白濁する透明

「あれえ、ごじょおさんだあ~」

目的の店に着くより早く、舌足らずに名前を呼ばれてふと顔を上げた。
金曜日の二十二時過ぎ、駅から繁華街へと続く通りは飲み会帰りらしい会社員や大学生の集団で賑わっている。僕は向かいからぶつかってきた赤い顔のサラリーマンをやんわりと躱し、声のしたほうへと視線を向けた。寒空の下、コートのボタンを留めることもせず、にへらと笑って立つ彼女の姿があった。

「は? 何してんの、ひとり?」
「うん、ひとりですよお」

トコトコと茶色いブーツで歩み寄ってきた彼女の頬に触れる。ずいぶん酔っ払っているようなのに、真っ白な肌は凍てついたように冷たい。店からここまではそんなに離れているわけでもないが、この千鳥足では結構な時間がかかったことだろう。「みんなは? まだお開きの時間じゃないでしょ」「うん、そおなんですけどねえ……」と続く言葉を待たず、自分のマフラーを外して彼女の細い首に巻きつけた。ふわりと、よく知ったシャンプーの香りに紛れて、濃い酒の匂いがした。

「迎えに行くから待ってろって言っただろ」
「ごめんなさい、はやくかえりたくなって」
「なに、明日早かったっけ?」
「そうじゃ、ないんですけど……」

歯切れ悪く言ったきり、ナマエはすんと押し黙った。拗ねたように唇を尖らせて俯く姿は幼い子供みたいだ。しばらく待ってみたもののそれ以上の答えは出てきそうになかったので、僕は力なく垂れ下がった小さな手を取って、自分のコートのポケットに突っ込んだ。

「まあいいや。帰ろ」
「うん、あの、ごじょさん」
「今日は僕んちでいい?」

いまだに何かを言いたげなナマエを見下ろして問えば、彼女は丸い瞳をふらりと揺らして、それからいつもの半分くらいの声で「……はい」と小さく答えた。

「コンビニ寄る? 歯ブラシはこの前のやつ、まだあるけど」
「……あいす、たべたいです」
「この寒いのに?」
「うん」
「いーよ。あとは?」
「あとは……」

ほう、とナマエがひとつ息を吐く。真似をするように、僕もその隣で夜空に息を吹きかけた。星屑みたいな白い欠片が真っ黒な空からひらひらと落ちてくる。明日には積もるのだろうか。

「ごじょうさん、あのね」

ポケットの中でナマエの手がもぞっと動いて、僕の手を握った。まだ冷たいその指先に体温を擦り込むように握り返してやる。
ナマエの歩幅はただでさえ狭いのに、酒を飲んだときの歩みはまさにカメのようだった。のろのろ、ふらふら、とぼとぼ。そんな効果音がつきそうなその歩調に合わせて歩くのが案外嫌いじゃないと、気づいたのはずいぶん昔のことだ。

「なあに」
「きょう、後輩のおんなのこに、いわれたんです。ごじょうさんと付き合ってるんですかって」
「へえ。それでお前はなんて答えたの?」
「つきあってないよって、ちゃんといいましたよ」
「……そ。で?」
「おうちに泊まっても、いつもなんにもないよって。そうしたらね、よかった~って、いってました」

あの子は、五条さんのことが好きだから。
ぴたり。少しずつでも進んでいたナマエの足は、そこでついに止まった。駅はもうすぐそこで、ネオンの消えた街の中でひとつだけ見える地下鉄の看板の明かりに吸い寄せられるように、幾人もが僕たちの横を通り過ぎていく。

「……『じゃあ先輩は、五条さんから女として見られてないんですね』って、いわれちゃいました」

ナマエは長い睫毛を伏せて、ふわりと笑った。淡雪みたいな、かすかな笑みだった。

ミョウジナマエは、学生時代からの後輩だ。卒業後も呪術師と補助監督としての付き合いが続いている。僕たちの関係は、ただそれだけだった。
高専の寮で雑魚寝をしていたときからも、初めての酒で酔い潰れたナマエを家に連れ帰ったときからも、何も変わっていない。変えるつもりもなかった。ナマエがそれを求めていなかったから。ただ、危なっかしい小さな手を握って歩くのが僕であればいいと思った。できるだけ長い間、たとえばこうして少しずつ雪が降り積もって、辺りを白く覆いつくすまでの時間みたいに。

「それを聞いたら、わたし、なんだかすごくモヤモヤして。はやくかえりたくなって、だから、ひとりで先にでてきちゃったんです」

どうしてですかねえ、と途方に暮れたような声でナマエが言う。寒さで仄赤く色づいた頬に手を伸ばした。ふっと視線が交わり、その唇が僕の名前を紡ぐより早く、口を塞いだ。

「……え、ごじょ、さん」

零れ落ちそうに見開かれた黒い瞳がいとおしい。ふるりと震える睫毛の先に雪の粒が舞い落ちて消えるまで、瞬きもせず、ただナマエを見つめた。

「なに」
「えっと、なんで、きす、いま」
「……知りたい?」

ポケットの中で、熱い手を強く握りしめる。白濁する吐息に混じったアルコールの匂いに、くらくらした。

「――明日までちゃんと覚えてたら、教えてあげる」

白濁する透明

 


以前、ワンライ企画で投稿したお話です。