溶けた氷が海になる

体育館の入り口に、そこそこ立派な業務用の製氷機がある。
部活もないこの学校で一体誰がこんなものを使うのかと常々不思議に思っていたのだが、なるほどこういうときに役に立つのだとぼんやりする頭で考えながら銀色の扉を開けた。

盛夏を迎え、都内では連日三十五度に迫る真夏日が続いている。それは山奥にある高専も例外ではなく、こんな風によく晴れた午後は渡り廊下を吹き抜ける風までもがぐらぐらと煮え立つようで息苦しい。一心不乱に啼く蝉たちの声は分厚い膜のようになって辺りを覆い尽くしている。
額からじっとりと滲んだ汗が顎まで伝い落ちた。自分の体が熱いのか、周りの空気が熱いのか、よくわからない。

プラスチックの小さなスコップで氷を掬い、のろのろと手元の袋に詰めていく。端っこがひび割れた赤茶色のゴム製のそれが、医務室で見つけることのできた唯一の氷枕だった。アイスノンとかないのかよと悪態をつく元気もない。

「あ」

狭い口に入りきらなかった氷が一粒、零れ落ちてコンクリートの床を滑っていく。それは誰かの靴の爪先に当たって止まった。
……あーあ、一番見られたくない人に見つかってしまった。

「……五条さん」
「なーにやってんの」

やたらと大きい靴から上へ視線をやれば、今日の空みたいに燦々と輝く青い瞳がこちらを見下ろしていた。楽しげなその目にはひとつの曇りもない。体調万全、元気いっぱいといった様子である。羨ましい。

「氷枕を作ってます」
「へえ。誰か熱でも出してんの?」

五条さんはズカズカと私の隣へやってくると、水飲み場の蛇口を捻って勢いよく水を噴射させた。あっちー、と言いながら豪快に顔を洗う様は遊び盛りの犬みたいだ。白い髪が水飛沫の中でプリズムのように光を散乱させる。制服の上着を脱いでいるあたり、きっとこれから体育館でバスケでもするんだろう。いたずらに跳ね回る水玉を避けるため、私は渋々と氷枕をそのままに距離を取った。

五条さんは一つ上の先輩だが、歳上ということを充分に加味したってどうにも不遜な振る舞いが多い人だった。こちらの都合や事情などお構いなしに踏み込んでくるその容赦のなさが苦手で、これまで二人きりで話したこともない。そうなる前にうまいこと逃げてきたのだ。だけど今日このとき、教室棟へと続く長い廊下には助け舟になりそうな人影はひとつもなかった。
ふう、と息を吐く。足元に絡まる熱風よりも熱い。

「……私です」
「あ?」
「私です、熱あるの」

だから早くどこか行ってください、と暗に含めて言ってみるが、この人に伝わるだろうか。
顔を上げた五条さんと目が合う。まっすぐな青い眼差しがなんだか痛くて俯いた。今日はこの視線を正面から受け止める力がない。さっきから背筋がぞくぞくして、こんなに明るい夏空の下にいるのに指先がどんどん冷たくなっていく。

早く部屋に戻って横になりたい。それしか考えられなくなった私の額に、おもむろに五条さんの手が触れた。少し濡れた肌はひんやりと冷たい。「うわ、あっつ」いや、私が熱いのか。

「……雑魚でも風邪引くんだな」

五条さんはいつもえらそうで口が悪い。この人から見たら誰も彼も雑魚であるので何も言い返せず黙っていると、不意に手首を取られた。置きっぱなしにしていた氷枕を小脇に抱え、五条さんは私の手を引いて渡り廊下を歩き出す。「え、ちょっと五条さん」制止する声は、五条さんの肩と耳に挟まれた携帯から漏れる微かな呼び出し音に阻まれてしまった。

「あ、傑? 悪い、ちょっといまからコンビニ行ってくる。あとさあ、熱出たときって何食えばいーの? ……いや俺じゃなくてナマエ」

相手は夏油さんみたいだ。きっと二人で遊ぶ約束をしていたんだろう。ていうか私の名前、覚えてたんだ。いつもオイとか雑魚とか呼ばれてたから知らないんだと思ってた。……ああ、五条さんの手、冷たくて、気持ちいいな。

「あー、なんか食えそうなもんある?」

ふ、と五条さんが振り返った。

頭がくらくらする。うまく回らない思考の隅にぽつりと浮かび上がった言葉を私はそのままに口にする。ふたつの青が蜃気楼みたいに揺れて、まるで夢の中を歩いているようだった。

