すべてねむたい眸がいけない

※五条視点

 

 

「ねえ、暑いよさとる〜……」

腕の中で、三十六度の熱の塊がもぞもぞと動いた。くぐもった声に視線を下げれば、精一杯に首を捻ってこちらを振り仰ぐ彼女の瞳が、物言いたげにひとつ瞬きをする。僕は聞こえないフリをして、その小さな体を閉じ込めるようにぎゅうと思い切り抱きすくめた。
セミダブルベッドの軋む音に紛れ、ぐえ、と色気のない悲鳴が上がる。昔、腹を押すとこんな感じに鳴くぬいぐるみがあったな、なんてどうでもいいことを考えた。

実に二ヶ月ぶりである。こうして彼女を腕の中に収めるのは。

長雨とそれに続く猛暑の影響か、今年の夏はとにかく呪霊被害が頻発し、だらだらといつまでも繁忙期が長引いていた。多忙な術師同士、普段でさえ二人でゆっくりデートなんて滅多にできないというのに、ここ最近ときたら高専内での立ち話はおろか、お互いの顔を見ることすらままならない状態だったのだ。
出張、出張、授業、会議、また出張。そんな目まぐるしい日々が、しかし今日をもってようやく途切れる。
地獄の責め苦のような連勤をこなす僕を哀れに思ったのか、はたまた『休みをくれないと本気の駄々をこねる』という脅しが効いたのかは知らないが、なんらか頑張ってくれた伊地知のおかげで、明日は一日だけ休みをもぎ取ることもできた。
となればもう、やることはひとつしかないではないか。

再び「暑い……」と漏れた力無い呟きを華麗に無視し、僕は寝転んだままナマエの体を後ろからしっかりと抱え直した。タオルケットの中で探り当てた小さな手から、ぽかぽかとした彼女の体温が伝わってくる。

ナマエは眠たいと手足があったかくなるから、すぐにわかる。ぐずぐずと目を擦る仕草も子供みたいで可愛いと思うし、たまに僕を差し置いてさっさと寝こけてしまう日があったって、それを理由に怒ったりなんかはしない。僕は心の広い大人の男なので、日々の任務で疲れているだろう彼女を気遣う優しさも、余裕も、ちゃあんと持ち合わせているのだ。
ただ、それが今日に限ってはもう、小指の先っちょくらいしか残っていないわけだけど。

「さとる……離してえ……」
「やーだ」
「……ねむい……」
「まだダメ」

ふわふわの後頭部に鼻先を埋めると、ナマエはこれでもかと身を捩りながら、後ろ足でぐいぐい僕の膝あたりを蹴ってきた。こいつ、眠いとか言っといてまだこんな力残ってんじゃん。

「ねえナマエ〜、なんで今日は玄関でお迎えしてくれなかったの? 『ご飯にする? お風呂にする? それともワタシ?』ってやつ楽しみに帰ってきたんだけど? そんに素っ気なくされたら僕泣いちゃうよ? イイ大人が新生児ばりに泣くよ? いいの? ねえってば」
「ちょっと静かにして……」

いま何時だと思ってるの、と低い声で問いかけられて壁の時計を見やる。午前零時前。いつもなら彼女もまだまだ起きている時間だ。

「まだ日付変わる前じゃん」
「……今日はねむいの」
「こんな時間まで任務頑張った僕を褒めてよ」
「えらいねさとる。すごいねさとる。では」
「こらこらこら、まだ寝ちゃダメだって」

そそくさと就寝モードに入ろうとするナマエの、オーバーサイズのTシャツの裾から手を差し入れる。薄い腹をやわやわ撫で回していたら、この世の終わりみたいな顔で彼女が振り向いた。『触るな』と言わんばかりの形相に思わず手を止める。この僕を捕まえてそんな嫌そうな顔する女、お前くらいなんだけど。ちょっとショック。

再びぷいっと向こうを向いてしまった彼女のご機嫌は、どうやらだいぶ斜めに傾いているらしかった。
いつもならへらへら笑って流されてくれるはずなのに。少し訝しく思いながらも、強引に押し進めるのは逆効果と判断し、すぐさま違う作戦に打って出る。こういうのは一瞬の判断の遅れが命取りになるのだ。

「ね、アイス買ってきたよ。食べる?」
「たべない」
「じゃあ、こないだ録画した映画観よっか。お前の好きなゲロ甘ラブロマンスのやつ」
「……みない」
「あーわかった! 人生ゲームする? それともウノ? 悟くんのカッコイイところで山手線ゲームでもいいよ」
「もう、寝るから」

ぴしゃり。そんな効果音がよく似合うような声音で言って、それきりナマエは黙ってしまった。
丸まった背中の向こうで、僕の手から逃れた彼女の両手がきゅっと小さく握り合わされるのが見える。祈るような形をしたその拳を、ナマエは少し尖らせた自分の唇に寄せ、それからふっと微かな溜息をついた。

(……あー、なるほど。そーゆーモードね)

