【サンプル】おはよう、おやすみ、またあした

書き下ろし①:告白したい高専五条くんの話

 

 

「付き合ってほしいんだけど」

そのとき、こちらを振り仰いでぱちりと瞬いた瞳を見て、しくじった、と悟った。

 

二十三時の談話室。テレビに向かって右側の、窓辺に置かれた二人掛けのソファの端っこ。そこが彼女の定位置だ。
俺は風呂を済ませて部屋に戻る途中だった。別にその時間を狙ったわけでも、それが目的だったわけでもない。ただふと思い立って通りかかったら、いつものようにそこにちんまり腰掛けて、うつらうつらと舟を漕いでいる姿を見つけただけだった。

最近よく彼女と並んでドラマを観ている硝子の姿は今日はなかった。ひとりきりでも律儀にソファの片側を空けて座るところが、なんだか彼女らしくておかしかった。テレビが消えた部屋はしんと静かで、古い壁時計の針の進む音もやたらゆっくりと聞こえた。
彼女の伏せられた睫毛を見る。ゆるいカーブを描く、短くも長くもない睫毛だ。いつだって俺のそれを羨んでは、伸びろ伸びろと唱えながら細い指先で弄んでいる。

名前を、呼んでみようか。
それとも黙って毛布を掛けてやろうか。しかしこんなところで無防備に寝こけている女を放っておいていいのだろうか。そういう些細なことで迷っている数秒のうちに、控えめな睫毛がふわりと持ち上がり、少し眠たそうな黒い瞳が現れた。

あ、五条くんだ。溶けかけのアイスクリームみたいに柔らかい声でそう呼ばれると、伸ばした背筋までたちまちフニャフニャにふやけていくような心地がする。『こんなとこで寝ると風邪引くぞ』とか、あるいは『これから傑とゲームするけどお前も来る?』とか、いくつか頭に浮かんだ他愛もない台詞は、けれど一瞬のうちに全部どこかへ吹っ飛んでしまった。
だって、俺を見つけた彼女があんまり嬉しそうな顔をするから。

「……なあ」
「うん?」

例えばいま、ここにいるのが俺じゃなくても、お前はそんな風に笑うのか。
まどろみから未だ覚めきらない瞳を覗き込めば、胸が詰まるような感情とともに、ヒリヒリと心臓が焦げるほどの痛みを覚える。
ただ気まぐれに立ち寄ってみただけ。ちょっと声を掛けて通り過ぎようと思っただけ。なのに、いつの間にか俺は吸い寄せられるように彼女の前に立っていて、それで、気がついたら口を開いていた。本当に、ほとんど無意識だったのだ。

「付き合ってほしいんだけど」

「――え、っと……?」

はっとして口を噤んだ。
ソファに腰掛けたまま、彼女がきょとんとこちらを見上げている。自分がいましがた口走ったことが信じがたく、思わず口元を手で覆うがもう遅い。
しくじった。ムードもへったくれもあったもんじゃない。いやムードってなんだ。そもそもこんなところで急にこんなこと言うつもりじゃ。

「……、いやその」
「うん。いいよ」
「は」

俺が何か意味のある言葉を紡ぐより早く、それはもうあっさりと、彼女は答えた。まったくもって邪気というものを知らないような顔で、いつも通り、のほほんと笑って。

「付き合うよ。でもちょっとだけここで待っててもらってもいい? コート取ってくるから」

それにしてもこんな時間にどこ行くの? コンビニ? お腹空いちゃった? あ、わかったジャンプ買いに行くんでしょ。麓のコンビニ、土曜の夜から置いてるもんね、なんでだろうねえ。云々。次から次に飛んでくる台詞はもちろん照れ隠しには聞こえない。にこにこ笑う頬は普段と変わらずつるりと白く透き通っていて、そのどこかに恥じらいの欠片が滲んでいないかと探してみても、そんな都合の良いものはどこにも見当たらなかった。

彼女が膝の上に広げていた雑誌を丁寧に閉じて立ち上がる。立ち上がってもなお、小さい頭は俺の肩のあたりまでしか届かない。オーバーサイズのパーカーの襟元から柔らかそうな鎖骨が覗いている。その胸にしっかり抱えられた雑誌の表紙にはオーシャンビューの露天風呂がデカデカと写り、『しっぽり隠れ家温泉宿特集』などという呑気な見出しが踊っていた。そんなの誰と行くつもりだよ、と問い質すような権利を俺は持っていない。

