【サンプル】ビターキャラメル・オーバードーズ

※本サンプルは全年齢部分のみ公開しています。本編はR18です。
※しゃべって動くモブがいます。なんでも許せる方向け。

 

 

 始まりが何だったのか、明確には思い出せない。
 蝶が花に誘われるように。雨がまっすぐ地面へ落ちるように。そんな風にして私は五条さんに恋をした。報われるとも、報われたいとも思っていなかった。だからこそ何もしないまま十年もの月日が過ぎてしまったのだけれど、それを後悔する瞬間すらついに一度も訪れなかった。
 誰にも知られず、声にすることもなく、砂の城が風に攫われて形を失っていくみたいに、いつかそっとこの世から消えるだけのちっぽけな恋だった。それでも五条さんを好きでいることは私にとって、生きるために息をするのと同じくらいに当たり前のことだった。

 それがまさか、いまになって実を結ぼうなんて、神様でさえ予想していただろうか。

「あ、の。五条さん……」
「うん?」
「ち、近いです……」
「ああ、ごめん」

 口先ではそう言いながら、隣の男が体を動かす気配はない。私は二人掛けのソファの端に脇腹をめり込ませる勢いで寄りかかり、彼との間になんとか距離を保とうと四苦八苦していた。
 空色の瞳はこちらを向くこともなくまっすぐに前を見つめている。二十四インチの画面の中では映画が佳境を迎えようとしているが、私は密着した肩の温度から意識を逸らすことに精一杯で、ストーリーなどちっとも頭に入ってこなかった。

 珍しく仕事が早く片づいた金曜日の夜、高専の事務室で帰り支度をしていた私を捕まえ、「今日、お前んち行っていい?」と言い出したのは五条さんだ。そして、あんまりに驚いて声も出せないまま頷いたのは私。
 恋人どころか友人ですら滅多に招くことのないこの部屋は質素な1Kの間取りで、女の一人暮らし用のコンパクトなサイズの家具しか置いていない。当然このソファだって、五条さんみたいな大柄な人が座ることなど想定して買っていない。
 暴れ続ける心臓の音を誤魔化すようにわざとソファを軋ませながら、深呼吸をする。この部屋に五条さんがいる光景はなんとも現実味に欠けていて、まるで予算の少ない映画にとってつけた合成映像みたいだ。
 ちらと隣を盗み見る。照明を落とした室内で、五条さんの六眼が万華鏡のようにきらきらと輝いていた。神様はこの人を形作るためにたいそう心血を注ぎ込んだであろうに、産み落とした後のことにはもっぱら関心がないらしい。さもなければこんな平凡な女の家の安いソファで金曜日の夜を過ごさせたりはしないだろう。あまつさえその女と、なんて。

(……今日、泊まって、いくのかな)

 睫毛が長い。肌が白い。彫刻じみて美しい輪郭を持った首筋から鎖骨までを目で辿っていると、不意に五条さんの体が動いたので大袈裟に仰け反ってしまう。五条さんは相変わらず目線を画面へやったまま、ローテーブルに置いたグラスへと手を伸ばした。「あ」そっちは私のです、と指摘する間もなく、細いストローに唇が寄せられる。さっき気を紛らわすために噛んでしまったストローが、五条さんの口に収まっている。

「ねえ」

 横顔をぼうっと眺めていたら急に目が合って、今度こそ心臓が口から飛び出すかと思った。いつの間にか映画は本編を終えたらしい。黒い背景にエンドロールが流れ、壮大な音楽が鳴っている。

「キスしよっか」
「は、」

 なんでいきなり、と問おうとした口を瞬く間に塞がれた。え、いまってそんな雰囲気だった? 映画はラブロマンスじゃなくアクションだったはずだ。慌てて瞼を下ろすと、しっとりと濡れた五条さんの唇が私のそれを幾度か食み、レモネードの香りを残して離れていった。

 そろり、目を開ける。
 途端に青い瞳に射止められ、身動きが取れなくなる。
 五条さんはそんな私の顔を間近でしばし見つめていたが、結局は再び唇を交わすことなく立ち上がった。空になったグラスがテーブルに戻される硬い音が響く。

「じゃあ、僕そろそろ帰るから」
「え、あ……」
「ちゃんと戸締りしなねー」

 ねみ、と欠伸をしながら五条さんはすたすた歩いて行って、我が家の狭い三和土を占拠している大きなブーツに足を突っ込んだ。口を挟む暇もない。

「あの、五条さん」
「ん?」

 慌てて追いかけて行って、呼び止める。振り向いた顔にはすでにサングラスが掛けられ、さっき見つめ合った青はすっかり隠れてしまっていた。
 ……そうだ、五条さんは明日も任務だ。この人は信じられないくらい忙しいのだから仕方ない。今夜こうして少しでも会ってくれたことに感謝しなくてはいけない、のに。

