花と水であるように

※喧嘩して仲直りする話

 

 

「あのさあ」

ベッドでうつ伏せに転がってテレビを見ていたら、後ろからずいぶん棘のある声が飛んできた。
このベッドルームへと続くドアを誰かがくぐってくる気配を背中で感じながら、誰かと言っても一人しかいないのだが、とにかくわたしはテレビから視線を外すことなく「うん」とだけ答えた。
リビングにもっと大きなテレビがあるのだけれど、ものぐさなわたしが布団から出ずにテレビを見たいと駄々をこねて、一回り小さいものを寝室にも設置してもらった。同棲を始めてすぐの、去年の初夏のことである。

「ねえ、聞いてんの?」

二言目はつむじのすぐ上から降ってきたので、さすがのわたしも振り向かざるを得なかった。シーツにひたりと張り付くような冷たさを帯びたその声は、果たしてわたしの恋人、五条悟から発せられたものに違いなかった。

「聞いてるよ。どしたの?」
「どしたの、じゃないよ。キッチンの上の棚、また開けっぱなしだったんだけど」
「あ」

しまった、という顔をしたわたしに、悟はあからさまに眉を顰めた。
お風呂上がりでサングラスを外したままの裸の瞳に、濡れた白銀の前髪が垂れ落ちる。それを鬱陶しそうに掻き上げる手つきはたいそう色っぽく、いつもだったらその仕草だけでぼけっと見惚れてしまっていたかもしれない。
けれど残念ながらいまのわたしは、推し俳優の出演するドラマのいいところを邪魔されてすこぶる機嫌が悪かった。「ごめん」と謝った言い方が投げやりすぎたのか、悟の滑らかな眉間にはさらにシワが寄る。

「前も言ったけどさあ。お前と違って僕、あの棚がちょうど目の前に来んの。開いてると邪魔なんだけど」
「だからごめんってば。ちょっと忘れちゃっただけ」
「ちょっとじゃなくていつもだろ」
「……別に、無下限使ってればぶつからないんだからいいでしょ」
「はあ?」

あ、これは良くない流れだ。わかっていながらも、売り言葉に買い言葉でつい言い返すのをやめられない。
ここで可愛く『ごめんね、気をつけるね』と小首を傾げて、さらには悟のおでこの心配でもしておけば事は丸く収まるのに、今日に限ってそれができなかった。わたしも、きっと悟も、なんだか虫の居所が悪かったのだ。

「……あーもういーや。めんどくさ」

聞こえよがしな溜息とともに、悟がくるりと踵を返す。「これでも僕、疲れてるんだよね」と嫌味っぽい台詞を投げつけられた瞬間、わたしの中でぷつんと何かが切れた。

「さ、悟だっていつも、パンツ脱ぎっぱなしじゃん!」

我ながら、なんて幼稚な切り返しなのだろうと思った。でも真っ先に頭に浮かんだのがそれだったんだから仕方ない。悟も「え?」みたいな様子で振り向いたけれど、不機嫌のほうが優ったのか、すぐに唇をへの字に曲げた。

「何それ。いつの話?」
「い、いつもだもん。今朝だってわたし、悟が出かけた後に拾って洗濯機に入れたんだから!」
「……たまたま忘れただけでしょ。今朝、バタバタしてたし」

今朝だけじゃない。悟はいつだって忙しいから、わたしが起きる頃にはもう、前の夜に脱ぎ散らかした服だけを残してそっくりいなくなっていることばかりだった。広いベッドでひとりで目覚めて、床に点々と落っこちた恋人の下着を拾い集めるわたしの虚しさが悟にわかるだろうか。
朝日に白々と照らされる空っぽの部屋の、あのしーんと静まり返った空気を思い出し、沸々と憤りが込み上げてくる。そうなったらもう止まらなかった。

「それに! 悟ってジャムもジュースも柔軟剤もぜーんぶギッチギチに蓋閉めるじゃん! ひとりのとき、開けられなくて困ってるんだからね!」
「えっ」
「自分が便利だからって何でもかんでも高いところに仕舞うのもやめて! 取れない!」
「ちょ」
「『僕が取ってあげるからいいでしょ』って言うから踏み台も買ってなかったけどさ、クローゼットの一番上、わたし届かないんだよ!?」
「……、……」
「今日だって……っ、早く帰ってくるって言うからご飯作って待ってたのに、」

