レイニー・ブルー・プラネット

「好き、って言ったらどうする?」

ごうん、ごうん、ごうん。
低く唸るような機械音の合間をくぐり抜け、彼の声はまっすぐに私の耳まで届いた。けれどもその言葉の意味を測るにはあまりに唐突すぎて、なぜなら私たちはいまのいままで互いに黙々と読書を続けていたわけで、私はとりあえず手元の小説に栞を挟み、向かいから意味ありげな視線を投げかけてくる男の顔を見やった。

さっきまで彼が読んでいたはずの文庫本は、白いプラスチックのテーブルに開いたまま伏せられている。跡がつくからやめたほうがいいよって、いつも言ってるのに。

「……えっと、ごめん。なんて言ったの?」
「だから、好きって言ったらどうする?」
「誰が何を?」
「僕が、お前を」

頬杖をついているのとは逆の手で、彼――五条くんはまず自身の顔を指差し、それからゆっくりとその長い人差し指をこちらへ向けた。僕が、お前を。その言葉を丁寧になぞるように。

ふわりと揺れた白い髪の向こう側に視線を泳がせる。清潔感のあるまっさらな漆喰の壁に沿って、大型の洗濯乾燥機がいくつも並んでいた。そのうちのひとつで、いままさに私の家のサマーブランケットがぐるんぐるんと回っている。雨に打たれ、風に飛ばされ、野良猫の泥んこ足に踏み荒らされた、水色の花柄のブランケットだ。

「で、どうするの?」

遠くへ飛んで行きそうな私の意識を掴んで引き戻すように、五条くんはなおも言葉を重ねた。夕飯の献立どうする? とでも言うような穏やかな声だったから、思わず「ビーフカレーがいいな」なんて答えたくなる。

「どう、するって……」

わけもなく、壁にかかった時計に目をやった。それから大きな窓へ、そしてテーブルの上の文庫本へ。

いまどきのコインランドリーは随分とスタイリッシュに作られている。モノトーンでまとめられたテーブルや椅子は真新しく、間接照明が照らし出すシンプルなロゴマークは海外のブランドみたいにお洒落だ。ともすれば流行りのカフェにすら見えるこの空間に、いまは私と五条くん、ふたりだけ。

「好きって言ったら、僕のものになってくれるの?」

――乾燥機、あと十分くらいかな。ぼんやりとそんなことを考えながら、結局定まることのなかった視線を正面に戻す。濡羽色のサングラスの奥にある瞳が、ゆるやかな弧を描いた。

ごうん、ごうん、ごうん。ドラムの回る音がする。

 

 

五条くんが私の住むマンションをたびたび訪れるようになったのは、高専を出てお互いに一人暮らしを始めてからすぐのことだった。

最初は、出張のお土産を買いすぎたからとかそんな理由だったと思う。まるっと大きなロールケーキを持って深夜に突然現れ、「一緒に食べよ」と満面の笑みでのたまった彼のことを、どうにも私は追い返すことができなかった。

学生時代からずっとそうだ。私は五条くんの笑顔に抗えた試しがなかった。あのビー玉みたいな青い瞳をきゅっと細めて見つめられると、途端に言葉が出て来なくなって、一秒後には何を考えるまでもなく首を縦に振っている。
私という存在は、きっとそういう風にできている。そうとしか思えなかった。その目をじっと見つめ返すときに決まってこの胸に去来する感情が、ただのクラスメイトとしての親愛の気持ちからはほんのちょっぴり外れていることにだって、もちろんちゃんと気がついていた。

五条くんは五条くんで、そんな私を知ってか知らずか、いつもそよ風みたいにふらりと現れては、竜巻のようなワガママを撒き散らかして行った。やれ紅茶を淹れろだの、夕飯にハンバーグを作れだの、サドンデスばば抜きをしようだの(結局、最後までルールはわからなかった)と騒ぎ立てたかと思えば、朝までナナテレビ! とか言って出張任務中の七海建人にビデオ通話を敢行し、私まで怒られたこともある。

それでも私は、ついぞ五条くんに腹を立てることがなかった。私の家の小さなソファで、狭い狭いと文句を言いながら窮屈そうに丸まっている五条くんを見るのは幸せだった。彼がそうやって甘えたり気を許したりできるくらいには自分は特別なんだと、自惚れることができたから。

 

「いい加減、一階に住むのやめたら?」

今日の正午過ぎ、文字通り丸一日続いた任務からようやく帰宅すると、ベランダに干しっぱなしだったブランケットが濡れた土の上で無惨な姿を晒していた。

あーあ、と溜息をついて掃き出し窓から外に出た私に、後ろで呆れ混じりの声が上がる。昨夜の雨なんて嘘みたいに調子を取り戻した太陽が燦々と地上を照らし、足元からはむせかえるような湿った熱気が立ち昇っていた。

