花を持つ手で呼んでほしい

※高専時代/五条視点

 

 

始まりは、ほんの些細なことだった。

「あ、金木犀の匂い」

秋も深まり始めた十月の頭、いつものコンビニへ向かう途中で不意にナマエが呟いた。耳慣れない単語に俺は眉を顰める。それが何を指すのか、食べ物なのか生き物なのかさえ見当がつかず、半歩ほど後ろにある丸っこい頭に聞き返した。

「なんて?」
「きんもくせい」
「キンモクセー」

おうむ返しに口にした言葉はやはり舌に馴染まない。立ち止まった彼女は小さな鼻ですんすんと宙をかぎ、それからもう一度こちらを仰ぎ見た。主人に何かを訴えかける犬のようでもあった。そのニオイとやらをどうにかわからせたいのか、手で一生懸命にぱたぱたと扇いでくるが、残念ながら俺の顔の高さまではそよ風ほども届かない。

「ほら、いい匂いがするでしょ?」
「……まあ、言われてみれば」
「どこにあるんだろ……あっ」

言うが早いか、ナマエはぱっと振り返って駆け出した。すばしっこい小動物の動きで道端の塀の先を覗き込み、あったよ、と嬉しそうに俺を手招く。別に俺は探してないんだけど。

傑はよく「ふらふらと寄り道をするな」と俺に説教を垂れるが、それを言うならコイツだって大概だと思う。夕飯前だというのにいきなり人の部屋にやってきて、中華まんが食べたいだのと駄々をこねて俺を連れ出したくせに、その目指すコンビニに行く途中ですらこうして簡単に他の何かに気を取られてしまう。よく言えば天真爛漫、悪く言えば落ち着きのない小型犬のような女だった。

ナマエが細い腕を伸ばす先には、誰かの家の庭で黄色い花をいっぱいにつけている背の高い木があった。微かに風が吹き、塀からこちら側まで張り出した枝を震わせる。どこか懐かしいような甘やかな香りが、ようやっと俺の鼻先を通り過ぎた。

「この匂いがしてくると、秋だなあって思うよねえ」
「肉まんの匂いだろお前の場合は」
「五条くんには情緒ってものが足りない」
「さっきまで食欲の秋がどうのとか騒いでたやつに言われてもなー」
「金木犀の花言葉は『謙虚』だよ五条くん」
「ふーん。覚えとくわ」
「絶対覚える気ないやつ」

あとで抜き打ちテストしますからね、とナマエは口を尖らせる。
中華まんみたくフカフカとしたその頬をつねってやろうと指を伸ばしたら、ナマエは再びするりと俺の脇をすり抜けて、今度こそコンビニの方角へ歩き出した。空を切った手はそのままポケットにしまう。

「同じモクセイ科で銀木犀っていうのもあってね、そっちは花が真っ白なの。私は銀木犀も好きだなあ」
「へー」

金と銀でなんだかおめでたいよね、並べて植えたらきっと綺麗だよね、などとナマエは勝手にぺらぺら喋り続ける。

どうでもいいと思った。木だの花だの、俺にはどれだって同じに見える。そんなことよりさっさと買い物を済ませて帰ってゲームの続きをしたい。

「あのね、銀木犀の花言葉はね、」

――そう言いたかったのに口に出せなかったのは、ふと目に映る街路樹や、アスファルトの隙間に咲く花の名前がやけに気になったからで、そして不意に振り返ったナマエの声が、何か内緒話でも打ち明けるときのように密やかな響きを持っていたからだった。

「……『初恋』、だよ」

花を持つ手で呼んでほしい

「あれは?」
「りんどう」
「あっちは」
「さざんか」
「じゃあそこの木」
「さるすべり」
「その隣は知ってる。ススキ」
「うふふ、よく知ってたねえ」
「ばかにしてんのか」

後ろから頭を小突いてやると、ナマエは楽しそうにけらけらと笑った。高く晴れた秋空の下、弾けるような明るい笑い声が響く。

寮の自室のベランダで、ナマエはさっきからせっせと土いじりに勤しんでいる。様々に咲きこぼれる花の隙間で何事か手を動かすその後頭部を、俺は手持ち無沙汰に突っ立ったまま眺めていた。

