つごもりの夜に サンプル

いまから二十年近くも昔のことでございます。

呪術御三家がひとつ、五条家のお屋敷に、小さな小さな使用人がやってまいりました。
その少女には身寄りがありませんでした。名前もありませんでした。生まれつき、この世ならざるものを視る目を持っていた少女は、五つを迎える頃に京の花街へと売られ、下働きをして暮らしておりました。

とある寒い冬の日の夕暮れでした。あかぎれだらけの手をふうふうと吐息で温めながら店へと帰る途中、薄暗い路地からにゅうと伸びてきた黒い影に、痩せた体はいとも容易く囚われました。声を上げる暇もありませんでした。元より、少女の声に気がついて駆けつけてくれる者も、ここには誰もおりませんでした。

凛と響き渡るような風音が空を切ったのは、そのときです。
少女を捕らえていた異形は瞬きの合間に掻き消え、後に残っていたのはきらきらと蒼く光る力の残滓と、それを放った白い髪の少年ひとりだけでした。

少年は、たいそう退屈しておりました。生まれてこの方、何もかも定められたかのように波風のない生活、何不自由もない毎日に、すこぶる飽いていたのです。ですからほんの気まぐれに、この少女をそばに置いてみようと考えました。ちょうど、歳の頃は少年とさほど変わりがないようです。少年は自分の屋敷に少女の寝床を与え、仕事を与え、そして名を与えました。

少女は働き者でした。与えられた仕事をよくこなし、炊事洗濯に池の泥かきまで、嫌な顔ひとつせず毎日くるくると働きました。人付き合いはあまり得意ではありませんでしたが、まっすぐで気立ての優しい娘と屋敷の中でもすぐに評判になりました。

やがて少女が年頃になると、彼女を嫁に取りたいという者が幾人か現れました。少女には色恋の沙汰はわかりませんでした。ただ、ずっとお仕えしてきた五条の家を離れるのは、些か寂しい気がいたしました。それで、いまや立派な当主となった少年にこう尋ねました。

『どうか私をずっとここに置いてくださいませんか。きっとお役に立つよう努めます。このお屋敷を離れることは、私にはどうにも耐え難いのです』

少年は彼女に、美しい銀細工で造られた椿の花の帯留めを与え、言いました。

『これを持っている限り、お前は五条家のものだよ』

だからどこへも行くなと、そう言いました。

 

 

 

おせち食べたい。持ってきて。
そう連絡を寄越したのは当家の若き当主、五条悟さまその人であった。年の瀬の迫る寒い日の朝、玄関を掃き清めて屋敷の中へ戻った私を見計らったかのように電話のベルが鳴り、私はかじかむ指を吐息で温めてから、ひんやりと冷えた黒い受話器を取り上げた。

「おせち、ですか」
『そー。年末年始も忙しくて、そっちに帰れそうになくてね』
「それは……皆も寂しがります」
『せめて正月気分くらい味わいたいからさ、重箱に詰めて持ってきてよ』

電話の向こうのがやがやとした雑踏の音に混じり、五条さん早く、と焦ったように急かす男の人の声がした。いまもお仕事の最中なのだろう。当主に呪術師に教師にと、悟さまは年中お忙しいのだった。

「かしこまりました」と答えながら、私の頭はかちりとスイッチが入ったように回転を始める。そうとなれば、すぐに手配を始めなければならない。鯛と鮑と伊勢海老と、出汁を取るための昆布に鰹節、それから悟さまの好物の丹波栗も急いで取り寄せて。桜の蒔絵の重箱はどこへ仕舞っていただろう。それとも白木か、有田焼のほうがいいだろうか。

『あ、栗きんとんと黒豆はたくさん入れてね』
「仰せの通りにいたします」
『で、うんと甘くして』
「心得ておりますよ」
『ほんとにわかってる? ちゃんと責任持って届けに来てよ、お前が』
「え」

