僕のレディ・プラチナ

※「群青に溺没」の少し前のお話です。五条視点。

 

 

数回の逡巡の後、ようやく目の前のドアをノックした。コンコン、と乾いた音が響いて、すぐに中から応答がある。

「はーい」
「ナマエさん。俺だけど」

緊張を悟られないように、つとめて冷静に。何でもない風を装って声をかけると、数秒もせずにドアが開いて、彼女がひょっこりと顔を出した。

「悟くん? いらっしゃい」

どうしたの?なんて言いながら、もう半身になって俺を迎え入れようとしている。その無防備さにいきなり頭を殴られたような感覚がした。

「ごめん。寝てた?」
「ううん、全然。本読んでたら止まらなくなっちゃって」

ナマエさんはくつろいだ表情で笑っていた。深夜にいきなり後輩の男が押しかけて来ても嫌な顔すら見せない。この人は一体何をされたら怒るのだろうか。そんな優しさに付け込んでいる自覚はある。

「ちょっと課題でわかんないとこがあって、教えてほしいんだけど」
「え、私に教えられるかなあ……」

あらかじめ用意しておいた言い訳はするすると口から出てきた。拒む素振りもなく踵を返すナマエさんに続いて、俺も部屋の中に入る。少しだけ躊躇ったが、開け放しておくのもなんなのでドアを閉めた。

柔らかいパステルカラーでまとめられ、清潔に保たれたシンプルな部屋だ。この部屋に入ったことは何度かある。けれど夜に来るのは初めてだった。しかも二人きり。こんな時間に訪ねる俺も俺だが、それをなんの疑いもなく受け入れてしまうナマエさんは、ちょっと信じがたいくらい警戒心が薄い。こちらに背を向けて電気ケトルをいじっている彼女の小さな頭を見ていたら腹の底がざわりとして、慌てて顔を背けた。

「悟くん、紅茶でいい?」
「え、あー、紅茶、紅茶でいい」
「今日はねえ、お菓子もたくさんあるよ。アルファートに、パントリーマアムに、おせんべいも」

大人しくローテーブルの前に座って待っていると、マグカップになみなみと注がれた紅茶と、未開封のお菓子の袋がどっさりやって来た。歌姫先輩にもらったんだーと呑気に笑っているナマエさんには、なんとか腹に収めた邪な気持ちには絶対に気づかれてはいけない。

「それで、どこが分からないの?」

真面目な顔で尋ねられて、はたと思い出す。そうだ、そういう口実でここにいるんだった。自分の部屋から適当に掴んで来た教科書を開いて、適当な問題を指す。どれどれ、と覗き込むナマエさんはやっぱり根っからのお人好しなのだと思う。

「あ、これはね。資料集を参考にするといいよ」

そう言って立ち上がったナマエさんは、本棚からその資料集とやらを取ってくると、付箋の貼られたページを開いて見せてくれた。几帳面な字で“テストに出る!”とメモ書きがあるのが彼女らしくて、つい笑ってしまいそうになる。

「ここのね、この統計の数字を拾って……」

とある統計資料を差し示す彼女の細い指をたどって、その横顔を眺めた。俺が資料集なんかこれっぽっちも見ていないのに、ナマエさんは気付くこともなく親身に問題を解説してくれている。

いつだってこんな風に一生懸命に向き合ってくれる彼女を、好きだなと思う。彼女のそばにいるのは心地よかった。ずっと目を閉じてその声だけを聞いていたいくらいに。

「……悟くん、聞いてる?」

ぼーっと考え事をしていたら、さすがに上の空であることがバレてしまったようだ。ナマエさんは、珍しく少しだけむくれたような顔をしていた。この顔を見れただけでも価値があるな。そんなバカみたいなことを考えながら、壁の時計を見た。そろそろかな。

「ナマエさん」
「な、なに?」

急にあらたまった声を出した俺に、ナマエさんは身構えた。そういう素直なところが可愛い。俺はポケットに忍ばせていたものを丁寧に取り出して、彼女の目の前に持っていく。

「誕生日おめでとう」

満面の笑みで言ってやれば、ナマエさんはぽかんとした後にその丸い目をさらに見開いた。

「わあ……! うわーうわー、ありがとう……!」

頬を紅潮させて驚く彼女の手のひらに、リボンが巻かれた小さな瓶を乗せてやる。中には色とりどりの金平糖が詰まっていた。

ナマエさんの誕生日か迫っていると知ったのは、つい1週間前のことだ。硝子がにやにやした顔でこちらを見てくるので問いただしたら教えてくれた。後で雑用の肩代わりをさせられたが、安いものだ。ナマエさんは自分から主張する人ではないから、硝子に聞かなければ知らずに終わるところだった。

とはいえ既に俺の今週の予定はいっぱいで、何を贈るべきか考える余裕も、選びに行く時間もほとんどなかった。あまり高価なものは受け取ってくれないだろうし、かといってちゃちなものをあげる気にもなれない。

そうして悶々としていたとき、任務先の京都でこの小瓶を見かけた。世界の優しい色を集めて閉じ込めたようなそれを、彼女に贈りたいと思った。

「大したもの用意できなかったんだけど」
「ううん、ううん……嬉しい……」

ナマエさんはその瓶をそっと撫でた後、光に翳して透かし見ながら、宝石みたいだね、なんて幸せそうにささやく。やわく目を細めた横顔があまりに優しくて、息が詰まった。

ああ。俺はそんな彼女が、たまらなく、

「——好きだなあ」

どうしようもない想いは、胸から溢れ出して小さな呟きになった。驚いたようなナマエさんの瞳がこちらを向く。もうこの際、気づかれてしまってもよかった。心の内をすべて晒してしまいたくすらあった。

……しかし、このとき俺はすっかり忘れていたのだ。この人が俺にとって、どんな呪霊よりも手強い存在であることを。

「……悟くんも好きなの? 金平糖」
「……え」
「じゃあ一緒に食べよっか」

無邪気に微笑んで早速リボンを解こうとする彼女に思わず待ったをかけたくなるが、すんでのところで思いとどまる。

まあいいか、今日は、ナマエさんが幸せそうだから。

「……うん、一緒に食べよう」

僕のレディ・プラチナ

「今度、ナマエさんの好きなもの買いに行こ。誕生日プレゼント」
「え!? これで充分だよ! ありがとう」
「……(デートしようよって意味なんだけど)」

 


外堀を埋めたそばから決壊するので、もはや正面突破しかないと分かった五条くん。

Title by 誰花