入学当初から育てているというナマエのプランター 花壇には、少し肌寒くなってきたこの時期でも色とりどりの花が咲いている。初めてこの部屋を訪れたとき、確かCDだか漫画だかを借りにきたのだが、何の種を植えただの開花はいつ頃だの、聞いてもいないのに一から十まで説明されたのを思い出した。

これまで関心さえ示さなかった俺が最近になってよくこの『花壇』を覗きに来ることを、ナマエは何も気に留めていないようだった。暇に任せて庭の草木の名前を目についた順に尋ねてみても、ひとつひとつ律儀に答えてくるだけだ。まるで幼い子供に噛んで含めるような口調が少し腹立たしかった。

「黙って花いじってて楽しい?」
「楽しいよ」
「ふうん」

ナマエは俺のほうを見もせずに手を動かし続けている。普段は何をしていてもすぐに気が散って、授業中だって五分と集中がもたないくせに、花を相手にするときだけはコイツは絶対によそ見をしない。

「いつも人間の汚いところばっかり見てるから、たまには花でも愛でたいじゃない?」
「そんで将来、農家かお花屋さんにでもなるわけ?」
「え、それいいね」
「ノーテンキすぎだろ」

言いながら、ナマエの隣にしゃがみ込む。赤、白、黄色、場違いなほど美しく瑞々しい色を湛えた花弁が風に揺れている。

「……お前さあ、こんなとこいるよりフツーの高校行ったほうがいいんじゃねえの」

曲げた膝の上に頬杖をつき、ナマエが育てた花をぼうっと眺めた。古臭くて湿っぽいこんな学校の片隅で呑気に太陽を仰ぐその姿は、なんだか誰かさんにそっくりだ。

たとえば。
燦々と注ぐ陽の光の下、ダサい園芸エプロンに麦わら帽子姿で、小さなスコップと変な形のハサミを持って土に塗れている、そんな彼女を想像する。真っ黒な制服を着込んで訳のわからないバケモノを相手にしているより、よっぽど似合う気がした。

「……うーん。でもさ、」

しゃきん、とナマエの持つハサミが鳴る。刃が短くて持ち手が大きい、花の茎をちまちまと切るためだけに作られたみたいなハサミ。きっと俺は一生持つことがないだろう。しゃきん、しゃきんとそれを幾度か鳴らした後で、ナマエはゆっくり口を開いた。

「ここ辞めたら、もう、会えなくなっちゃうでしょ?」
「……誰に?」
「……、みんなに」

みんな、ね。
ふうと短い息を吐く。同時に目の前の花をひとつ手折った。隣でナマエがまんまるく目をみはる。「ちょっと何すんの」と言いかけた彼女を制するように、摘み取ったばかりの青い花をその眼前に差し出した。

「これの花言葉は?」
「え」
「花言葉。得意だろ」

蝶の羽にも似た丸い花びらが重なり合った、小さな花だった。ナマエがいつも愛おしそうにその名を呼ぶから、知らぬ間に覚えてしまった。

「……む、紫は『誠実』で……」
「うん」
「黄色は、『慎ましい幸せ』……」
「うん」
「……青、は」

言い淀むナマエの横髪を指先で掬い上げる。細い肩がぴくりと震えた。ようやくこちらを向いた瞳は、しかし目が合った瞬間にぱっと逸らされる。「し、知らない……」とうそぶく声は聞いたことがないくらいしおらしくて、それをからかってデコピンのひとつでもかましてやりたいのに、俺の手は花に触れるよりも優しくナマエの髪を耳にかけてやるばかりだ。露わになった白い首筋がじわじわと朱を帯びるにつれ、自分の中に芽吹いていた得体の知れない感情が確かな形を成していく。

「――なあ。青は?」

俯いた耳元に囁きかける。いよいよ茹でダコのごとく真っ赤に染まった顔の横で、涼しげな青が一輪、揺れた。

 

 


Title by 失青