「……あの。来週、補助監督の飲み会があるんですが……行ってきても、いいでしょうか」

 こういうとき、もう少し色気のあることを言えないものだろうかと自分で自分が口惜しくなる。そういえば服は仕事着のままだし、化粧も直していないし、食事は近所のカジュアルイタリアンでテイクアウトしてきたパスタとサラダをプラ容器のまま出しただけだ。せめて気の利いた常備菜のひとつくらい用意しておけばよかった。

「いいよ。行っておいでよ」

 五条さんはあっさりと答えて、玄関のドアに手を掛ける。

「どうしたの。何か心配事?」
「え、いえ、そういうわけでは……その、」

 もうちょっと、ゆっくりしていきませんか。コーヒーでも淹れましょうか。映画、もう一本観ませんか――そんな陳腐な台詞がいくつか頭に浮かんで、消えた。どれもこれも口にした途端に不自然に聞こえてしまいそうな気がした。私、これまでどうやって五条さんと話してたんだっけ。十年も片想いを秘めてなんでもないように接してきたはずなのに、その方法がもう思い出せない。

「……あ、明日の任務、お気をつけて」
「うん。ありがとう」

 おやすみ、と私の頭を撫でて出て行く五条さんの背中をただ見送る。扉が閉まって足音が遠のいた後も、私はそのまま玄関にぼんやりと立ち尽くしていた。

 

 五条さんといわゆる〝恋人同士〟になって、早くも三か月が経とうとしている。
 季節は春から巡り初夏を過ぎ、梅雨の真っ只中にあった。その間、五条さんと恋人らしいデートというようなものをしたのはたった三回だけだ。
 一回は東京駅付近でのランチ。これは五条さんが出張のために新幹線に乗る前の僅か一時間程度のものだった。二回目は休日に水族館へ行った。イルカショーを見ている途中で五条さんに緊急の呼び出しがかかり、その場で解散となった。三回目は二週間前、五条さんの行きつけの割烹で夕食をご馳走になった。帰りは深夜まで開いているカフェでデザートを食べて、家の前まで送ってもらって別れた。
 どれもこれも、キスをしてたまに思い出したように手を繋ぐだけの、十代の清いお付き合いみたいなデートだった。

 つまり、あの春の日の夜から私たちは一度も体を重ねていないのだった。それどころか同じ部屋で眠ることさえなかった。いくら私に色恋の経験が少ないとはいえ、それなりの年齢の男女が恋人関係になってしばらくすれば、通常どんなことが起こるのかくらいは知っている。三か月間、私と五条さんの間には、それがないのだ。

「えーっ、それって飽きられてるんじゃないですかあ?」

 空を裂くようにして耳に入ってきた声に、私は思わず手の中のグラスをぎゅうと握り締めた。

「彼氏に一か月も放置されてるとか、わたしだったら耐えられなーい」

 甲高いトーンでけらけらと笑っているのは、最近東京に配属になったばかりの若手の女性補助監督だ。頭のてっぺんから爪先まで隙なく〝可愛い〟に彩られた、およそ呪術関係者らしからぬいまどきの女の子だった。歳は確か私より五つばかりも若い。今日は彼女の歓迎会と顔合わせを兼ねているので、任務のない者はできるだけ出席するように推奨されていた。

 高専からほど近い小さな居酒屋を貸し切りにして、十数人の黒いスーツが長テーブルを囲んでいる。ともすれば葬式か法要帰りの集まりにも見られそうだったが、隣に座る彼女のよく通る声がそんな雰囲気を掻き消していた。先ほどから会話はもっぱら彼女を中心に回っている。隅でぼんやりしているだけの私の存在など、ここにあってないようなものだった。

(帰りたいな……)

 五条さん、今日は出張だって言ってたな。テーブルの下でそっとスマートフォンを開き、今朝受信したメッセージを読み返した。いってらっしゃいと送った後にスタンプが返ってきて以降、新しいメッセージは届いていない。無意味に画面をスライドさせようとする指を止め、溜息を落とした。
 何を期待してるんだろう。この前も、いまも。

 視界の端で小ぶりなカクテルグラスがゆらゆらと揺れている。可愛らしい桃色の炭酸を飲み下す彼女の横顔は、その手の中のグラスと似て薄く滑らかだ。綺麗に磨かれた爪には大粒のストーンが散りばめられ、彼女が動くたびに店の安っぽい照明を受けて白く瞬く。

「先輩はどう思います?」
「え」

 不意にその横顔が振り向いた。私をまっすぐに捉える茶色の大きな瞳は、くるんと上がった睫毛に大切そうに縁取られている。天与の容姿と後天的な努力とで武装し、自己肯定感に裏打ちされた、完璧な眼差しだった。

「……すみません。私はそういうの、疎くて」
「え、彼氏いないんですか? 先輩可愛いのにもったいなーい!」

 あけすけな物言いに面食らってしまう。「ね、そう思いますよね?」と話を振られた彼女の向かいの相手も曖昧な笑みを浮かべている。ここは当たり障りなくお礼を述べるべきなのか、社交辞令とわかりきっているからには謙遜しておくべきか。