「……みつまめ」

溶けた氷が海になる

幼い頃、私はよく熱を出す子供だった。
両親は忙しい人たちだった。古くから続く術師の家系で、父は一級呪術師として全国を飛び回り、母はそんな父の代わりに家の中のあらゆることを取り仕切ってめまぐるしく働いていた。兄弟姉妹の中で体の弱かった私は、二人から特段の期待も掛けられず育った。

自分の面倒は自分で見なければならない。私が熱を出すたびに困った顔をする母を見て、子供心にそう悟った。つらいと言ってはいけない。そばにいてほしいと望んではいけない。誰もいない座敷でふうふうと熱い呼吸を繰り返しながら、自分に言い聞かせた。
傍らにはいつも、母が使用人に届けさせてくれる蜜豆の器があった。涼しげなガラスの碗に浮かぶ乳白色の寒天と鮮やかな果物のコントラスト。障子越しの薄明かりに透けたあの色を、いまでもふと思い出す。

 

「――熱下がったー?」

無遠慮な声で、浮き沈みを繰り返していた意識が急速に覚醒した。
見慣れた天井が目に入る。午後の真っ白な光がぼんやりと影を作っている。あれほどうるさかった蝉の声がいまはさざ波のように遠く聞こえた。

「……そんなにすぐ下がりませんよ」
「は、やっぱ雑魚だな」

軋む音と共に開いたのはあの日の障子ではなく、寮の自室のドアだった。五条さんは何の躊躇いもなく侵入してきて、テーブルにコンビニの袋をどかりと置いた。異性の部屋にこんなにも気安く上がり込むのはどうなのかと言ってやりたかったけれども、いまさらなので結局は口を噤んだ。朦朧とする私をここまで連れてきてくれたのも、頭の下に氷枕を敷いて布団をかけてくれたのも、薬箱から解熱剤を出して飲ませてくれたのも、全部この人だ。

「さすがにまだ熱いな」

五条さんの手のひらがぺたりと額に触れる。さっきより少しだけぬるく感じた。だからまだ下がってないって言ってるのに、ちっとも聞いてないなこの人。

「あの」
「スポドリ買ってきたから、水じゃなくてこっち飲めよ」
「五条さん」
「あとアレ……ったく、どこにも売ってなくてめちゃくちゃ探した」

そう言って五条さんが袋から取り出したのは、プラスチックの容器に入った蜜豆だった。ここからだいぶ離れた場所にあるコンビニのロゴマークが入っている。

乳白色の寒天と、色鮮やかな果物たち。大きな手の中でそれは宝石みたいにきらきらと輝いている。顔を上げれば、上から二つ目までボタンが外されたワイシャツの首元を汗が一筋、伝っていくのが見えた。外はきっとひどい暑さだったろう。

「ありがとう、ございます……」

何かもっと言いたかったのに、形にできたのはそれだけだった。
不意に私の中に幼い頃の自分が戻ってくる。じくじくと啼く蝉の声、重たく迫ってくる畳の青臭い匂い、終わりの見えない熱と、自分の輪郭が溶け出して消えていってしまいそうな、底知れない心細さ。

「あと、してほしいことは?」

当たり前のように尋ねられて、胸が詰まった。
その声があんまり優しかったからかもしれない。触れ合った体温が泣きたくなるほど心地よかったとか、こちらを覗き込むアイスブルーの瞳が見たこともないくらい柔らかく細められていたとか、それともやっぱり熱に浮かされていたせいかもしれない。ずっと喉の奥につかえていた何かがするすると溶けていって、躊躇う暇もなく、私は口に出していた。

「……じゃあ、食べ終わるまで、ここにいてください」

五条さんの大きな瞳が零れんばかりに見開かれ、一秒後には意地悪く弧を描く。からかわれることなんかわかりきっていたので、私は素早く蜜豆のカップを五条さんから奪い取った。五条さんはニヤニヤと笑いながらベッドに腰を下ろしてこちらを見つめてくる。でも、不思議と嫌な気分にはならなかった。

「ふーん。俺の優しさに惚れちゃった?」
「……調子に乗らないで」
「おーおー、減らず口叩けるなら上等じゃん」

五条さんはいつもえらそうで口が悪くて、少しだけ優しい。汗で湿った髪を五条さんの手がぐしゃりと掻き回してくる。黙って口に含んだ蜜豆はあの頃よりずっと甘く感じた。

 

 


高専五はあれで案外に面倒見がいいと思うのです。
Title by エナメル