金魚に飴玉

「あ、五条だ」

ぼそっとこぼされた言葉ひとつで、私の肩は滑稽なほど大きく跳ねた。
お尻の下では古びたソファがぎしぎし唸り、手元から銀色のスプーンが零れ落ちる。誤魔化すように大袈裟な咳払いをしてみせても後の祭りで、目の前の美人はあでやかな――もとい、たいそう底意地の悪い笑みを浮かべてそんな私を見やった。

「と思ったら違った〜」

ニヤニヤ、ニタニタ、という効果音がこれほど似合う顔もあるまい。
木目のテーブルに落っこちたスプーンを拾い上げながら、ありったけの目力でもって睨んでやる。綺麗に描かれた眉の片方だけが器用に持ち上がり、赤い唇は優雅な曲線を描いた。悪魔の笑顔だ。

「……硝子先輩」
「んー?」
「遊んでますね……?」
「あは、ごめん」

こんなに白々しいごめんってあるだろうか。だってもう顔に『面白いです』と書いてある。それはそれはデカデカと。

「はあ〜……」
「溜息つくとシアワセが逃げるらしいよ。知らんけど」
「ほっといてください……」

燦々と日差しが降り注ぎ、眠たくなるくらいに穏やかな春の日の談話室。目の前には尊敬する先輩。だというのに私の胸の内は、ぐずぐずの曇り空のような灰色をしていた。それもこれも全部、あの男のせいだ。

「もういいじゃん、告白すれば?」
「……誰に何をですか」
「『五条センパイ、好きです……っ!』って」
「とりあえずそのポーズやめてもらっていいですか?」

硝子先輩は華奢な手を顔の前で握り合わせると、祈るような眼差しを注いでくる。いたいけに潤んだ瞳は何か切なる想いを滲ませているようで、ここだけ見たら十人中十人がきっとこの人のことをただの儚くか弱い美少女と勘違いするだろう。実際にはどうせ「早く一服してえ〜」くらいしか思っていないのに。人は見かけによらない、本当に。

「だからさ、こうやって目うるうるさせて、上目遣いで言ってみ? 面白いもん見れるから。なんなら医務室から目薬パクってこよっか?」
「いりません!!」
「ちぇー」

ちぇー、ではない。いっそ中身まで可憐な乙女になってくれればいいのに、この家入硝子という人はどこまでも強かで奔放だ。悔しいかな、そういうところに憧れていることは否定できないのだけれど。

彼女の学年の人々はみんなそうだった。
揃いも揃って容姿端麗、成績優秀、呪術の才能も申し分ない。なのに中身ときたら、コワモテの担任教師も頭を抱えるほどの問題児っぷりである。

その筆頭ともいえる碧眼の男のことを思い出し、私は俄かに眉を顰めた。
顔かたちばかり良くて精神年齢は小学生以下のあの人の、私は一体どこに何を見出してしまったのか。答えなどわからないまま、出会ってから一年が経とうとしている。きっとそんな風に考え始めた時点でもう負けなのだ。

溜息をついて、手元に視線を落とす。丸いガラスの器の中で、崩れたゼリーの欠片が日の光にキラキラと輝いていた。真ん中に閉じ込めた苺の果肉はまるで心臓みたいだ。赤く熟れて、いまにも破裂しそうな。

「恋だねえ」

しみじみと、それでいて大変楽しそうにのたまう硝子先輩のことは丸ごと無視し、もうひとつのゼリーの器を黙って差し出した。

五条先輩を見返してやりたくて始めた料理の特訓だが、いかんせん寮暮らしなので作れるのは簡単なものばかりだ。一昨日はパウンドケーキ、昨日はクッキー、今日は苺のゼリー。どれも本屋さんで『猿でも作れる!』という謳い文句に惹かれて買ってきた初心者向けの教本から選び、見よう見まねで作ったものだった。

「ああごめん。私は甘いのパス」
「あ、そうでした……」

硝子先輩は嫌味のない仕草でゼリーを断り、真っ黒なコーヒーに口をつける。

一昨日は夏油先輩が、昨日は灰原が、それぞれ試食係を務めてくれた。二人とも「普通に美味しい」と言ってはくれたけれど、夏油先輩はそもそも女子を傷つけるようなことを言わないし、灰原は賞味期限切れのプリンでもうまいうまいと嬉しそうに食べるような人だ。どっちの「普通」もアテにならない。

困ったな。冷蔵庫にまだ三つも残っているのに。五条先輩が任務から帰ってくるまでにどうにか処分しなければ、こんなところを見られたら揶揄われるに決まっている。腹立たしいことに、あの人は料理でもなんでも軽々とこなしてしまうのだ。私みたいに地道な特訓なんかしなくても……、……。

