日曜日のねじまき島

※五条視点

 

 

なんか、焦げくさいな。

まどろみの中で思ったのはそんなことだった。
久しぶりのオフだからと昨夜は目覚ましもかけずに寝て、それでいまなんとなく瞼の向こうが明るいから、きっと朝なんだろうということだけがわかる。

ぼんやり纏わりつく眠りの切れ間を探すように、すんと鼻を鳴らした。かぎ慣れたシーツの匂いと、枕に残るシャンプーの匂い、それらに紛れて、明らかに場違いな煙たい匂いがする。
何かが焼けるような……燻るような……? まだ夢を見ているのだろうか。それにしてはやけにリアルな気が――。

「……いや夢じゃないわ」

布団を跳ね除けて飛び起きる。広いベッドの隣半分は、もぬけの殻だ。

日曜日のねじまき島

「すみません。たまごが発火しました」
「んなわけねーだろ」

朝起きたら、一人暮らしの自分の家のキッチンで恋人が料理をしている。
文字にすればなんと甘やかな響きだろうか。けれど現実に広がるのはそんなめくるめく朝の風景などではなく、端的に言って、大惨事だった。

「スクランブルエッグって失敗できるんだ」
「オムレツです」
「そこに血溜まりみたいになってるのは何?」
「……ケチャップ」
「どこをどうしたらこうなんの」

コンロの上の換気扇を全開にしながら問う。ついでに窓を開けると、雨上がりの清潔な空気がふわりと流れ込んで煙くさいキッチンを洗った。ナマエはバツの悪そうな顔で、黒焦げのそぼろみたいになったオムレツ(彼女曰く)が乗ったフライパンを睨むように見つめていた。

突然だけど、僕の彼女は料理がド下手くそである。
どれくらい下手くそかと言うと、たとえば市販のミックス粉で作ったホットケーキがなぜかしょっぱくてザリザリしてたり、茹でるだけのインスタントラーメンが干上がった姿で出てきたり、こんな風にオムレツがバラバラに砕け散って炭になってケチャップの海に沈んだりする。寮生活をしていた学生時代なんかは、共用の冷蔵庫にあったナマエ作の生焼けハンバーグをうっかり食べてしまって腹を下したこともあった。

一応、彼女の名誉のために付言しておくと、術師としてはそこそこ優秀だし頭も別に悪くない。ただちょっと手先が不器用で、おまけにだいぶセンスがないのである。

そんなわけだから、こうして互いの家を行き来する間柄になってからも、ナマエがキッチンに立つのなんてせいぜいが電気ケトルでお湯を沸かすときくらいだった。あまつさえフライパンを振るう姿など、記憶に残っているかどうか怪しいほどに久しく目にしていない。

「……たまには朝食でも用意しようかと思ったんですけど、失敗しました」

ボソボソと呟く彼女の横顔は珍しくしおらしい。いつも生意気なくらいに冷静で澄まし返っているくせに。写真でも撮って笑い飛ばしてやろうと思っていた手を止め、俯いたつむじをぐりぐりと撫でてやる。

「そんなの僕が適当に作るからいいのに。いつもそうしてるじゃん」
「すみません……」
「火傷してない?」

パジャマ代わりのTシャツの裾を握りしめている細い指を強引に掬い取って、自分の手のひらに乗せる。確かめるようになぞった肌は柔らかくて薄い。ところどころ、乾いたケチャップが血糊みたいにくっついているけれど、怪我はしていないようでほっとする。任務でボロボロになっている姿だって何度も見ているはずなのに、こんな小さなことで彼女が傷つくのをちょっと嫌だなとか思ってしまう僕は、やっぱりまだ寝ぼけているかもしれない。

「で?」
「え」

これで話は済むと思っていたのか、僕が言葉を重ねたために彼女はひくりと肩を震わせてこちらを見上げてきた。飼い主の機嫌を窺う犬みたいな目だ。別にこんなことで怒りやしないのに。なんだかおかしくなって笑うと、彼女も少しだけ安堵したように表情を緩めた。

