空飛ぶ魚のヴィスタ

※高専時代〜大人

 

 

ジャンケンですべてを解決しようとするのは良くないと思う。
あたかも平和的決着であるかのように見せかけて、その実、敗者に何もかもを背負わせているだけではないのか。厄介事の押し付け合いでは誰も幸せにならない。そうは思わないかねワトソンくん。

「歩くのおっそ」
「……スミマセン」

数歩先から投げかけられた催促の声により、私の脳内論争は呆気なく幕を閉じた。
こちらを振り向いて悪態をついたのはジョン・ワトソンなどではなく、私の同級生、五条悟くんである。態度もデカければ背もデカい、比例して歩くスピードもやたらめったら速かった。そもそも脚の長さが違うのだから、そのへんをもうちょっと慮ってくれてもいいんじゃないのかな。私、高専を出てからずーっと競歩モードなんですけど。……などという文句は口に出せるはずもなく。私はもう一段階ギアを上げ、小走りモードとなって大きな背中を追いかけた。

 

腹が減った、と言い出したのは五条くんだったか夏油くんだったか、もしかして硝子だったかもしれない。少なくとも私でなかったことは確かだ。

久しぶりに同級生四人が揃ったので、五条くんの部屋でテレビゲームをしていた。デフォルメされたキャラクターたちが乗るカートを操って順位を競うレーシングゲームだ。私はこのゲームがヘタクソだった。すぐコースを見失って道に迷うし、片っ端から罠に嵌まるし、ハンドル操作に合わせて現実の体まで傾いてしまう。それでよく隣の人に肩をぶつけてしまうので、できるだけ五条くんの隣には座らないようにしていた。以前、ちょっと触れただけで烈火の如く怒られたのが尾を引いているのだ。美形が怒るととんでもなく怖い。

今日も今日とて周回遅れでゲームを終え、そろそろ自室に引き上げようかと腰を上げたときだった。唐突に始まった買い出しジャンケンに巻き込まれた。いや私はお腹空いてないしもう部屋に戻るから、などと言い出す間もないまま、気がつけば私は負けていた。ゲームに負け、ジャンケンにも負ける。ひどい話である。

買い出し係は二人。私と、五条くんに決まった。

――最強の人もジャンケンに負けることがあるのだな。五条くんに続いてコンビニの自動ドアをくぐりながら、蛍光灯にちらちらと光る銀糸の髪を見やった。調子外れの入店チャイムにかぶせるように、らっしゃーせー、と気怠げな店員さんの声が響く。五条くんは私のことなど気にかける素振りもなく、一目散にチルドコーナーへと足を向けた。私はわざとゆっくり買い物カゴを取り上げて、のろのろと飲み物の棚へ向かった。

正直に言うと、私は五条くんのことがちょっと苦手だ。圧倒的な強さも尊大な振る舞いも、びっくりするほど綺麗な顔立ちも、私のような凡人には近寄りがたかったし、何よりあの長身のてっぺんから鮮やかな青い瞳で見下ろされると、途端に何も言えなくなってしまう。
すべてが完璧すぎるのだ。同級生になって半年が過ぎようとしているけれど、いまだに二人きりでちゃんと話したこともなかった。だからこんな風にいきなり夜の散歩に放り出されても、対応に困るわけで。

「おい」

どさどさどさ。不意に左手に持ったカゴに重みが加わり、はっと我に返る。いつの間にか隣に立っている五条くんが、不機嫌そうな顔でこちらに手を差し伸べた。

「カゴ」
「え」
「貸せよ」
「あ、うん……」

ありがとう、と言い終わらないうちに、ひったくるように買い物カゴを奪い取られる。中にはポテトチップスの大袋が三つ、チョコレート菓子の箱が五つ、あとはおにぎりがシーチキンマヨネーズばかり十個ほど追加されていて、五条くんの動きに合わせてがさごそと乾いた音を立てた。
なんという偏ったラインナップだろう。いつだったか夏油くんが「悟はかっこつけてるだけで、中身は小学生なんだよ」と言っていたのを思い出す。そのときはピンとこなかったけれど、これを見るとあながち間違いでもないような気がしてきた。今度はアイスのケースを物色しているし。今日、晩ごはん食べたよね?

