雨降りとざわめき

※120話後のお話

 

 

 

ぱたぱたと雨粒が窓を叩く音で目が覚めた。重い頭を上げて壁の時計を見る。もうすぐ日が登る時間だというのに、外はまだ真っ暗だった。

去年買った小さな電気ストーブの灯が、部屋をぼうっと朱く染めている。丸まった体をゆっくり起こすと、古い家具のように全身がぎしぎしと軋んだ。床に転がったまま寝てしまっていたみたいだ。ああまた怒られるなあ、と考えた後で、わたしを叱る人はもういないのだと気がついた。

ストーブを切って、部屋を出た。

 

 

なんとなく乗った電車にはやけに人が少なくて、ようやく今日が日曜日だと思い当たる。ここ最近、ろくに休みも取らず任務を入れ続けて、帰れば眠るだけだったから、曜日の感覚を失っていた。

眠るというより、意識が途切れるといった方が正しいのかもしれない。覚醒しているのかいないのか、生きているのか死んでいるのか、今日が昨日の続きなのか、それすらも怪しくなってきたけれど、それでいいとも思っていた。

座席の背もたれに体を預け、見るともなしに窓の外へ目を向ける。街は徐々に明るさを取り戻しつつあった。降ったり止んだりを繰り返す雨は、夢と現実を行き来する感覚に似ていて、わたしはまた覚束ない意識の狭間に入り込んでいく。

この世界に七海がいないことは、どうやっても確かめようがなかった。だって家に帰れば彼のにおいがするし、きちんと手入れされた大きな革靴も、お揃いで買ったマグカップも、彼のお気に入りのクッションも相変わらずそこにあった。本人だけが、透けてしまったかのように見当たらない。だからわたしはいつまで経ってもふわふわした心地のまま、曖昧な日々をただ消化していた。

ふっと車窓の景色が消え、わたしは目を瞬かせた。どれくらい時間が経ったのか、ぼんやりしている間に電車は長いトンネルに差しかかっていた。蛍光灯の明かりがいやに目につく。車両にはもう数えるほどしか乗客は残っていなかった。

……このまま、七海のところまで連れて行ってくれないかなあ。

そんな馬鹿げたことを冷静に考えている自分がいる。論理的な思考回路はもうずいぶん前から働いていなかった。真っ暗な窓にぼうっと浮かび上がった人影と目が合う。ひどく疲れた顔をしたその女が自分だと分かるまで、少し時間がかかった。

 

「ミョウジさん。最近また任務を詰め込んでいますね?」

咎めるような七海の声がした。あれは何年も前の夏だ。繁忙期と夏バテが重なって、わたしはひどい有様だった。

「いくら人手不足だからといって、あなただけが頑張ることでもないでしょう」
「別にいいのー。ほかにやることもないし」
「やることとは?」

昼食代わりの栄養ドリンクとアイスクリームを流し込むわたしに、七海はいつもの実直な様子で訊ねてきた。真夏だというのにきっちりと締められたネクタイが暑苦しい。わたしは面倒くさくなって、半ばヤケクソに答える。

「彼氏と海とか彼氏とドライブとか彼氏と花火大会とか」
「……つまり恋人がほしいんですか」
「いらない。仕事が恋人だもーん」

案外それは強がりでもなかった。他人というものにとんと興味を持てなかったわたしは、男女の交際など自分には縁遠いものだと理解していた。ただただ一番適性のあった呪術師として働いて、お金をもらって、たまに好きなことに使って。そういう生活で満ち足りていた。

「それに、呪術師なんていつ死ぬかわからないんだから。生きてるうちに少しでも貢献しといたほうがいいでしょ」

何に貢献するのかはよくわからないけど。

そう付け足せば、七海は短く息を吐いてサングラスを外した。ミョウジさん。もう一度名前を呼ばれ、少し高い位置にある七海の顔を見上げる。いつも鋭いその瞳には滴るような優しさが滲んでいて、わたしは少し面食らった。