「……はああ〜……」
「好きになった相手が悪すぎるな。ご愁傷様」
「……そんなにバレバレですか? 私」
「まあ、本人以外には……あ」

それって呪術師としてどうなんだ。スプーンの先でぐさりと苺を突き刺したとき、硝子先輩がふと顔を上げた。私の背後に視線を向け、何かに気がついたような表情を浮かべる。

「五条だ」
「もう騙されませんよ」
「いやマジだって今度は」
「あの唐変木がこんな時間に帰ってくるわけないじゃないですか、それくらい私にもわかりますよ」
「後ろ後ろ」
「今日は長野でしたっけ? どうせさっさと任務片付けたところで銀座あたりで道草食って遊び呆けて、」
「――だーれが遊び呆けてるって?」

ひ、と声が漏れた。

「だから言ったじゃーん」硝子先輩がケラケラ笑っている。悪魔だ。いや悪魔でもいいから助けてほしい。立って逃げる暇もなく、上から頭をぐしゃぐしゃと掻き回されて視界が揺れた。

この骨張った指の感触、雑な絡み方、よく通る低い声。振り返らなくたってわかる。憎たらしいことに。

「チンチクリンのくせに生意気〜」
「ちょっ……やめてください!」

思いきり振り払うと、意外にも素直に五条先輩の手は離れた。乱れた髪を手櫛で整えつつ、遥か頭上を睨みつける。
いつ見てもツヤツヤの薄い唇は、きゅっと一文字に結ばれていた。黙っていれば彫刻みたいに綺麗な顔だ。

「……珍しくお早いお帰りですね」
「おー」
「……」
「……」
「……な、何か用ですか」

いつもならこのへんで「威嚇するポメラニアン」だの「怒ったハムスター」だのと散々馬鹿にされるのだが、今日の五条先輩はなぜか無言のまま私の顔をじっと見つめてきた。サングラスの下から空色の欠片が覗き、不覚にも胸が高鳴る。

「私の顔に何かついてますか」
「お前さ、あれ食った?」
「あれってなんです」
「飴」
「あ、め……」

俄かに頬が熱を帯びた。
この前、送迎車の中で補助監督から教えてもらったあの話。思考の隅へ追いやっていたそれが、真空パックの封を切ったときみたいに急速に息を吹き返して、たちまち私の頭の中を占拠する。

「た、たっ、食べてないです! どっか行っちゃいましたよあんなの!」
「はあ!? なんでなくしてんだよバカ」
「バカはどっちですか!? あんな小さい飴玉ひとつで……っ!」

――私がどれほど思い悩んでいるか。
舌先まで出かかった台詞はどうにか喉の奥へ押し戻した。なくしてなどいるものか。捨てることさえできずに、自室の机の引出しの奥にずっと仕舞っているのだ。

『知ってます? ホワイトデーのお返しには、それぞれ意味があるんですよ――』

補助監督の朗らかな声が耳の奥に蘇る。
わかってる。どうせ五条先輩の行動にいちいち理由なんかない。そもそもそんな迷信みたいな話に興味を抱くとも思えないし、もしも耳に入ったとして「ふーん。くだらね」と一蹴する姿しか思い浮かばない。この人のことだ、きっとポケットの中にたまたま入っていた飴玉を気まぐれによこしただけで、もしかしたらホワイトデーすら関係なくて、そこに特別な意味なんか何もなくて、だから浅はかな期待などしないほうがいい。……全部、頭ではわかっているのだ。

「……〝ひとつで〟、なんだよ」
「せ、先輩には関係ありません!」

目を合わせていられなくなって俯いた。
好きになった相手が悪い。まったくもってその通りだった。私はチンチクリンの意地っ張りで、五条先輩は(悔しいけれど)才色兼備の高慢ちき。どこを切り取ってもうまくいくはずがない。こんな、未練がましく料理の練習なんかしたって。

「てかなに隠してんのそれ」

テーブルの真ん中に置いてあったゼリーをさり気なく端へ寄せようとしたのに、青い瞳は目敏くそれを見咎めた。咄嗟に両手で器を覆い隠す。もう手遅れだとしても、そうせずにはいられなかった。

「なんでもないです」
「この子が作ったんだよ。苺ゼリー」
「ちょっと硝子先輩!?」
「ふーーーん……」

五条先輩の手が右から伸びてくる。私は器を左へよける。今度は右へ。また左へ。

「おい食わせろよ」
「え、嫌です」
「食わせろ」
「だから嫌ですってば」
「どうせ硝子は甘いの食わないじゃん。傑も灰原も食ったんだろ、なんで俺だけダメなの」
「そんなの、」

