おるすばんハンバーグ

※五条視点/最後だけ夢主視点

 

 

「あ、そっか」

玄関を開けて一番、口からぽろりと独り言が転がり落ちた。それは誰にも届くことのないまま、薄暗い部屋の奥に吸い込まれて消える。
任務帰りの僕を迎えてくれたのは、センサーに反応してぱっと明かりを灯した小さな電球ひとつだけだった。橙色の淡い光に照らされたタイル張りの三和土に、彼女の靴はない。

『明日から出張になったの。北海道に、三日間』

昨日の夜、彼女から聞いた言葉を思い出す。
補助監督である彼女が泊まりがけの任務に赴くことは珍しい。今回は呪術連からの特別要請で、高専の職員が根こそぎ駆り出されているのだった。彼女もそのうちのひとりだ。今朝、僕が目覚めたときにはもう彼女は出発した後で、空っぽのベッドの半分を見て確かに「ああ出張か」と理解したはずなのに、なぜか今日も家に帰れば当たり前に彼女がいるものと思い込んでいた。慣れっていうのは厄介だ。

靴を脱ぎ散らかして洗面所に向かいながら、ポケットからスマホを取り出してみる。連絡は来ていない。北海道の山奥に行くから電波がないかもしれないと言っていたのも、やっぱり今ごろになって思い出した。

「飯、外で食ってくればよかったなあ」

手洗いは爪の間までしっかり、三十秒。最初は面倒くさいと思ったけれど、いまや癖になっている。だってこれをやらないとキスもハグも許してくれないのだ。まあ、今日はどっちもできないんだけど。シンクの脇に吊り下げられたタオルは、彼女が出かける前に交換して行ってくれたのだろう、洗い立ての清潔な匂いがした。

付き合ってそれなりになる彼女となし崩し的に同棲を始めて、かれこれ一年が経とうとしている。同棲というか、彼女が僕の忙しさを案じて週末ごとに世話を焼きに通ってきてくれていたのを、僕が引きずり込んだのが始まりだった。

別に家事をしてほしかったわけでも、ソウイウコトを目当てにしていたわけでもない。単純に、帰る場所が同じならわざわざデートの予定を擦り合わせなくてもよくなるし、移動の手間も省けるし、結果的に一緒に過ごす時間も増えて合理的だし。そんな風に説明すると、彼女は案外すんなりと応じてくれた。『悟くんは放っておくとすぐに自分を疎かにするから、私が見ててあげないと』なんてえらそうなことも言っていた。いつもボンヤリとしていて、寝顔なんか赤ちゃんみたいにあどけないくせに、彼女は時折そうやって僕に大人ぶってみせるのだった。

そんな彼女ひとりがいないだけで、家の中は驚くほど静かだ。このまま寝てしまってもよかったけれど、なんとなく口寂しくてダイニングの扉を開けた。ここの電気が消えているのを見るのは久しぶりだ。いつもは大抵、彼女が先に家に帰って食事を用意してくれていて、その頃にはお風呂も沸いていて、天日干しされてふかふかになった布団も綺麗に整えられている。

冷蔵庫に、几帳面に作り置かれたお惣菜のタッパーを見つけた。『レンジで三分』『お鍋に移して加熱』『そのまま食べられます』等々、子供みたいな字でメモされた付箋が貼ってある。その中から、『早めに食べてください』と書かれたプレートを取り出して、レンジにかけた。

ラップのかかった黄色のお皿には、トマトソースのハンバーグと、タコだかカニだかの形にカットされたウインナー、それから真っ赤なナポリタンがぎゅうぎゅうに盛り付けられていた。メガサイズのお子様ランチみたいで笑ってしまう。僕を何だと思ってるんだろう。見るともなしにテレビをつけ、同じく冷蔵庫に用意されていたサラダと、インスタントのコーンスープと一緒に食べた。いつもは残す付け合わせのブロッコリーも人参も、今日は叱ってくれる人がいないから、全部平らげた。

「……映画でも観るか〜」

考えてみれば、ひとりで気ままに過ごす夜なんて滅多にない。彼女と観るには気が引けるスプラッタなやつとか、ちょっとエッチなやつとか、今度ひとりのときに観ようと取っておいたタイトルが何本か頭に浮かぶ。早速リモコンでサブスクのアプリを呼び出しながら、テレビの前のソファに移動した。三人掛けの大きなカウチを今日は贅沢に独り占めだ。
そういえばこのカウチも、彼女が引っ越してきたときに二人で買いに行ったんだっけ。

ど真ん中にでんと腰を据えると、反動で彼女がいつも使っている水色のふわふわのクッションが転がり落ちた。拾い上げて膝の上で弄ぶ。彼女はいつもこのクッションを『手触り最高〜』と言って撫で回すけれど、僕には少し物足りない。彼女の細くてさらさらの髪を指で梳くほうが、よっぽど最高だと思った。

クッションしかり、お揃いのマグカップしかり、変なキャラクターのぬいぐるみしかり。一人暮らしのときには真っ白で殺風景だったこの部屋にも、だいぶ彼女の色が増えてきた。流行りの小説やファッション誌、どこそこの店で並んで買ったという紅茶にお菓子の缶。普段、生活しているときはまるで気にならないのに、今日に限ってどれもこれも妙によそよそしく見えるのは、やっぱり持ち主がいないせいだろうか。