「第一に」

七海はわたしの目を見ながら、子供に聞かせるようにゆっくりと、穏やかな口調で喋る。

「人間、死ぬときは死にます。だからそんなに生き急いでも無意味です」
「身も蓋もない」
「第二に、明日からのあなたの任務は半分、私が代わります」
「ええー、いいよそんなことしなくて。七海だって忙しいんだから」

わたしの言葉を無視して、七海はスマートフォンで素早くメールを打った。たぶん高専に連絡を入れたのだろう。本当に代わってくれるつもりなんだ。黙って見つめていると、画面から顔を上げた彼は、さらに続けた。

「それから、このあとご予定は?」
「……ないけど」
「では今から車で海へ行って花火を見ましょう」
「七海とわたしで?」
「私とあなたで」

七海の顔は至極真面目だ。そもそもこの人がこの手の冗談を口にするとは思えない。五条さんじゃあるまいし。だとすると。

「それって、つまり……」

おそるおそる訊ねると、七海は少し笑った。

「私は——……」

あのとき、七海はなんて言ったんだっけ。

 

突然、ごうっと大きな音がして視界が明るくなった。
トンネルを抜けた電車の外には、海が見えた。遠くの空で雲が割れ、切れ間から幾重にも重なった光の帯が海面に向かって延びている。天使の梯子というのだと、いつか七海が教えてくれた。

特に目的地も決めていなかったわたしは、導かれるように電車を降りた。目の前にはもう砂浜が広がっていた。靴を脱いで裸足になって、雨で湿った硬い砂の上を波打際まで歩く。冬の海はきんと突き刺すように冷たい。なのに水面を照らす光があまりにも美しいから、わたしは膝下まで水に浸かりながら海の中を進んだ。

七海は読書家で、博識だった。難しい専門書からどこかの国のお伽話まで、ありとあらゆる本を読んでは、わたしにいろんな話を聞かせてくれた。仕事以外のことにほとんど関心がなかったわたしにも、彼の話は面白く聞こえた。いつの間にか、わたしも彼の本棚の本を読むようになっていた。

そういえば、海辺の家で本を読んで暮らしたいと言っていたっけ。わたしも一緒に行きたいと言ったのに、勝手に置いて行っちゃったのかな。意外と薄情なやつだ。

——そのとき正面から強い風が吹いて、わたしは自分が泣いていることに気がついた。潮風が涙の跡を掠めると頬がひりひりと痛んだ。顎まで伝った涙はぼたぼた落ちて、足元の潮水に混ざっていく。いつか七海と見た海。七海が好きだった海。

「な、なみ……」

久しぶりに彼の名前を口にしたら、びっくりするくらい涙があふれた。次から次へと、この数ヶ月溜め込んでいた何かがぜんぶ一気に噴き出してきたかのように、止まらなかった。

「ななみ……っ会いたいよぉ……」

涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、子供のように声を上げてわたしは泣いた。このまま泣き続ければ、七海がぴしっと糊のきいたハンカチを持って現れるんじゃないかと期待した。泣きながら、雲が晴れるように鮮やかに甦ってくる彼の輪郭を心の中でなぞった。

『私は、あなたが元気で笑っている世界が見たい』

いつかの夏の日、わたしを丸ごと包み込むような優しい声で言った七海を思い出す。わたしの頭を撫でて、手を握ってくれた無骨な指を、淡い光を灯した瞳を、お日さまみたいな金色の髪を。

どうしてくれるんだ。七海がいろんなことを教えたせいで、わたしはこんなにもさみしさを知ってしまった。こんなにも、愛を知ってしまった。なのに、突然いなくならないでよ。

わたしはぎゅっと口を結んで、強引に目元を拭った。

帰ったらあたたかいお風呂に入って、ちゃんとごはんを食べて、たくさん眠ろう。
そうしてまた生きていこう。いつか死ぬそのときまで。

遠くなる雨降りと
ざわめきを追えば
そこは海

あなたがどこかで笑っていますように

 


Title by 天文学