「わたし、てっきり先輩は五条さんと付き合ってるんだと思ってました」

 無難な言葉を探りつつも口を開こうとした私は、そこでぴたりと固まってしまった。まさかこの場でその人の名を聞こうとは思いもしなかったのだ。

「どうして、五条さんが」
「だってよく仲良さそうに喋ってるの見かけるし、前に飲み会にも迎えに来てたって聞いたので」

 思わず、テーブルの対角線上にいる同僚のほうを見た。あの日、五条さんが私を迎えに来たことを知っているのは彼だけだ。目が合った瞬間、気まずそうに逸らされる。

「……五条、さんは、昔からの先輩なので。よくしていただいています」

 言葉を選びつつ、答える。自然と尻すぼみになり、比例して視線も自分の膝の上へと落ちた。

 五条さんと付き合っていることを、私はまだ誰にも言えずにいる。わざわざ公表するタイミングがなかったというのもあるし、単純な気恥ずかしさによるところもあった。
 けれど一番は、自信がないからだ。
 自分が五条さんの恋人であると胸を張って言えるだけの自信。五条さんから愛されているという自信。これから先も好きでいてもらえる自信。――そういうものが、まるでない。
 あのとき確かに五条さんは私を好きだと言ってくれた。熱い手で、眼差しで抱いてくれた。でもその後は? 三か月経っても二回目がないのは、いつも別れ際が拍子抜けするくらいあっさりしているのは、つまりそういうことなのではないか。

 考え始めると、思考はどんどん暗い方向へと転がり落ちていく。

 あの最初の夜、私は何か失望されるようなことをしでかしてしまったのだろうか。あるいは典型的な『付き合ってみたら思ってたのと違った』というやつで早々に冷められてしまったか。わからない。そうでなくとも私は元々から五条さんに釣り合うような人間ではないのだ。考えうる原因など有り余るほどあって、いまさら取り返しがつくとも思えなかった。
 この関係は、一時の夢なのかもしれない。そう考えるほうがよほど現実的だと私はようやく気がついた。変に舞い上がって期待するから余計な傷を負うのだと。いずれそう遠くない未来に終わってしまうのならば、あえて他言することはゆくゆく五条さんに迷惑をかけてしまうことにもなる。だから、どうしても口に出せなかった。

「なあんだ! そうですよね。五条さんと先輩じゃ、タイプ違いますもんね」

 隣の彼女は無邪気な子供のような笑顔で言って、少しだけ残っていた酒を飲み干した。カランと軽快に鳴る氷の音が、煩わしい。

「昔からの知り合いって羨ましいです! 五条さん、カッコイイですよねえ。合コンに呼んだら来てくれないかなあ」
「……合コン?」
「先輩から訊いてみてくれません? ちょうど来週の日曜に予定組んでるんです。あ、よかったら先輩も参加します? ハイスペ男子揃ってますよ~」

 なんという人だろう。あの五条悟を合コンに呼ぼうだなんて。しかもその奥にあるあからさまな思惑を隠そうともしない。相手に嫌われたらとか、邪険にされて傷ついたらとか、そんなこと微塵も恐れていないようだった。
 私とは正反対だ。
 栗色の髪の先を楽しそうに弄ぶ細い指を茫然と眺めていると、おもむろに彼女がこちらへ顔を寄せた。甘ったるい香水と化粧の匂いが迫ってくる。ふっくらとした体の曲線が視界に入り、同性だというのにどぎまぎして目を逸らしてしまった。

「あのね先輩。わたし、本気で狙ってるんです。五条さんのこと」
「……え」

 密やかに耳打ちされた言葉に、鼓動が早くなる。本気って、いうのは。

「……五条さんのことが、好き、なんですか」
「え? 好きっていうか、男性として素敵じゃないですか。強くて家柄も良くてお金持ちで、何と言ってもあの見た目だし。あんな人とお付き合いできたら最高だと思いません?」

 超ハイスペックですよねえ、と彼女は憚る様子もなく続ける。

「どうにかお近づきになりたくて、ずっと東京に配属希望出してたんです。だから協力してください、ね?」

 可愛らしい角度で首を傾げられ、何も言葉が出て来ない。

 言ったほうが、いい。五条さんの恋人は私なんだって、だから協力はできませんって。いますぐ言わなくてはいけないのに、喉が締めつけられるようで声にできない。
 この子が五条さんの隣に立つところを想像してしまう。大きな瞳で彼を見上げるところ。細い腕を甘えるように絡ませるところ。綿菓子みたいな声で名前を呼ぶところ。悲しいかな、その姿はどれも私よりずっと五条さんのそばに似合っていた。五条さんだってきっと、こんなきらきらした女の子に好かれて悪い気はしないだろう。

『飽きられてるんじゃないですか?』

 そうなのかもしれない。だったら私は潔く〝五条悟の恋人〟の席を明け渡すべきなのかも。
 ――だけど、だけど。