ねがいごとショートケーキ

※「おるすばんハンバーグ」の二人の高専時代〜大人/最後だけ七海視点

 

 

「誕生日なんだけど」

シュークリームかな、プリンかな、マドレーヌもいいなあ。談話室のソファに寝そべって雑誌をめくりながら考えていた私のところに、その人はいきなりやってきた。

「俺、来週、誕生日なんだけど」

仰向けの姿勢のまま、顔の前に掲げた雑誌をそろりとどける。きらきらのお菓子たちにも負けないくらい綺麗な面立ちが逆さまになって現れた。誕生日、という楽しげな単語を発しているわりに、その眉間にはずいぶんな皺が刻まれている。

「うん、そうだよね。おめでとう」

言外に「ちゃんと覚えていますよ」というメッセージを込め、私はつとめて丁寧に返事をした。そうしないと五条くんはすぐに拗ねてしまうということを、この半年余りの同級生生活でよくよく学んでいるからだ。
神様の愛情を両手いっぱいに抱えて生まれてきたような彼は、きっと周りの人たちからもたいそう可愛がられて育ったのだろう、人懐っこい代わりに自分の存在を無視されたり蔑ろにされることが我慢ならないというか、むしろそんなことが起こるはずがないと曇りなく信じている節があるのだった。

「お誕生日、何かほしいものある? あ、私でも買えるものね」

体を起こしてスペースを空けてあげると、五条くんは顰めっ面のまま、けれど素直にぼすんとそこへ腰を下ろした。読みかけの雑誌はとりあえずドッグイヤーをつけてテーブルの上に置いておく。『魔法のおやつ』というメルヘンなタイトルのついたレシピ本で、私の愛読書でもあった。

「何読んでんの」
「お菓子のレシピ本だよ。次のお休みに何作ろうかなって考えてたの」
「へー……」

言いながら、五条くんは閉じたばかりの雑誌を乱暴に手に取って膝の上でぱらぱらとめくった。乾いた紙の音に合わせ、美味しそうなお菓子の写真がコマ送りのフィルムのようになって流れていく。

運動神経も頭脳も平々凡々、これといって特技も趣味もない私の、唯一の取り柄とも言えるのがお料理だった。たまの休日に食堂の大きな台所を借り、たっぷり時間をかけて手の込んだ食事やお菓子を作るのが寮生活のささやかな楽しみだ。頭を空っぽにしてひたすらに手を動かすといい気分転換になるし、何より最後には美味しいものが食べられる。一石二鳥である。硝子ちゃんには「ただのマメな食いしん坊じゃん」と鼻で笑われるけれど。

「何でも作れんの?」

五条くんは一通り雑誌を眺めた後、ホールケーキ特集のページに戻って手を止めた。クリスマスが近いからか、雪を模した真っ白なショートケーキが一段と大きく取り上げられている。

「うーん。ここに載ってるものくらいなら、材料があればできるよ」
「すげーな」
「えへへ」

五条くんみたいなすごい人に、すごい、と褒められるのは素直に嬉しい。何せ普段は実技でも座学でも同級生たちから周回遅れの私なのだ。つい調子に乗って、五条くんの膝にある雑誌を一緒に覗き込む。

「五条くんは好きなお菓子ある? 私はね、これとこれとこれと、あっこれも美味しかったなあ」

これは中をカスタードクリームにしても美味しくてね、こっちはナッツを混ぜたりして、これはこの前ビターチョコで作ったら硝子ちゃんも食べてくれて、と夢中でページをめくっていると、五条くんがじっと私を見つめていることに気がついた。しまった、ちょっと喋りすぎただろうか。

「あ、ごめん。興味なかったよね……」
「……いや、あのさ」

言いにくそうに、形の良い唇がもごもごと動く。サングラスの向こうでフランス人形のような睫毛が忙しなく羽ばたいていた。珍しい。私の知る限りでは五条くんは何事も物怖じせずハッキリと口にするタイプの人だったから、こういう顔は新鮮だ。なんとなく私まで神妙になって、丸めていた背筋を伸ばしてしまう。