「いつまでもこんな学生みたいな部屋に住まなくても、もうそこそこ給料もらってるでしょ」

地面に投げ出されたまま半乾きとなったブランケットを拾い上げて振り返れば、窓辺に凭れてこちらを見下ろす五条くんがいた。冷凍庫から勝手に取り出したアイスをシャクシャクと齧りながら、涼しい顔でエアコンの風に吹かれている。任務後に高専に戻ったときにちょうど鉢合わせて、なぜだかそのまま家まで着いて来られてしまったのだった。途中で冷やし中華を奢ってくれたから、まあよしとする。

「えー、でも楽だし……」

ブランケットについた土汚れを軽く払い除けながら答える。家の洗濯機では綺麗になりそうにないな、と考えて、近所に最近できた瀟洒なコインランドリーの存在を思い出した。

私の家は、三階建てのこぢんまりしたアパートの一階の端っこにあった。高専からも近いし、小さな庭つきのベランダと、ときどき散歩中の野良猫が見える大きな窓が気に入って、卒業してからずっとここに住んでいる。
オンナノコなんだからもっとセキュリティのしっかりしたところに住め、なんて五条くんが言うようになったのは、いつだっただろう。

「変なヤツが入ってきたらどーすんの」
「五条くんくらいしか来ないよ」
「お前ちょろいから、心配」

それは一体どういう意味かな、と問い質そうとした私の腕を、不意に五条くんの逞しい手がぐいっと引っ張り上げた。ベランダ履きのサンダルがぽろぽろと足から離れて、声を上げる間もなく私は汚れたブランケットごと五条くんの胸に飛び込むはめになる。

「ほらね」
「ご、五条くんが急に引っ張ったせい……! む」

文句を封じ込めるように、口元にアイスが押しつけられる。半ば条件反射で齧りつくと、頭の上で五条くんが軽快に笑った。

「ちっさいね、お前は」

私の腕を掴んでいる手がするりと動いた。あ、これはいけない。そう思っている間にも、背中を撫で上げられ、髪の隙間に指を差し込まれ、ぞくりと肌が粟立つ。五条くんの端整な顔が、うまくピントを合わせられない距離まで近づいていた。鼻の先がもう、触れてしまいそうなくらい――、

「……なに? この手は」
「あの、あんまり近づくと服、汚れちゃう、から」

私は精一杯の力でもって、五条くんの厚い胸板を押し返した。けれどそんなことでこの人の体が動くわけもないから、言い訳代わりにふたりの間にブランケットを掲げてみせる。実際、それを抱え込んでいた私のTシャツは色が変わるくらいには湿ってしまっていた。

「……ね?」
「……」

促すように視線を送れば、五条くんの滑らかな眉間にぎゅっと皺が寄る。そのまま数秒見つめ合った末、五条くんは薄い溜息だけを残してようやく離れていった。

「……あげる」

食べかけのアイスの棒を投げやりに握らされる。あげるも何も元々うちにあったやつじゃん、とは言わないまま、溶けて輪郭を失い始めた薄青色の氷菓子を口に含んだ。

五条くんは最近、たびたびこういう素振りを見せた。キッチンに立つ私の後ろにぴったりとくっついて、すんすんと首筋の匂いを確かめるような仕草をしたり、ソファで隣に座れば当然のように肩を抱き寄せてきたり、目が合ったと思ったら、何の前触れもなく鼻と鼻を擦り合わせてみたり。

どれもこれも、彼からすればほんの戯れに過ぎないのだろう。でも私の心臓は五条くんに対してとても敏感な作りをしているから、いつも馬鹿みたいに心拍数が跳ね上がって、体の隅々まで熱くなって、そんな自分に気づかれたくなくて、どうしても顔を背けたくなってしまう。

物事には、適切な距離というものがある。
たとえるなら五条くんは夜空で一等明るく光るお星さまで、私はその周りをただただ巡り続ける小さな惑星の中のひとつだ。これ以上は近づいても遠ざかってもいけない、そんな奇跡みたいなバランスの上にだけ成り立つ関係。私にとっての五条くんはずっと、そういう人だった。

 

 

「え、……っと……」

私は伏せた目でゆっくりと二回、瞬きをして、それからもう一度五条くんのほうを見た。相変わらず頬杖をついてこちらを見つめ続ける彼の唇は、続きを促すように「うん」と小さな相槌を打つ。

「五条くんは私のことが、好き、なの……?」

口に出した途端、なんだかとても恥ずかしくなって私は再び下を向いた。もぞもぞと所在なくお尻を動かすと、それに合わせてプラスチックの椅子が不満げな声を上げる。

私のことが好きなの、なんて台詞を、しかも五条くん相手に、私の人生で言う日が訪れるとは夢にも見たことがなかった。たとえ次の瞬間に「冗談だよ、騙されてやんの」とか「ドッキリ大成功~!」とか、どんなにひどいネタバラシをされたとしたって、ちっとも驚かない自信があった。

なのに当の五条くんは否定するどころか、ただふっと吐息のような笑みだけを漏らすと、のんびりした動作で手元の文庫本を持ち上げた。宇宙のなんちゃら、というSFじみたタイトルが五条くんにはあんまり似合わなくて、私は表紙に描かれた小さな宇宙船の絵をぼうっと眺めていた。