この電話を切った後のことばかりを目まぐるしく考えていたものだから、悟さまの言葉を取り零してしまいそうになる。届けに来て。お前が。

「私が、東京まで……ですか?」
『そうだよ。この電話を取ったのはお前なんだから、最後まで面倒見てよね』
「面倒を……」

なんだか犬猫のような言いようである。重箱に手足が生えてかさこそと動き回る姿を想像してしまい、思わず笑みが零れた。立派な当主となられたいまも、悟さまは時折幼い子供のようなことを仰る。

「はい、かしこまりました」

答えれば、受話器の向こうで嬉しそうに笑う声がした。

それから丁寧に電話を切り、さっそく私は着物の袖を捲り上げた。まずは厨房へ行って話をつけなくてはならない。師走の折、口を開けば文句ばかりの料理番たちも、悟さまのご用命とあればさぞや張り切ることだろう。それから食材の調達に、重箱選びに、ああ風呂敷の色も決めなくては。自分の仕事などそっちのけで、頭の中はあっという間にそればかりでいっぱいになる。
おせちのお届けひとつであろうが、あの方のお役に立てるというだけで私にとっては何よりも喜ばしいことなのだ。そして久方ぶりに悟さまにお会いできるという期待もまた、私の胸をいっそう躍らせた。いまにもるんと弾んでしまいそうな爪先をどうにか落ち着けながら、磨き上げられた板張りの廊下を私は急ぎ足で進んだ。

 

 

「お久しぶりでございます。悟さま」

深々とお辞儀をして五秒後、ゆっくり顔を上げれば、遥か頭上で形の良い唇がひくりと震えた。

「……あのさあ、フローリングで座礼とかやめてよ。なんか僕がいじめてるみたいじゃん」
「あ、失礼いたしました」

洋室では立ったままの挨拶のほうが良かっただろうか。五条のお屋敷から外へ出ることは滅多にないから、勝手がいまいちわからない。先輩らに教わっておくべきだったと後悔した。

悟さまのお住まいである東京都内の高層マンションにはつい先ほど、つまり大晦日の夜に到着した。冬至を過ぎたとはいえまだ夜の長いこの時期、辺りはもうすっかり真っ暗だ。呆れた様子でこちらを見下ろす悟さまの脚の間から、リビングの大窓越しに街のネオンの明かりが見えた。星屑をばら撒いたようにきらきら光るビル群は、お屋敷から見る景色とはまるで違う国のようだ。

その風景に目を奪われていたところ、目の前に大きな手が伸びてきて「ほら」と急かされた。私が慌てて風呂敷包を抱え直すより早く、悟さまがひょいとそれを拾い上げてしまう。ついでのように私自身も腕を取られ、あっという間に引っ張り起こされた。

「あ、あの、お部屋まで私がお運びします」
「いーよこんなん自分で持てるし……ってか重ッ! なにこれ、なんで陶器の重箱なんか使ってんの」
「それが一番華やかでしたので……お気に召しませんでしたか」
「そういう問題じゃなくてさあ……まーいいや」

上がって、という声に従い、小綺麗なリビングに足を踏み入れる。お屋敷の古い木や畳の匂いとは違う、真新しくて人工的な香りに満ちていた。

こうして悟さまのお住まいを訪うのは初めてだ。物珍しさに、ついぐるりと部屋中を見渡してしまう。家具は少なく、真っ白な壁には何の装飾もなかった。しんと静まり返った室内に、時計の針が進む微かな音だけが響いている。

ここでひとりきりで過ごされている悟さまを想像してみると、そのお姿は自由気ままであると同時になんだか少し寂しげで、胸がぎゅうと狭くなるような心地がした。
まだ悟さまがお屋敷にいらした頃には、私は毎日のように私室へ呼びつけられたものだった。やれ甘味を持って来いとかお着替えのお手伝いをせよとか、要は退屈しのぎのお話相手になれということであった。悟さまは煩わしいことがお嫌いであるのと裏腹に、知らんぷりで放っておかれることもまた我慢ならない方なのだ。

「今日は洋服なんだ」

ふと甘い香りが鼻先を通り過ぎる。場所を変えても服を変えても不思議とすぐにわかる、悟さまの匂い。キッチンカウンターにおせちの重箱を据えてきたらしい悟さまが、私の隣に立った。十代の中頃からぐんと背が伸び、いまでは首が痛くなるほど見上げなければお顔も窺えない。

