり期待したとて、誰も私を責められはしないだろう。
おずおずと差し出された包みを受け取ると、それは思いのほか重たく、危うく取り落としそうになった。一体何が入っているのか。

「その……気に入っていただけるといいのですが……」
「……開けても?」

尋ねれば彼女は無言のままコクコクと何度も頷いた。それが壊れた赤べこのように見え、ふっと笑みがこぼれそうになる。

クリーム色の包装紙に淡いグリーンのリボンがかけられたそれは、彼女らしく楚々とした佇まいをしていた。破れないよう慎重に包装を解いていく。呪力操作にさえこんなに神経を割いたことはなかった。

柄にもなくどきどきしながら中を覗いたとき、しかし私は愕然とした。プラスチックの袋に包まれた無愛想な直方体がいくつも現れる。これは。

「…………紙粘土、ですね」
「は、はい!」

彼女が嬉しそうにぱあっと顔を輝かせるのを見れば、とりあえず嫌がらせではなさそうだということだけはわかった。

多少浮世離れしたところのある後輩だとは気がついていたものの、まさかこんなものをプレゼントされる日が来るとは夢にも思わなかった。しかし真面目に選んでくれたのだろうから笑い飛ばすわけにもいくまい。なんと言うべきか頭をフル回転させる私の前で、彼女はもじもじと両手の指を組み合わせる。

「あの、何がお好きかわからなかったので……」

照れくさそうに微笑んだ顔を見て、なんとなく嫌な予感がした。最悪の展開を思い描いてしまった自分の脳を恨みたい。待ってくれと懇願するより早く、果たして彼女の口から飛び出した言葉は容赦なく私の頬を打った。

「五条さんに相談したら、七海さんは紙粘土アートがご趣味と教えてくださって」

親切ですよね、五条さんって。

無邪気に言った彼女に、どんな言葉をかけるべきかはわからなかった。怒りを通り過ぎると虚無に辿り着くのだと言うことを、私はそのとき初めて知った。

五条悟の舌がどれほど軽薄であるかは、この学校にいれば誰もが知るところだ。ただひとり、目の前の彼女を除いて。まだ高専に入って日が浅く、さらに人を疑うということをまるで知らないで育ってきたような彼女は、五条さんのことをただの優秀な先輩としか思っていないようだった。そうしてまんまとその毒牙にかけられたというわけだ。たぶん、おそらく、絶対、私をからかって面白がるためだけに。

私は深く溜息をついた。あの人は本当に余計なことしかしない。どうかしているんじゃないのか。本当に。……いや本当に。

あまりの出来事に言葉を失っていると、彼女の笑顔はみるみるうちにしゅんとしおれていった。俯く寸前、目尻に涙の粒が浮かぶのが見えてハッとする。そうだ。いまは五条さんどころではない。

「す、すみません。ご迷惑でしたよね、急に……」
「いえ。嬉しいです。とても」

きっぱりと言い切ってやれば、彼女は伺うようにこちらを見上げた。その瞳から視線を逸らすことなく、もう一度口を開く。

「ちょうど手頃な紙粘土がほしい気分でした」
「ほ、本当ですか……?」
「はい。本当に」
「……よかった……」

心底安堵した様子の笑顔に、言いようのない幸福感が胸を満たす。ああ本当に、柄でもないな。

「……ミョウジさん」
「はい?」
「ひとつ……いえ、ふたつお願いがあります」
「な、なんでしょうか」

私は一度姿勢を正してから、彼女の顔をまっすぐに見つめた。手の中の重みはこの際、とことん無視することにした。

「まず、五条さんとは金輪際、口を利かないでください」
「え」
「それから、」

ひとつ息をつく。いま自分はどんな顔をしているだろう。少なくとも彼女以外の他人には絶対に見せたくないことだけは確かだ。

「……今度、二人で食事でも」

大きな目をさらに見開いた後、彼女は花のような笑顔で頷いた。この顔も、他人には見せたくないな。

 

 


紙粘土は五条さんの部屋のドアの隙間に詰めました。

Title by 天文学