「……あー、そうじゃなくて、いまのは」
「え?」

まっすぐにこちらを見上げてくる黒目を見つめ返す。きらきらと曇りなく輝いて、まるで散歩に出かける前の子犬みたいな。

「……、…………アイス奢ってやるよ」
「いいの!? やったー!」

――あーあ、しくじった。

 

 

 

書き下ろし②:プロポーズしたい五条さんの話

 

 

「結婚ってどう思う?」
「ケッコン?」

あ、しくじったかも。
こちらを向いてぱちりと瞬いた瞳を見て、そう悟った。……なんかこれ既視感あるな。

「……ケッコン、かあ」

こくりと小さく喉を動かして、彼女が夕食の一口を飲み下す。うーん、と難しい顔で考えこむその姿を見つめながら、違う意味で僕の喉も大きく鳴った。

今日のメインディッシュは天ぷらである。彼女の後輩の補助監督の女の子が、実家で採れたという野菜をたくさんお裾分けしてくれたらしかった。ししとう、蓮根、かぼちゃ、水茄子、とうもろこしといったカラフルな野菜たちに混じって、僕が帰り道にスーパーに寄って買ってきた海老やイカもこんがりと衣を纏った姿で大皿にてんこ盛りにされている。
その隣の一回り小さい皿には、冷凍庫の奥深くから発掘されたフライドポテト。どうして天ぷらにフライドポテトなの、なんて呆れた顔をしながらも、僕がお願いすれば彼女はちゃんと綺麗に揚げてくれる。

手持ち無沙汰になった僕は、なんとなしにポテトを一本つまんで口に含んだ。多めに振りかけられた塩が美味しい。

「うん。大丈夫だよ」
「えっ」

思ったよりも大きな声が出た。拍子に口元からポテトの欠片が零れ落ちる。それを拾うこともしないで、僕はまじまじと彼女の顔を見た。涼しげなノースリーブの袖口から伸びる白い腕に目が行ったりだとか、愛らしい猫柄のエプロンの下に隠された柔らかな胸のふくらみに思いを馳せたりだとか、いつもならそうするところだけれど、いまはそれどころじゃない。

彼女はにっこりと唇を持ち上げて僕を見つめ返した。なんの屈託もない、のほほんとした笑顔で。

「シャツについちゃったの?」
「……は?」

彼女の箸が一際大きな海老天を攫っていく。ちゃぷん、とつゆの跳ねる音がした。

「だって血痕って。珍しいね、悟くんがお洋服汚すなんて」
「……、いやその」
「でもちゃんとシミ抜きすれば落ちるからね。シャツ、後で洗面所に出しておいてね」

血液のシミにはセスキタンサンソーダがいいんだってー、と彼女がテレビの受け売りを教えてくれる。そこでようやく合点がいった。

「……そっちか〜……」
「うん?」

ケッコン、血痕ね。あーハイハイ、了解。職業柄、そっちが変換の上位に出てくるのは仕方がないのかもしれないと妙に冷静に分析した。そんな物騒なワードを連想しておいて一切動じないところも、僕自身の怪我の可能性を微塵も考えていなさそうなところも、頼もしいというか抜けているというか。

「あー……ゴメン、実はシャツもう捨てちゃったんだよね」
「え⁉」
「出先だったし、早く着替えたかったからさあ」
「お、お高いシャツを使い捨てみたいに……!」
「今度新しいの選びに行くから、一緒に来てよ」
「もお~……」

不満げに膨らむ頬を見て、自然と笑みが零れる。僕はテーブルに頬杖をつき、つゆをたっぷり纏った大きな海老天が彼女に齧られていく様をしばし眺めた。昔から、彼女が何かを食べているところを見るのが好きだ。小さい口で、案外豪快に食べるのだ。

「はは、それ一口でいくんだ」
「ん? はっへほっほ」
「何言ってるかわかんね〜」

モグモグと動く口元についた食べカスを拭ってやってから、僕も大皿に残りひとつとなったイカ天を箸でつまんだ。つゆにくぐらせて齧りついても、サクッと軽い衣の食感は変わらない。美味しいと率直な感想を伝えると、彼女は嬉しそうに、ちょっとだけ自慢げに笑った。

……そうだ。僕たちはこれでいいのだ。
らしくもない〝結婚〟なんて、そんな約束しなくても、別に。