「誕生日にさあ」
「う、うん」
「ケーキ、食いたいんだけど」
「うん」
「……お前が作ったやつ」
「うん……うん?」

おまえがつくったやつ? 私はぱちりと瞬きをして五条くんを見上げた。様子を伺うようにちらっとこちらを見た青い瞳は、しかし目が合った途端にそっぽを向いてしまう。

「ケーキも家で手作りできるって傑から聞いてさあ……いままでそういうの、食ったことないし」
「え、で、でも、私のでいいの……?」

五条くんならそれこそ老舗ホテルの限定品とか、名のあるパティシエのオーダーメイドとか、いくらでもそういう美味しいケーキを取り寄せることができるんじゃなかろうか。っていうかもし私が五条くんだったら絶対そうする。誕生日にかこつけて贅の限りを尽くすこと請け合いだ。
それに引き換え私に作れるものといったら、せいぜいスーパーで買えるちょっといい食材を使って食堂のオーブンを借りて作るくらいの、ただの素人のケーキである。たぶん、五条くんがこれまで食べてきたであろう素敵なケーキたちの足元にも及ばない。唯一、素朴さ部門があればぶっちぎりで勝てるかもしれない。そんなレベルだ。

言葉を選びつつもそう説明した私に、五条くんは顰めっ面をさらにぎゅうと押し潰したような、ものすごい顔をした。そんな顔でも元の造形の良さがわかるから、やっぱりこの人は真の美人さんなのだ。

「お前は俺のこと何だと思ってんだよ」
「セレブリティー……?」

答えると、五条くんは特大の溜息をついた後、がしがしと大きな手で自分の後頭部を掻き回した。そうしてしばらくあーだのうーだの唸った末、私の顔をぴったりと見据えて、言った。

「……この前の、クッキー? うまかったから。食うならお前のがいい」

ダメ? と訊かれ、何も答えられなくなる。あれはクッキーじゃなくてフィナンシェって言うんだよ、なんて野暮なことさえ言えなくなるくらいには、私は言葉も忘れて、ガラス玉みたいにきらめく瞳をただただ見つめ返していた。

 

オーブンの扉を開ける瞬間が好きだ。プレゼントの包みをほどくときみたいに、どきどきする。どんな色に焼けたかなとか、食べるのが待ち遠しいなとか、いつもそんな期待感ばかりで胸がいっぱいになる。
その中にほんのちょっと、祈るような気持ちが混ざったのは、今日が初めてのことだった。

「……よし、うまく焼けた」

バターのまろやかな香りと、しゅわしゅわ湯気を立てる生地のきつね色。ひび割れることなくふっくらと膨らんだスポンジを確認して、私はほっと胸を撫で下ろした。

十二月七日の夕方、午後の実習を終えたその足で私はまっすぐに食堂へやってきた。もちろん五条くんの誕生日ケーキを作るためにだ。
材料は昨日、都心での任務帰りに製菓用品のお店と果物屋さんに寄って揃えた。夏油くんと硝子ちゃんも材料費を分担してくれることになり、私ひとりで用意するよりもずっといい食材を手に入れることができた。ここからはすべて、私の腕にかかっている。

分厚いミトン越しにも伝わる天板の熱が冷えた指先を温める。あとはスポンジを冷ます間にフルーツとホイップクリームを用意して。チョコのプレートにメッセージを書いて。やることは山積みだ。五条くんは任務に出ていて帰りは遅くなるらしいが、そう悠長にも構えていられない。

(……五条くん、喜んでくれるかなあ)

思えば、誰かのために何かを作るのは初めてだった。
食事もおやつも、いつも自分が食べたいものばかりを作ってきた。たまに食べきれなくて誰かにお裾分けすることはあるし、それで喜んでもらえたら嬉しいけれど、一から全部をその人のために作るのとは全然違う。

――美味しくなかったらどうしよう。うまくデコレーションできなかったらどうしよう。間に合わなかったら。落っことして、ダメにしてしまったら。

「……あー、やめやめ!」

ネガティブな想像を消し去るように頭を振る。宝石みたいに光る大粒のいちごを前に、そういえば五条くんの目もこんな風にきらきら輝いて綺麗だったな、とぼんやり思い出していた。

 