「五条くん」呼びかけると、丸いサングラスをかけた瞳がついと動いて私を見る。無愛想な真っ黒の制服じゃなくラフな部屋着姿でいるせいか、なんだかいつもより表情が柔らかく思えた。いまなら少し、話せるかもしれない。

「えっと……シーチキン、好きなの?」
「別にそーゆーんじゃないけど。他は梅とか昆布とか、野菜のやつばっかだったし」
「どっちも野菜ではないんじゃ……」
「うっせーな。肉のほうが美味いだろ」

……うん?

「あの、五条くん」
「なんだよさっきから」
「シーチキンは、お魚だよ」
「……は?」

高級カップアイスに伸びていた五条くんの手がぴたりと止まる。丸く見開かれた目がカゴの中身と私の顔とを何度か往復して、それからぱちぱちと瞬きをした。けぶるような睫毛が大きく羽ばたく。その仕草だけで風が巻き起こりそうだった。

「いやだってチキンじゃん」
「それは、その、鶏肉に似てるからっていうだけで」
「肉じゃなかったらなんなの」
「だから、お魚……マグロだよ。ツナマヨも同じ」

ほら、とおにぎりをひとつ摘まみ上げ、原材料欄が見えるように五条くんの目の前に掲げた。少し背中を丸めてまじまじとおにぎりを見つめる姿はなんというか、ちょっと、可愛い。

「ね?」
「……」

目を細めてじっと文字を追っていた五条くんは、次第に顔を背け始め、ついにはすっかりそっぽを向いてしまった。もしかして気を悪くしただろうか。慌ててその顔を覗き込んで、私は言葉を失った。

「…………恥ず」

大きな手で口元を覆い隠しながら、五条くんはくぐもった声で呟いた。さらけ出された白い首元が薄紅色に染まっている。こんな五条くんは見たことがなかった。いつだって自信満々で、失敗とか間違いとか、そういうものとは無縁の人だと思っていた。

「……あいつらに言うなよ」
「う、うん。言わないよ」

くそ、と居心地悪そうに頭を掻いた五条くんを見て、私はなぜだかどきどきしていた。なんだ、そっか。私が知らなかっただけで、五条くんもこういう顔するんだ。そう思ったらふっと肩の力が抜けて、私は五条くんの前で初めて、自然に笑うことができた。

帰り道は、五条くんが二人に内緒で買ってくれた棒アイスを食べながら、並んで歩いた。少しだけ肩が触れ合って、だけどもう怒られなかった。

空飛ぶ魚のヴィスタ

「――えっ、お前知らないの~!? シーチキンって魚なんだよ」

キッチンから戻ると、ソファにふんぞり返った大男がぺらぺらとスマホに戯言を吹き込んでいた。「なんでシーチキンかっていうとさ、マグロにはその昔、巨大な翼が生えていて、それはそれは優雅に空を飛んだそうだよ。進化の途中で羽を失ってからもその名残で海の鶏って呼ばれていてね、」――放っておけば永遠に続きそうな作り話を遮るべく、大きな手からスマホを奪い取る。あっ! とわざとらしい声が上がったけれど、構ったものではなかった。