言えるわけがないでしょうが。っていうか、どうして夏油先輩や灰原に試食させたことがバレているのか。硝子先輩に視線を送るも、当然のごとく右から左へ受け流された。あとで覚えといてくださいよ。

「なんで」

何がとかなんでとか、さっきから質問ばかりだ。
五条先輩はぐっと腰を屈めて、後ろから私の顔を覗き込もうとしてきた。本当にデリカシーがないなこの人。どうして私はこんな人のこと。必死に視線を逸らしても、目の前にはテーブルに突かれた大きな手のひらがあり、肩のあたりには制服越しにもわかる筋肉質なお腹が触れている。どこを見ても五条先輩だ。恥ずかしさで破裂しそう。

「早く答えてクダサーイ」「な、なんでもです」「答えになってねーんですけど」「とにかくダメです」「ケチ」「なんとでも言ってください」「腹減った」「あそこに七海のパンがありますよ」「食わせて」「……」「食べたい」「……、……」「ねえ」……ああ、もう!

「だから!! 好きな人に食べさせるのにはいろいろ準備がいるんです空気読んでください!!」
「え」
「……あ」

あ、と思った。そのすぐ後に、終わった、と思った。

硝子先輩がまんまるに目を見開いている。この人もこんなあどけない顔をするのかと場違いな感慨を抱いた次の瞬間には、その同じ顔のまま「ヒュウ」なんてふざけたヤジを飛ばされて我に返った。

「……え、なにお前、俺のこと好きなの」

ぽつりと、聞いたこともないような声音で五条先輩が言った。
熱した鉄の塊を飲み込んだみたいにお腹の底から全身がかっと熱くなる。その波を追いかけるように、今度は涙がこみ上げた。最悪。最悪だ。

「ちが、い、いまのは、その……」
「違うの?」

恐る恐る振り返れば、鮮烈な青に射抜かれる。いつもおちゃらけてばかりのくせに急に真面目な顔をしてこっちを見てくるから、頭が真っ白になって、いまさら取り繕う言葉も出てこない。

呪霊相手ならいくらでも冷静に対処できるのに。呪詛師のヘタクソな泣き落としだって聞こえないふりをしていられるのに。〝五条悟〟を前にすると、私はどうしてか何もかもうまくできなくなってしまう。自分が自分でなくなるみたいで、はがゆくて情けなくて、無性に泣きたくなるのだ。

恋だねえ。染み入るようなその言葉を否定できなかった私は、もう。

「……っ、好きですよ……わるいですか……」

形を整えることもできないままに口からまろび出た告白は、ひどく不恰好で可愛さの欠片もなかった。けれどもはや取り返しはつかず、ぎゅっと唇を噛んで五条先輩を睨み上げる。そうやって眉間にシワでも寄せていないと涙が溢れてしまいそうだった。

――こんなことになるなら、少しくらいしおらしくしておけばよかった。
顔を合わせれば憎まれ口ばかりで、全然可愛くいられない。この人にとっての私は、あの小さな飴玉みたいな取るに足らない存在でしかないのだ。いまさら後悔したって遅いのに、心臓をきゅっと摘まれるような痛みが走る。

きっとこの後、身の毛もよだつようなこっぴどい断り文句を吐かれる。
そう覚悟したとき、じっと押し黙っていた五条先輩の口元が思いもよらぬ形で動いた。

「……もう一回」
「……え?」
「いまの顔もう一回やって」
「は?」

は、の形に口を開けたまま、私はぴたりと動きを止めた。

「……なんつーかさあ、」

お前って、泣くと可愛いな。

あんまりにもあっけらかんと、先輩が言った。
そうしてやけに神妙な顔をして、指先でそっと私の頬に触れ――ようとして、その指は空を掻いた。私は、思いっきり椅子を蹴って立ち上がっていた。テーブルが揺れ、ゼリーが揺れる。最後のお楽しみにとっておいた苺もまだ食べていない、けど、だけど。

「い、いま、なん、なん、」
「いや正直めちゃくちゃ興奮した」
「さ、最低……!」
「ちょっともう一回泣いてみ」
「絶っっ対に嫌です!!」
「ね、お願い」
「ついてこないでぇ!!」

ほとんど悲鳴みたいな声を上げて逃げる私を、五条先輩がぴったりとくっついて追いかけてくる。

――最悪だ。白い髪の隙間から覗いた耳が真っ赤だなんて気づいてしまったら、もうどんな顔すればいいの。

金魚に飴玉
いつまで経っても素直になれないふたりのお話。