――ふと気がつくと、窓の外は真っ暗だった。

「……え、うそ。寝ちゃってた」

食堂のテーブルに突っ伏していた頭を上げ、霞む目を擦る。

無事にケーキを作り上げた後、夏油くんと硝子ちゃんと一緒に夕飯を済ませて、五条くんの帰りを待っていたはずだった。けれどいま食堂には誰もいないし、私の肩には律儀にも誰かが掛けてくれたらしい毛布が乗っている。携帯を探してさまよった指先にかさりと何かが触れた。ノートの端をちぎったらしい紙切れに『五条によろしく』という簡潔なメッセージと硝子ちゃんの名前が書かれていた。

そうだった。ケーキを作り終えて安心したせいかウトウトと舟を漕ぎ始めた私に、二人は「もうお祝いは明日にして寝よう」と言ってくれたのに、もう少し待つと言い張って残ったのは他ならぬ自分だったと思い出す。

溜息をついて携帯を開くと、時刻は間もなく十二月八日の午前零時を迎えるところだった。……誕生日、終わっちゃう。

「……私もそろそろ寝よっかなあ」
「え、寝んの?」

は、と顔を上げた。音もなく、テーブルを挟んだ向こう側に大きな男の子が立っていた。

「五条くん!」
「ただいま」
「お、おかえり……!」
「あー疲れた、予定になかった任務までついでとか言って回してきやがって」

おかげでこんな深夜になったわ、という悪態を聞きながら再び時計を見る。二十三時――五十六分。

「……で、お前はもしかして待っててくれ、」
「ケーキ!!」
「は?」
「そこ! 座ってて!」

ガッタンと派手な音を立てて私は勢いよく席を立った。あらぬ方向に椅子が吹っ飛んでいったけれど構っている場合ではない。一目散に冷蔵庫まで走り、白い箱を取ってすぐさま駆け戻る。突っ立っている五条くんを座らせると、その前にどんとホールケーキを据えた。真っ白なふわふわのホイップクリームにいちごをたっぷり乗せた、定番のショートケーキ。

本当はもうちょっと雰囲気を作ってから出したかったけれど、ここまできたら仕方がない。丁寧にデコレーションを施した表面に遠慮なくロウソクを刺して火を灯していく私を、五条くんはぽかんと口を開けて見ていた。

「あちち、あちち!」
「……何してんのコレ」
「いいから五条くんは深呼吸してて! あ、ケーキには息かけないで!」
「はあ?」
「……できた! 電気電気」

いま何時だろう、まだ間に合うかな。壁の照明ボタンを押して振り返ると、真っ暗闇の中で十六本のロウソクの小さな火がゆらゆらと揺れていた。それをじっと見つめる五条くんの前髪に、白い頬に、サングラスの隙間から覗く瞳に優しい橙の光が溶けて、朝焼けの空みたいな美しい色に混ざり合っていく。

「……あの、あのね。やっぱりお店のケーキみたいに上手にはできなかったんだけど……でもおめでとうって気持ちは、いっぱい込めたから」

向かいに腰を下ろしながら言うと、五条くんはやけに静かな声で、うん、と答えた。五条くんがあんまりまじまじとケーキを見つめているから恥ずかしくなって、台ごとずいっと彼のほうへ押しやる。

「ふ、吹き消して、全部」
「せっかくつけたのに?」
「そういうものなの。消す前にお願いごとをするんだよ」
「お願いねえ……」

五条くんはしばし考え込むような素振りをする。早くしないと日付変わっちゃうのに、と私は気が気でなくて、チョコペンで書いた『おたんじょうびおめでとう さとるくん』の文字を反対側からひたすら見つめていた。下の名前で書いたの、馴れ馴れしかったかな。『ごじょうくん』だとスペースが足らなかったのだ。いまのうちに言い訳をしておこうかと顔を上げたとき、ちょうどこちらを向いた五条くんとぱっちり目が合った。

「なあ」
「うん?」
「来年もまた、作ってくれる?」
「え」

瞬間、五条くんがふうっと大きく息を吐いて、十六本のロウソクの火は魔法のように掻き消えた。あとに残ったのは甘ったるいクリームの香りと、薄い煙の向こうでいたずらっ子みたいに笑う、彼の瞳の光だけだった。