「もしもし? ……あ、ごめんね伊地知くん。大丈夫、すぐに行かせるから」

電話の相手は伊地知くんであった。もちろん彼がシーチキンの原材料を知らないなんてことはないし、あと鶏は空を飛ばない。

「うん、支度はできてるんだけどね、もうちょっとだけ待っててもらってもいい? ……うん、じゃあ五分後に」

手短に用件だけを告げ、すぐさま通話を切る。そのまま持ち主に返したらろくなことにならないのは目に見えていた。

「あーあ、いいとこだったのに」
「こら。あんまり伊地知くんを困らせたらだめだよ。無理言ってここまで迎えに来てもらってるんだから」
「無理じゃないですぅ~、ワガママですぅ~」
「偉そうに言うことじゃないんだけどなあ」
「せっかくの公園デートを邪魔されたんだから、ワガママのひとつやふたつ聞いてもらわないと割に合わないね」

ぶうと唇を尖らせた彼は、こんなにいい天気なのにさあ、と文句を言いながら、装着前の黒いアイマスクを指先でくるくる弄ぶ。出張ばかりで家に帰れないからと高専の職員寮に居を移したはずなのに、月の半分はこうして私のマンションで過ごしているのだった。近くに大きな公園があって、今日みたいに天気のいい日はそこを散歩するのがなんとなく決まり事のようになっている。日向ぼっこしたり、芝生に座って本を読んだり、まるで老夫婦のようだけれど、目まぐるしい日々を過ごしている私たちにとっては貴重な時間だった。

「悟くん」

呼びかければ、まっさらな青い瞳がこちらを仰ぎ見た。遮るもののない澄んだ眼差しに、どきりと胸が高鳴る。昔はこの目が怖かったんだよな、と少し懐かしく思い返しながら、両手に抱え持った包みを差し出した。

「これ、お弁当」
「……えっ」
「最近、出張続きでちゃんとしたもの食べてないでしょ。だから」

さっきまで不満げに細められていた瞳が、途端にぱっと丸くなるから面白い。大きな体で時折こうして子供っぽい仕草をするところはいくつになっても変わらなくて、いくつになっても可愛いな、と思う。

「本当はね、公園に持って行って一緒に食べようと思ったんだけど」
「……」
「あ、シーチキンマヨおにぎりも入っています」
「……うん」

悟くんは両手で包み込むようにお弁当を受け取って、しげしげと眺めた。自分の手元にあったときはずいぶん大きいように思えたけれど、彼の手に収まると途端にコンパクトに見えてしまう。もうワンサイズ上のお弁当箱にしたほうがよかったかな、と心配になったとき、急に腕を引っ張られて私は悟くんの胸に倒れ込んだ。
鼻をぶつけると思って咄嗟に目を瞑ったものの、私の体は無限によってゆるやかに彼の腕の中に収まる。相変わらず器用な人だ。片手にお弁当を持ったまま、悟くんはもう一方の手でぎゅっと私を抱きしめた。

「……嬉しい。ありがと」
「う、うん」
「ね、さっさと済ませて帰ってくるから、夕飯作って待っててくれる?」
「……うん、待ってるよ」

頭を撫でられて顔を上げると、噛みつくようにキスをされた。とろりと溶け出しそうな甘い瞳に体が熱くなり、慌ててソファから起き上がる。くつくつと満足げに笑う白い頬をほんの僅かな力でつねってやると、痛いよ〜とふざけた悲鳴が返ってきた。嘘つけ。痛くも痒くもありませんって顔に書いてあるんだから。

 

「あ、そういえば」

ようやく私の頬の熱が冷める頃、すっかり機嫌を取り戻した悟くんが、玄関ドアの前でこちらを振り返って言った。

「さっきの話で思い出したんだけどさ」
「なあに?」

夕飯はカレーがいいな、飴色玉ねぎ入ったやつ、カリカリベーコンとゆでたまごのサラダも追加で、なんて話したばかりだったので、また注文の続きかなと頭の中のメモ帳を引っ張り出す。

――けれど、にっこりと笑った唇から飛び出してきたのは、とんでもない爆弾だった。

「あのときのジャンケン、八百長だから」
「……えっ?」

じゃあ行ってくるね。ひらひらと手を振る彼の艶やかな笑みを見送った後も、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。