「はい、着物では目立つと言われまして」
「いいね。よく似合ってる」
「恐れ入ります」

唇の端に薄く笑みを乗せて頭を下げる。すっかり慣れた仕草ではあったが、悟さまに向けるのは少し面映ゆい。ちらと視線を上げれば、悟さまはなんとも妙な表情をなさっていた。昔、正月のためにと用意されたお召し物が気に入らなくて拗ねてしまわれたときのお顔によく似ていた。「何か変なことを申しましたか」「……そんな返し、どこで覚えたの」「女中頭から教わりました」「あーっそ……」

まだ見合いしてるんだ、と独り言のように悟さまが呟く。

「私もいい歳ですので……」
「……ふうん」
「ああいった席でのお話は、難しいものですね」
「そう? はっきり断ればいいだけでしょ」
「そういうわけにもまいりませんよ」

答えると、悟さまはもう一度、ふうんとつまらなそうに鼻を鳴らした。

お屋敷の中をちょこまかと駆けずり回って過ごしているばかりの私であったが、十六を迎えた頃から見合いの話をちらほらいただくようになった。
そういった席での話題にはたいそう困った。最初のうちこそ、まだ子供だからと周囲が気を利かせて間に立ってくれたものだが、やがて二十歳も過ぎればそうも言っていられない。
しかし私はどうにも世間話が苦手だった。趣味や特技と言えるものは家事くらいしかなく、歳の近い友人がいないから世間の流行り廃りもわからない。相手だって私の人となりなど知らないものだから、話題が尽きると話は自ずと当たり障りのない誉め言葉ばかりになっていった。お着物がよくお似合いですね。艶の美しいお髪ですね。白魚のような指ですね。

けれど、健やかに伸びたこの髪も、あかぎれの少なくなった手肌も、ぱりっと糊の利いた着物も、人並みに見合いの席につけるような立場さえ、すべては悟さまが与えてくださったものだ。私の力だけで得たものなど何ひとつもなかった。それをまるで自分の手柄であるかのようにお礼を述べるのは、たとえお世辞だとわかっていても、何ともおこがましく感じられた。どうせ褒めるのならば我が主を誉めてくれと言いたかった。かといって相手の好意を真正面から否定することも憚られ、毎度返答に困っていたところ、見兼ねた女中頭がこっそりと手ほどきをしてくれたのだ。

その見合いも、今日に至るまですべて断っているわけだが。

「それでは、私はそろそろお暇いたしますね」
「は?」
「おせちのお品書きは包みに一緒に入れておりますから、お召し上がりのときご覧になってください」

くるりと踵を返すと、慣れないスカートの裾が翻る。分厚いタイツを履いているとはいえ、歩くだけですぐ膝頭が見えてしまいそうな丈はどうにも落ち着かない。ましてやそれが悟さまの目に入ったらと思うと、一刻も早くこの場を辞して着物に着替えたい気分になった。
お屋敷に戻ったら、明日の元旦の準備もある。当主不在といえど年中行事がなくなるわけではないのである。いまから急げば、年が明けるまでには帰り着けるだろう。

「ちょっと待って、まだ来て五分だよ。何考えてんの」
「ですが、」
「ほらほらじっくり夜景でも見て行きなって。こんなの見たことないでしょ」

大きな手で二の腕を掴まれ、なす術もなく窓際まで引き摺られる。
思えば、悟さまは何か見せたいものがあるとき、いつもこうして私を引っ張って行った。それは大雨の後の青空にかかる鮮やかな虹の橋であったり、お屋敷の裏の物置で眠っている猫の親子であったり、くぬぎの木に引っついた蝉の抜け殻であったりした。