「どうして急に料理なんかしてんの。いつも僕が呼びに行くまでヨダレ垂らして寝こけてるくせに」
「一言余計なんですよ」

わざとらしく鼻をつまんでやったら、ようやく彼女の口から普段通りの声音が飛び出してくる。何をしょげてるんだか知らないけど、コイツはちょっと憎たらしいくらいがちょうどいいのだ。

「僕の作る朝ごはんじゃ物足りない?」
「そういうわけでは」
「それとも僕への愛が爆発しちゃったのかな〜?」
「……」
「……え、うそ、図星?」
「ちがっ! ……いません、けど……ちょっとちがくて……」
「どっち」

つまんだままだった鼻を思わずぎゅっとつねってしまう。「痛い!」「あ、ごめん」解放された鼻の頭を擦りながら言い淀む彼女の頬はほんのり赤くて、また珍しい顔を見てしまったことで浅はかにもよからぬ気分になる。

生意気だったり強情だったり、かと思えば不意にカワイイ顔をしてみたり、無愛想なようでいて、本当はいろんな表情を持っているのだ、ナマエは。それに気づいたのはもうずいぶん昔の話だった。

「なーに、照れちゃって」
「だから、その……」

繋がった手が、にわかに握り返される。ほんの些細な力で、でも包み込むように優しい仕草で。

「……五条さんは何でもできますけど、でも、ひとりで何もかもできるわけじゃないから」

ぽつぽつと、雨粒みたいな声音でナマエが言う。拙いそれは寝起きの僕の脳みそにじんわり沁みて、ゆっくりと体中を巡っていく。

(……ああそうだ、こういうとこもあるんだよなあ)

口下手で言葉足らずで、無骨な女だと勘違いされたり。不器用でセンスないんだから頑張らなくたっていいのに、いつも自分じゃない誰かのために何かを差し出そうと必死になって、空回って転んだりして。

「だから、甘えてばかりじゃなくって私も五条さんのために、何かしたくなったというか……」
「……」
「……失敗しましたけど……」
「……」
「……五条さん?」
「……ばかだなあ、ナマエは」

――でも、そんな彼女が何度でも懸命に伸ばしてくれる覚束ない指先を、僕はいつだって愛しいと思うのだ。

「ば……!?」
「いーよ、じゃあやってみせて?」

細い手を引いてキッチンから抜け出し、二人掛けのダイニングテーブルへと導く。訳がわからないという顔をしながら、でもおとなしくついてきたナマエに僕はテーブルの上の鮮やかな橙色をひとつ取って手渡した。

「みかん剥くのはできる?」
「……本気でばかにしてます?」
「甘やかしてんの」

手のひらにぴったり収まったそれをしげしげと眺めた後、茶色がかった瞳は物言いたげに僕を見る。構わずテーブルにつけば、諦めたように彼女も向かいに腰掛けた。
小ぶりなみかんをコロコロと所在なさげに弄んでいた手がおもむろに爪を立て皮を剥き始める。そういう変に素直なところも好きだよって、いま言ったら怒られるかな。

「なに笑ってるんですか?」
「んー? 別にィ」
「剥けましたよ、どうぞ」

ほどなくして差し出されたまんまるの果実は、真夏の太陽みたいにきらめいて見えた。瑞々しい香りが僕と彼女の間を柔らかくたゆたっている。朝の日差しに彼女の髪が透け、平らかな頬は淡く光を放つ。

めくるめくストーリーなんかない、ちょっと不恰好なだけの、よくある朝の風景。だけどそれが夢みたいに特別に見えるのは、それだけはきっと、寝ぼけているせいじゃない。

「食べさせて」
「はあ?」
「あーん」
「自分で食べられるでしょ」
「食べれなーい」
「……」
「あーーん」

渋々といった様子でみかんの一房をもぎ、彼女の手が僕の口元へと差し伸べられる。「……しょうがない人」なんて言いながら、唇がちょっと嬉しそうに笑っていることを知っている。

甘酸っぱい果肉ごと指先を齧ってやったら、あとは南風の吹くままに。

 


Title by 天文学