ああ、集中できない。

 

結局、映画は十五分と観ずに切り上げた。風呂にわざわざ湯を張る気にもなれず、さっさとシャワーだけを浴びて寝支度を整える。秋も深まってきたこの頃、シャワールームを出ると一気に冷たい空気が肌を覆った。
北海道はもっと寒いだろうか。あいつ、ちゃんと防寒着持ってったかな。一番あったかいダウンコートは、嵩張るからと圧縮してクローゼットの一番上にしまっていた気がする。彼女では手が届かない。

「……歯磨き粉、買い置きどこだっけ」

洗面台の鏡を開けて裏側の収納を漁るも、新しい歯磨き粉が見当たらない。仕方がないから終わりかけのチューブをぶんぶんと振って、歯ブラシ目掛けてなけなしのペーストを絞り出す。ぷつ、と間抜けな音を立てて飛び出した歯磨き粉は見事に着地点を誤り、ぴかぴかのシンクに無様な形で落っこちた。あーあ。

おるすばんハンバーグ

ポケットの中でスマホが震えたのは、ちょうどホテルの部屋に着いて荷物を下ろした直後だった。
画面に表示された名前を見て、一も二もなく通話ボタンをタップする。この間、およそ〇.〇二秒。わかんないけど、きっとそれくらいだ。

「もしもし?」

耳に当てたスピーカーの向こうで一瞬、息を呑む気配があった。閉め切られた分厚いカーテンを開け、二重のサッシをくぐってベランダに出る。薄いストッキングの足裏に貼りつくようなコンクリートが冷たい。

『……あー、僕だけど』

ややあって聞こえた声は少し眠たげで、でも紛れもなく彼のものだった。今朝まで一緒にいたのに、なんだかずいぶん長い間、離れていたような気がした。

「うん、どうしたの? 何かあった?」
『いや、特に何もないんだけど』
「なあんだ。急に電話きたからびっくりしちゃった」

ぴゅうぴゅう吹きつける夜風に、私はコートの襟元をしっかりと合わせて首をすくめた。分厚いダウンコート、やっぱり悟くんに頼んで出しておいて貰えば良かったなあ。

『そこ、電波ないんじゃなかったの?』
「いま麓のホテルに戻ってきたところで、ここならベランダに出れば通じるみたい」
『ふーん』

気の抜けた返事をよこして、悟くんは押し黙った。電話口が静かだから、きっともう家に着いているのだろう。今日は早く帰れたみたいでよかったと安堵していると、もぞもぞと衣擦れの音がした。どうやら家どころかもうお布団の中みたいだ。いつも夜ふかしの悟くんが、珍しい。

『……あのさあ』
「うん?」
『歯磨き粉、どこにあったっけ』
「歯磨き粉?」
『こないださ、新しいの買ったじゃん。駅前のドラッグストアで』
「えーっと……洗面所のシンクの下の引出しに入ってない?」
『あー、引出しね』

引出しか。独り言みたいに悟くんが呟く。

え、それだけ? ……そーだけど、悪い? ううん、わるくない。じゃあなに笑ってんの。
拗ねたような低い声が耳にくすぐったい。すっかり住み慣れたあの家から離れ、こうして悟くんと電話越しに話すのは、ずいぶん久しぶりだ。新鮮な気持ちと一緒に、どことなく懐かしいような感覚がじんわり体を巡っていく。

「こういうの、なんだか久しぶりだなあって思って」

まだ二人で暮らし始める前のこと。ワンルームの小さなアパートの部屋で、私はいつも悟くんからの電話を待っていた。今日も忙しいのかな、怪我はしていないかな、お腹を空かせていないかなって、ちょうどいまみたいに、悟くんのことばっかり考えながら。

ふうっと吐いた息は白く濁っている。スマホを持つ手が寒くて、反対の手に持ち替えた。冷えた指先をポケットの中でぎゅうと握り込みながら、悟くんの大きくてあったかい手のひらを思い出した。

『……ハンバーグ、さあ』
「うん?」
『今度はデミグラスソースのやつ食べたい』
「うん、いいよ」
『目玉焼き乗っけて、月見にして』
「ふふ、美味しそう」
『……だからさ』

早く帰ってきてよ。

溜息をつくように悟くんが言う。うん、と返した声から、にやけた顔が伝わってしまわないだろうか。お土産は何にしようかな。ふわふわのチーズケーキがいいかな。悟くんの好きなココアも淹れて、二人で「甘いね」って言いながら、早く一緒に食べたいなあ。

「あ、ねえ悟くん。外見て」

見上げれば、まどろむような優しい光を湛えて、まあるい月が夜空にぽっかりと浮かんでいた。彼の眠る窓辺もこんな光で照らされていたらいいと、柄にもなく乙女なことを思った。

「月が綺麗だよ」

 

 

このシリーズの再録+書き下ろしのまとめ本をフロマージュブックス様にて頒布しております。ご入用の方がいらっしゃいましたらぜひ。
通販ページ