青き路抜ける、花ざかりの森

※「これは進行性のやまいです」の卒業後。五条視点。

 

 

 

空港のだだっ広いロビーを抜けて外に出ると、生ぬるい風が強く吹き付けた。昨日まで欧州にいた体には、日本の夏はなかなか堪える。おまけに今日の天気は下り坂で、見ているだけで気が滅入りそうな暗い空には、重く分厚い雲が垂れ込めていた。

じめっとした空気を掻き分けるように早足で歩き、迎えを探してロータリーをうろつくが、それらしき車が見当たらない。程なくして、ポケットの中のスマホが振動した。……伊地知からだ。嫌な予感がして即座に通話ボタンをタップする。ためらいがちに話し出した伊地知の声の感じからすぐに、その予感が的中したことを悟った。

『……すみません五条さん、事故で渋滞してまして、まだしばらくかかりそうです……』
「あと三分以内に来て。遅れたら説教」
『えええ……!?』

か細い叫びは面白いほど裏返って、電話の向こうで彼が縮こまっているのが目に浮かぶようだ。理不尽な自覚はあった。しかし今は八つ当たりでもするほかない。

——早くナマエに会いたい。時差ボケでゆるんだ僕の頭の中には今、それだけしかなかった。

 

『悟、昨日はちゃんと眠れた? お腹壊してない?』

帰国の飛行機に乗り込む前、ナマエと電話で交わした会話を思い出す。相手は僕だと分かっているくせに、もしもし、と控えめな声で伺うように喋り出すところがいじらしかった。ひとつ年上の可愛い恋人は、いつも至って真面目に、まるで子供のはじめての遠出を案じるように僕を心配してくる。それがおかしくて、用もないのに何度でも電話をかけてしまう自分がいた。

「大丈夫だって。僕をいくつだと思ってんの?」

こらえきれずに半分笑いながら言ってやると、ごめんと少し慌てた声がする。

『近くにいないとなんだか落ち着かなくて……悟どうしてるかなって、そればっかり考えちゃって』

ばかだよねえ、と照れたように小さく笑うナマエに、たまらない気持ちになる。電話を握りしめる小さな手も、花が綻ぶように笑った顔も、何もかもすぐそこにあるかのように思い浮かべることができた。

最強と呼ばれる存在として生きてきて、僕を心配する人間などほとんどいなかった。当たり前だ。世の中の人はみんなびっくりするほど弱い。腫れ物に触るようにおっかなびっくり接してくるか、遠巻きに眺めるか、下から睨みつけるか。一部のイカれたやつらを除けば、だいたいそのどれかだ。

ナマエはそのどれとも違った。羨みも妬みも蔑みもしない、イカれてもいない。なんで呪術師なんか続けているのかちっとも分からない、普通の人間だった。ただいつも気がつけばそこにいて、欲しいときに欲しいだけの優しさをくれた。ナマエの前では僕は最強でもなんでもない、ただの“悟”だった。

「……ばかだねえ、ナマエは」

そんなまっさらな彼女が眩しくて、愛おしくて、誰にも渡したくないと思った。好きだと告げたときの彼女の泣きそうな顔を、今でもよく覚えている。あんなに必死になって女を口説いたのは初めてだったな。きっとこれから先も二度とないだろう。

『うん、だから、早く帰ってきてよ』
「だからの使い方おかしくない?」
『なんでもいいから』

早く悟に会いたいんだよ。
そんな風に言われたら、頷く以外に選択肢はなかった。お人好しを絵に描いたような彼女のたまに見せるちっぽけな我儘が、僕にどれだけの優越感と幸福感をもたらしているか、彼女は分かっていない。

「——お土産いっぱい買ったから、楽しみに待ってて」

 

にやける頬を叱咤して電話を切ってから、かれこれ半日余り。こんなところで悠長に伊地知を待っているわけにはいかないのだ。

どうにかならないかと策を求めて辺りを見回していると、とある看板が目に入る。…これだ。

「……あー、伊地知。やっぱもう来なくていいや」
『は、はい!?』
「僕、自分で運転して帰るから」
『え? 五条さ、』
「はいじゃあオツカレー」

ぶちっと通話を切って、すぐにロビーまで引き返す。一番手近なレンタカーカウンターで四駆を借りて、手続きもそこそこに運転席へ乗り込んだ。

早くあの柔らかい体を抱きしめて、キスをして、どろどろに甘やかして、甘やかされたい。
もう五年以上も付き合っているというのに未だにそんなことしか考えられないのだから、始末に負えないのだ。

「……僕も末期だね、こりゃ」

だんだん近づいてくる嵐の気配を尻目に、思い切りアクセルを踏んだ。

青き路抜ける、花ざかりの森

「や。ただいま」
「え、さと、車、え?」
「早く会いたくて飛んで来ちゃった」

 


「外出てみてー」と呼び出されてびっくりの先輩。五条さんに運転させたかっただけのお話。

Title by 天文学