久方ぶりに見るその仕草に、すとんと腑に落ちるものがある。そりゃあアイスなんかで釣れるわけがないな。

「ナマエちゃん」
「……」

つとめて優しく名前を呼んで、柔らかい髪をそっと撫でてやる。ぴくりと肩が震えたけれど、振り払われることはなかった。
僕と喧嘩をしたとき。悲しいことがあったとき。任務で嫌な思いをしたとき。これは、そうやって何かをじっと抱え込んでいるときのナマエがよく見せる、昔からの癖なのだった。

「なあに、拗ねてるの?」
「……べつに」
「僕、なんかしちゃった?」

心当たりがないことはない。仕事にかまけて二ヶ月も恋人をほったらかしにしていたと言われればまあ否定はできないし、これまで何回デートをドタキャンしたかわからない。連絡だってマメなほうじゃないし。
でも、そういうことでナマエが怒るのは稀だ。楽しみにしていた旅行が僕の急な出張で潰れてしまったときでさえ、残念そうにこそしながら「悟は人気者だから仕方ないねえ」なんて言って、笑って済ませてしまうようなやつだった。

そうやってナマエに甘やかされて許されるのがたまらなく心地いいと、気づいたのはもうずいぶん前のことだ。
困ったように眉を下げてナマエが笑いかけてくれるとき、その瞬間、僕は正しく人間でいられるような気がした。それが見たくて意地悪をしたことだって、数えきれないくらいたくさんあった。
嬉しそうな顔も眠そうな顔も泣いてる顔も全部、僕だけのものになったらいいなんて、子供じみたことを考えたりもする。なんか悔しいから、本人には言ったことないんだけど。

そして、たまにこうやってくしゃくしゃに丸まってしまう彼女の本音を、どうにか引っ張り出して綺麗に伸ばしてやる誰かがいるのなら、やっぱりそれは僕でありたいと思うのだ。

「……今日、さとる」

しばらくして、ナマエが蚊の鳴くような声で言った。僅かに身じろぎをする衣擦れの音にすら掻き消されてしまいそうな小さな呟きだった。
ナマエの髪を撫でていた手を止め、ベッドの上で半身を起こしてその顔を覗き込む。伏せた睫毛を震わせながら、ナマエはぽつりぽつりと雫の滴り落ちるような速度で話し始めた。

「……手紙、もらってた。事務の女の子から……」
「手紙?」
「きらきらの紙の、可愛いレース模様の封筒の、やつ……」

途切れ途切れに紡がれる言葉をどうにか拾って、頭の中でひとつずつ繋ぎ合わせていく。今日、事務の女の子、手紙、レースの封筒…………あ。

「……見てたの?」
「み、見たくなかったけど、偶然通りかかっちゃったんだもん!」

はたと気がついたという顔をした僕を、ナマエは咎めるようにじとりと睨み上げた。けれどそれも三秒ともたず、黒目がちな瞳はみるみる涙の膜に覆われていく。

「さとる、すっごい嬉しそうにしてて……だからわたし」

やきもち、やいちゃった。
か細い声が聞こえて、僕はぽかんと口を開けた。
必死に涙を堪えているナマエの顔を見つめ返しているうち、言いようのない感情が喉の奥からせり上がってくる。やきもち? 僕が女の子に手紙もらってたから? そんなことで? なにそれ。それってなんか、なんか。

たまらず口元がにやけて、次の瞬間には笑いが溢れて止まらなくなった。ナマエは信じられないという目で僕を見ている。ごめん、でもちょっとこれは我慢できない。

「ひ、ひどい! なんで笑うの~!?」
「いやあれさ、招待状だよ。結婚式の」
「…………へ?」
「彼女、結婚するんだって。年下の補助監督くんと」

いまだくつくつと笑いが止まらない僕を前に、ナマエの白い肌がたちまち赤く染まっていく。まあ出席は無理だろうからお祝いだけ送っておくつもりだけど、と付け足すのもまるで聞こえていないみたいだ。

「え」だの「あの」だの、しどろもどろに言い訳を探す彼女の肩を掴んでころりと転がして、僕は仰向けになったその体の上に覆い被さった。さっきとは別の意味で泣き出しそうな目元を指の腹でなぞり、そしてとびきり甘く名前を呼んでやれば、もう視線が逸らされることはない。

「ヤキモチやいちゃったんだ?」
「う……」
「可愛いね」
「ね、ねむかったから、見間違えちゃっただけ……」
「はは、じゃあそういうことにしといてあげる」

薄く開いた唇に触れるだけの口付けを落とす。
嬉しいとか愛おしいとかくすぐったいとか、なんだかわからないけどとにかく幸せな色をした何かが胸を満たして、ぬるま湯みたいに僕を内側からゆっくりと溶かしていく。覗き込んだ丸い瞳の奥で同じ色が閃くのを、僕は見逃さなかった。

「ねえ、ほんとにもう寝ちゃうの?」
「……もっかいちゅーしてくれたら、目、覚める、かも」

しれない。その言葉の端っこを奪うように、今度は深くキスをして。
忙しない僕らの束の間の休日は、そうしてようやく始まった。

すべてねむたい眸がいけない


Title by エナメル