「――ね、お願い」

ねがいごとショートケーキ

「っていうことがあってさあ」

後ろからニヤついた声が聞こえる。相槌のひとつも打っていないのに、この男は五分以上もこうしてひとりで喋り続けていた。無駄によく通るテノールが忌々しい。

「ねえ聞いてる〜? 七海ィ」
「誕生日ケーキの話なら腐るほど聞きました」
「聞いてんなら返事くらいしろよ、寝てるかと思うじゃん」
「寝ていてもいいんですか」
「別にいーけど、巻き込んでも知らないよ」

べしゃりと何かが崩れ落ちる音がして視線をやると、五条さんの足元には大型の呪霊が倒れ伏していた。その間にも左手から襲ってくる別の呪霊を指先ひとつで容易く祓っている。口笛でも吹きそうな軽さで、遊んでいるようにさえ見えた。えげつないという意味で言えば、どちらが呪霊なんだかわからない。

「私がいなくても問題なさそうですので、先に帰らせていただきます」
「馬鹿言えよ。こんな数ひとりでやってたら日が暮れるっつーの」

五条さんと背中合わせの状態のまま天を仰げば、剥がれ落ちた天井の隙間から夥しい数の呪霊がこちらを睨んでいた。一体一体は大したレベルではないものの、束になって来られると些か面倒だ。

「あーあ、今日は早く帰りたいんだよね〜」
「だったらさっさと本気を出して一気に祓ってください。あなたなら造作もないでしょう」
「建物に損害出すなって言われてんの。先月、壊しすぎて学長に怒られちゃってさあ。だからお前に手伝ってもらってるワケ」
「クソが」
「お前いま舌打ちした?」

僕センパイなんですけどぉ、と間伸びした腹立たしい声は無視して、間合いまで寄ってきた呪霊を一息に薙ぎ払う。

何が悲しくて今日という日をこの男と過ごさねばならないのだ。だいたいこんな崩れかけの廃墟、ひとつ吹き飛んだところで大した問題ではないだろう。あとこれだけはハッキリさせておきたいのだが、この人に先輩らしいことをしてもらった覚えは一切ない。

「イライラしてるとモテないよ〜?」
「大きなお世話です」
「せっかく僕たちの初々しーい馴れ初めの話してあげたのに」

癒されるでしょう羨ましいでしょう、と畳み掛けられ、危うく再び舌を打ちかけた。何が馴れ初めだ。その誕生日から一年もかけてようやく交際に漕ぎ着けたくせに。喉元まで迫り上がった台詞はすべからく呪力へと変換し、一刻も早くこの場から立ち去ることにのみ意識を集中させる。

五条さんの恋人のことはよく知っている。学生時代からこの人より彼女のほうが、よほど先輩らしく私たち下級生の面倒を見てくれた。昨年ついに同棲を始めたと聞くが、いくら世話焼きの彼女といえど、毎日毎日この人のどうしようもない言動に振り回されて大丈夫なのだろうかと心配になる。――それこそ大きなお世話か。

「……彼女のためにも早く済ませたほうがいいのではないですか」
「え? ちょっとなになに、『自分のほうが彼女のことわかってます』アピール? もしかして喧嘩売ってる?」

ああもうこれだから馬鹿には付き合っていられない。いっそ自分の術式で辺り一帯すべて更地にしてしまおうか。もちろん責任はこの人に被せて。
そんな物騒なことを考えて鉈を握り直したとき、五条さんが「あ」と声を上げた。

「もしもし?」

長い脚で呪霊を蹴り飛ばしつつ、息ひとつ乱さないままに五条さんはスマートフォンを耳に当てた。うん、うん、と時折笑い声も混じって聞こえてくる相槌は耳を塞ぎたくなるほどに甘ったるい。クソ、胸焼けがする。

「――大丈夫。もうすぐ帰るよ」

だから、ケーキ用意して待っててね。
いたく優しい声で電話口に語りかける五条さんの指先に蒼い呪力が収束していくのを見やり、私は今年一番の長い溜息をついた。どうせやるなら最初からやってくれ。

 

 


五条さんお誕生日おめでとうございます!!
 
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