「……あー……」
ベッドの上で分厚い布団と毛布にくるまったまま、ぼうっと天井を仰いだ。
頭が割れんばかりにガンガンと痛む。内側からトンカチで手当たり次第に叩かれているみたいだった。
まさか自分が体調不良で寝込む日が来るなんて思ってもみなかった。子供の頃から健康だけが取り柄で、学生時代なんかは『馬鹿は風邪引かないってほんとなんだな』などと同期から散々いじられたものだ。悔しくて真冬に窓を開けっぱなしにして寝てみたこともある。寒すぎて悪夢を見ただけだった。馬鹿である。
本日昼から入っていた任務はなんとかこなしたものの、私の顔があんまり悲壮だったのか、帰りに自宅マンションへと送り届けてくれた補助監督の男の子にはやたら心配をかけてしまった。部屋まで付き添うという申し出を丁重に断り、それでもと押し付けるように握らされた連絡先のメモを携えてベッドに倒れ込んだのがついさっき。着替えも洗顔もしてないけど、もういいや。
だるい体を引き剥がすようにして寝返りを打つ。ベッドサイドの薄いカーテン越しに、夕方の仄赤い日の光が部屋の中を照らしていた。
さっきから悪寒がひどい。きっとすぐに熱が上がるだろう。体温が一℃上昇すると免疫力が五倍になるという話は、硝子から聞いたんだっけ。灼熱の砂漠のようになった体内で、免疫細胞がばったばったとウイルスをやっつけていく様を想像する。人間の体ってよくできてるな。生命の神秘。
取り留めもない空想をひとしきり巡らせ、ベッド脇に投げ置いた鞄へとずるずる手を伸ばす。ナメクジのような動きでありながら、かろうじてスマホを引っ張り出すことに成功した。
……夜に予定してた任務、代わりの人見つかったかな。ただでさえ人手不足なのに申し訳ないな。明日には良くなるかな。風邪のときって何すればいいんだっけ。そもそもこれって風邪? なんかやばい病気だったりしない? このままずっと熱下がらなかったら、どうしよう。
情けなさと不安に駆られて開いたスマホは、むっつりと黙りこくっている。一瞬だけ頭をよぎった誰かの連絡先を呼び出そうとして、やめた。今日は日帰り出張だと言っていた記憶がある。
(……声、聞きたいなあ、なんて)
そんな我儘で時間を奪っていい相手でないことは、よくわかっている。
そのうちいよいよ目を開けていられないほどの頭痛に見舞われて、手の中の重みをぽとりと取り落とした。あとはもう免疫細胞に任せるほかない。頑張れ私の体、頼んだぞ。ゆるく閉じた瞼の裏でそんなことを考えた後、私は呼吸以外の一切を放棄した。
――どれくらい眠っていただろう。微かな気配を感じて、ふと目が覚めた。
頬にひんやりと柔らかな温度が触れている。どうやらそれが誰かの手のひらのようだと気がついても、なかなか瞼を持ち上げられなかった。
大きくて、優しくて、ひどく安らぐ匂いがする。火照りを吸い取るようにぴったりくっつけられた肌がたまらなく心地よくて擦り寄ると、その指先が僅かに震えた。
「――ごめん、起こしちゃったね」
ゆるゆると目を開ける。すっかり暗くなった部屋の中で、滲むように淡く光る空色がこちらを見下ろしていた。
「……さとる……?」
「うん、ただいま」
鼓膜をくすぐる優しいテノールは、間違いなくずっと聞きたかった声だった。緩慢な動作でいくつか瞬きをした私の目を覗き込むようにして、「こりゃまた随分としおらしいね」と悟は悪戯っぽく微笑んだ。
悟がここへ来るときの挨拶は決まって『ただいま』だ。ここ私の家なんだけど、と真面目に返すのも面倒でいつも聞き流していたけれど、今日はその一言がやけに胸に沁みるようだった。おかしいな、熱のせいかな。ふわふわとした心地で見上げていると、頬を滑った大きな手が今度は額に触れた。いつもは熱いくらいに感じるその手のひらが、まるで真夏に食べるアイスキャンディーみたいにするすると私の熱を冷ましていく。
「けっこう熱あるねえ。冷えピタ貼る? 薬も買ってきたから、ご飯食べたら飲もっか」
「さとる、なんで……? 今日、出張って」
「そんなもん僕にかかればチョチョイのチョイだよ」
「なんかその言いかた古……冷たっ」
「病人はお静かに」
悟の指が汗まみれの私の前髪をひょいっとめくり、冷たいシートを貼りつけてくれる。流れるように鮮やかな手つきだった。封印される呪物ってこういう気持ちなのかもしれない。きっと呪符はこんなにひえひえと心地良くはないんだろうけれど。