「わあ……」

壁一面をくり抜いたように大きな窓のそばに立ち、私は感嘆の声を上げた。眼下には、高速道路を滑るように走っていく車のヘッドライトの渦と、こんな時間にも煌々と明かりを灯したままの高層ビルの群れがイルミネーションのように広がっていた。
上を向けば、深い藍色に塗り潰された夜空で星粒がちかちかと瞬いている。東京の空に星は見えないと聞いたけれど、今日は月のない夜だから、星明かりがいつもよりよく届くのかもしれない。

「……悟さまは、こんな景色を毎日ご覧になっているんですね」

まるで宙に浮かんでいるようだった。赤く色づいた東京タワーの輪郭をなぞるように、窓ガラスに指を滑らせる。後ろで悟さまが小さく笑った。

「羨ましい?」
「……少し」
「じゃあお前も住んでみれば。ここに」
「相変わらず、ご冗談がお好きですねえ」
「冗談じゃなくて」

するりと、悟さまの右手がガラスの上で私のそれに重なる。

「――どうして僕がお前をここに呼んだか、わかるだろ」

振り向こうとする私を制するように、真上から低い囁き声がした。東京の夜景の上に映り込んだ悟さまの表情は、ぼんやりと霞んでよく見えない。

「……それは、私が電話を」
「そんなの口実に決まってんじゃん。何年僕のそばにいるの。いい加減、気づけよ」
「悟さま……?」
「あー。〝そばに〟はいないか、もう」

胸がちくりと痛んだ。
悟さまが高専に入学され、お屋敷を離れられてからもう十年余りが経つ。今日のような用事でもなければ、お会いすることすらままならない。

「この前言ったこと、ちゃんと考えてくれた?」

悟さまは私の手を窓から引き剥がすと、ぎゅうときつく握り込んだ。
この前、と言われ、すぐに心に浮かぶ記憶がある。お彼岸の折、悟さまがお屋敷へお戻りになったときのことだ。

 

「結婚したいと思ってる」

唐突なお話だった。あまりにもびっくりして、大きな背中から脱がせて差し上げた羽織を危うく落としてしまうところだった。辛うじて「はあ」とだけ、相槌なのか吐息なのかもわからない音が、間抜けに開いた唇の隙間から零れ出た。
お歳を考えれば不思議なことではなかった。それでも悟さまの口から〝結婚〟の文字が出たのは、私の知る限り初めてのことだった。
羽織の袖を衣文掛けに通しながら、私は悟さまのほうを盗み見た。時折まだ少年のような笑い方をなさることもあるけれど、その精悍な横顔はもう立派なおとなの男の人のものだ。

――この方の妻となる人は、きっと幸せなのだろうな。

ふとそんな想像が頭をよぎる。
見透かしたかのように、青い瞳が私を見た。

「お前と」

そこで私はついに羽織を手放した。ばさりと重たい音を立てて畳に落ちたそれを私の代わりに拾い上げながら、悟さまはいたって平然とされていた。それで、からかわれたのだと思った。僅かでも動揺してしまった自分が恥ずかしく、何も言い返せずにいると、悟さまはやわく目を細めて笑った。

「――考えておいて」

そう言って私の髪をさらりと撫で、そのままどこかへ行ってしまわれたのだった。
ご冗談にしては笑えないことをされると思った。けれどいくらうつけの私といえど、あれが戯れだったことくらいはわかる。まさか本気になど取りはしなかった。夢か幻か、もしくは狐につままれたのだと思うことにして、すっかり頭の隅へ追いやっていたのだ。

だって、そうでなければおかしいじゃないか。他でもない悟さまが私と、なんて。

 

「……あれは、だって、でも」
「まだ考え中? 長いね、いつまで待てばいい?」

肩を引かれ、くるりと体を返される。透明なガラスに背中を預けることになり、その覚束なさにひゅっと息を呑んだ。再び重なった手を思わず強く握り返すと、悟さまの指先が微かに震えた。

「あんなこと言ったのにこうしてノコノコやって来るからさあ、ちょっと期待してたんだよね。まあお前らしいけど」
「悟さま、あの、少し離れて」
「やだ」
「私をからかっておいでなら、どうかおやめください」
「帰したくない」

どくん、と心臓が大きな音を立てる。

「……帰らないで」