そうだ。晩ご飯はグラタンがいいって悟が言ったから、いつもは使わないグラタン皿を棚の奥から取り出したくて、踏み台代わりにダイニングチェアをわざわざキッチンまで引っ張っていった。椅子を片付けるのに気を取られたせいで、棚の扉を閉め忘れて、それで。

「……なんでもないっ」

呆けたように立ち尽くす悟の脇をすり抜け、後ろ手でベッドルームの扉を乱暴に閉めた。ばん、と当て擦りのように大きな音を立ててしまったことが気まずくて、素足で歩く廊下の床板が思ったよりもずっと冷たくて、わたしはすごすごと逃げるようにしてキッチンに身を隠した。

 

「……あーあ」

――やっちゃった。仕事についての不満は言わないって、決めてたのに。
わたしだってこの業界で働く人間だ。悟がどんなに忙しいか、どんなに大切な役割を背負っているか、理解しているつもりなのだ。それなのにこんな子供じみた我儘を言って、悟はきっと呆れてしまっただろう。
そう思うと、さっきまでぱんぱんに膨れ上がっていた怒りの気持ちはみるみる萎んでいって、代わりに目尻に涙が滲んだ。

この家で一緒に暮らし始めてそれなりの時間が経って、知らぬ間にそこらじゅう悟の存在が染みついてしまっていたみたいだ。だから悟がいないとこんなにも心許ないし、悟がいないとペットボトルの蓋ひとつ開けられない。ちょっと帰りが遅くなったくらいで拗ねて怒って、素直になれなくて。

「……ふんぬッ」

冷蔵庫から取り出した二リットルのペットボトルは、やっぱり蓋がギチギチで全然開けられなかった。
お揃いのグラスを氷でよく冷やして、それから甘いサイダーをなみなみと注いで、ついでにアイスを浮かべて持って行ったら許してもらえるんじゃないか。そんな浅はかな考えを抱いたから、サイダーの神様が怒ったのかもしれない。サイダーの神ってなんだろう。ああもう、訳わかんないくらい固いなこの蓋。涙が溢れてくるのはきっと、力を込めすぎているせいだ。

「んぐぐぐ」
「……もー、何やってんの。貸して」
「へあ、」

プシュ。横から掻っ攫われたペットボトルは、ものの一秒で呆気なく開いてしまった。
わたしが両手でようやく持てる太さのボトルを大きな右手が難なく掴み上げる。とっとっとっ、と小気味良い音を立てながら、ふたつのグラスに透明な液体が注がれていった。氷に触れた炭酸が細かく弾けて、ほんのり甘いレモンの香りが胸を満たした。

「……さとる」
「……なーに」
「……ごめん、なさい」
「……、……僕も言いすぎた、ごめん」

ぼそっと呟かれた言葉を背にして、冷凍庫からバケツみたいな容器のバニラアイスを取り出す。悟の好きな、ちょっとお高いやつ。ディッシャーで掬ってグラスのてっぺんにぽとりと落とすと、すかさず「二個」と短い指示が飛んでくる。これでもかといっぱいに掬ったアイスをもうひとつ、雪だるまみたいに重ねた。

「……あのね、一緒にドラマ、見る?」
「ヤダ」
「ええ……」

待って。いまのって完全に「うん」って言う流れだったじゃん。仲直りの雰囲気だったじゃん。
思わずぶすくれたわたしの顔をちらりと見下ろして、負けず劣らず唇を尖らせてから、悟は小さく言った。

「……見るなら、アイツの出てないやつにして」

悟が開けっぱなしにしてきた扉の向こうでは、わたしの推し俳優が『今夜は一緒にいてくれ』なんて迫真の演技を見せている。さっきまであんなに夢中だったのが嘘みたいに、ちっとも気にならなかった。

「……あと、僕の分もグラタン焼いて」
「……いまから?」
「いまから」

しゅわしゅわと弾ける泡の音と同じくらいの大きさで「いいよ」と答えると、悟は黙ったままで微かに笑った。
まずはアイスが溶けないうちに、この重なった手をどうにか離さなくちゃいけないな。

花と水であるように


twitterの再録です。
Title by 誰花