ほうっと目を細めた私を横目に、悟は大きな半透明のビニール袋から次々といろんなものを取り出してテーブルに並べていく。スポーツドリンク、ゼリー飲料、替えの冷却シート、薬。それから、私の大好きなプリン。
ちらと目をやれば、見透かしたように「ちゃんとお薬飲めたらね」と頭を撫でられた。
「今夜の、私の任務は……?」
「代わりの術師が向かったよ」
「……ごめんなさい。明日にはちゃんと復活してみせるから」
「残念でした、お前は明日も休みで〜す」
「えっ」
それはよろしくない。だって私、仮にも一級術師だ。ただでさえ限られた人数で仕事を回しているのに、ひとり抜けたらどうなるか。まあそう思うなら風邪なんか引くなって話ですけどね、そうなんですけど、そうじゃなくって。
「だ、だめだよ、明日のは一級案件だし」
「そう言うと思った。僕が行くから問題ないでしょ」
「悟が? それこそ申し訳な、」
「ねえ、そんなことより」
ぎしりとスプリングの軋む音がした。長い脚を持て余しながらベッドに腰掛けた悟は、憮然と唇を尖らせて私を見た。一瞬、怒っているのかと思ったけれど、私の髪を撫でる仕草は壊れ物に触れるように優しい。
「なんで僕に言わなかったの」
「え?」
「……具合悪いって一言連絡くれれば、もっと早く帰ってきたのに」
独り言みたいな声で悟が呟く。それを聞きながら、私はぱちくりと目を瞬かせた。
そりゃあ、私だってすぐにでも連絡したかった。たった一秒だって声を聞けたら、それだけで元気になれるような気がした。だけどこの人は“五条悟”だ。それが何を意味するか、わからないほど私も馬鹿じゃない。
「……だって悟、忙しいし。それに、充分早かったよ」
「こんなんもらっちゃってさあ」
悟の手にはいつの間にか、あの補助監督の男の子が残していった連絡先のメモ用紙があった。あ、と言う暇もなく、小さな紙片がくちゃくちゃに押し潰されて塵と消える。
私は呆気に取られて、何もなくなった悟の手のひらと拗ねた子供のような顔とを何度も見比べた。これって。これっていわゆる。
「……ヤキモチ?」
「はあ? 心配してやってんだけど」
「ヤキモチだ」
「馬鹿なの?」
軽く握られた拳が私の額をこつんと小突く。でも全然痛くなかった。
「……ふふ。馬鹿でも風邪引くって証明されたね」
「そんな冗談言える元気あるなら、ご飯作んなくてもよさそうだね」
「えっ、ご飯!?」
つい具合が悪いことも忘れて、素っ頓狂な声を上げてしまった。勢いに任せて持ち上げた頭は、すぐさま悟の人差し指によって枕へと押し戻される。
悟の手作りご飯? そんなの食べたいに決まってる。忙しくて面倒くさがりで舌の肥えた彼が手ずから料理をすることなんて滅多にない。まさに、こんな状況でもなければ。
「……」
「……」
「……悟のご飯……」
「……あーもう、わかったから大人しく寝てて」
言っとくけど味うっすーいお粥だからね、と溜息混じりに言い置くと、悟はもうひとつの大きなビニール袋を提げてキッチンへ向かった。意地悪を言っても結局こうして最後には私を甘やかすのが、悟のいけないところだ。
七畳のリビングにくっついた簡素な台所はただでさえ狭いのに、悟がそこに立つともうおままごとセットのようだった。流しで鍋に水を注ぎながら「せっま。洗面器かよ」などと悪態をつく声がする。
換気扇に頭をぶつけないように、すぐ隣にある背の低い冷蔵庫を肘打ちしないように、めいっぱいに肩を窄めて悟が料理をしている。私のために。
そう思ったら胸の辺りが無性にぽかぽかとしてきて、たまらなくなった。まだ覚束ない足で冷えた床をそろりと歩き、窮屈そうに丸まった背中に手を伸ばす。硬いお腹に腕を回してぎゅっと抱きつくと、悟は鍋を掻き回す手を止めないまま、のんびりとした口調で私を叱った。
「こら。寝てないとダメでしょ」
「ねえ悟」
「なに?」
「……きてくれてありがと」
ぴたり。悟の持つおたまの動きが一瞬だけ止まって、すぐにまた緩やかな円を描き始める。悟のお腹の上で重なった手のひらから流れ込む私の熱が、ふたりの境界をとろかせて、曖昧に混ざり合っていくような心地がした。
くつくつとお粥の煮え立つ音と、優しいおだしの香り。それから春風みたいな鼻歌の声に包まれて、静かに目を閉じる。
もうぜんぶぜんぶ熱のせいにして、今日はこのまま離れたくないって言ったら、笑われちゃうかな。
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Title by 誰花