「どうして地球は太陽に落っこちないか知ってる?」

白い指でぱらぱらとページを捲りながら、五条くんが言う。

「え? えーと、な、なんでかな……」
「超カンタンに言うとさ、太陽が地球を引っ張る力と、地球が太陽から離れようとする力が均衡してるんだよね」
「はあ……」

急に難しい話になってきたぞ。ぱちぱちと目を瞬かせるだけの私をちらりと見やって、五条くんはまた少し笑った。あ、いま絶対に馬鹿にしたでしょう。

「宇宙には空気とか重力とかの抵抗がないからさ、地球は永遠に同じ速度で太陽から遠ざかろうとするわけ。そんでもし太陽が手を離したら――」

五条くんが大きな手をぱっと広げる。文庫本は呆気なくテーブルの上に落っこちて乾いた音を立てた。淡いクリーム色のページが捲れ、一瞬だけその身を蛍光灯の明かりの下にさらけ出す。

「地球は宇宙の彼方に飛んでって、二度と戻って来ないんだよ」

やけに静かな声につられるようにして、私は宇宙の彼方まで飛んでいった地球のことを想像した。きっとそこはひどく寒くて暗い場所なんだろう。空気も音も光もなくて、誰もいない。考えるだけで胸がぎゅっと締めつけられた。寒いのもひとりぼっちも、苦手だ。

ふるりと震えた肩に気づかれないよう、私はできるだけいつも通りに「ふうん」と答えようとした。どうせ私を怖がらせるためにわざと言っていると思ったのだ。呪術師のくせにすぐ泣くのが面白いとか言って、五条くんは昔からよく私をからかっては遊んでいたから。
そうはいかないぞ、と決意を込めて顔を上げた。上げたはいいが、ぽかんと開いた私の口からその次に続く言葉は出てこなかった。思い描いていたような意地悪く笑う五条くんはどこにもいなかった。代わりに拗ねた子供みたいに寂しげな瞳が、私をじっと見つめていた。

「……それってさー、なんかヤダなって思っちゃったんだよね」

そろりと、五条くんの指先が私の手に触れた。確かめるように形をなぞって、それからやわく握られる。引力と呼ぶにはあまりに優しく、愛おしい力で。

意味、わかる?
問いかけた青い眼差しがゆらりと揺れる。

五条くんはいつだって、ぴかぴかと内側から光を放っているような人だった。すべてに愛されて生まれたその命を、惜しみなく燃やすことができるからこそ美しいのだと思った。そうやって彼が少しずつ与えてくれる温度や光に、私はずっと生かされてきたのだ。それだけで充分だった。それ以上を望むなんてそんな贅沢なこと、想像もできなかった。

だけど、それと同じくらい、いまさら離れることだって。

「……ふふ」
「は? ちょっと、なに笑ってんの。せっかくマジメに話してんのに傷つく~」
「五条くんがそんな風に考えてるなんて、知らなかったなあ」

私はテーブルの下にしまっていたもう片方の手を出して、五条くんの手にそっと重ねた。
もしかしたら、もっと欲張ってみてもいいのかもしれない。もう少しだけ、自惚れてもいいのかも。

「……私ね、五条くんのことが好きだよ」

ずーっと前から、大好きなんだよ。
ゆっくりと言い聞かせるように告げれば、サングラスの向こうの空色がぱちりと瞬いた。きらきらの星屑を集めて作られたようなその目を見つめ返して、ぎゅっと手に力を込める。触れたところからじんわりと溶け合っていくようだった。この人は見た目よりもずっと体温が高いのだ。それを知るひとりになれたことを、とても幸せに思った。

「だから、もし五条くんが手を離しても、しがみついて離れてあげないよ」

きっと宇宙の彼方は寒すぎて、私にはとても耐えられないもの。冗談めかして言ってやると、五条くんは綺麗な瞳をまあるくした後に、声を上げて笑った。

レイニー・ブルー・プラネット

「そーいえばさあ」

西の空に一番星が昇る頃、ふかふかに乾いたブランケットを抱えて、ふたりで家に帰った。並んで揺れる影が少し照れくさくて、私はへたくそな鼻歌で誤魔化した。五条くんは繋いだ手をぶんぶんと振り回しながら、悪戯っぽい顔で言った。

「太陽って、放っといてもいつか膨張して地球を飲み込むらしいよ」
「えっ」
「だから、どっちにしろもう離れられないね?」

あ、ずるいなあ、その顔。

きゅっと目を細めてこちらを見下ろした五条くんに、私はやっぱり何を考えるまでもなく首を縦に振っている。どういう理屈か全然わからないけれど、こればっかりはどうしようもないのだ。そういう風にできている。そうとしか、思えないくらいに。

「五条くん。夕飯、何にする?」
「ビーフカレーがいいな。すっげー辛いやつ」
「あ、私もそれ思った」

 

 


2022年7月のイベントにて無料配布させていただいたお話です。