ライムソーダと花明かり

「ナマエ」

改札を出てすぐ、よく通る低い声に呼ばれた。帰宅ラッシュの波を避けるように柱の影に身を潜ませたその人は、それでも充分すぎるほどの存在感でもって道行く人々の目を引いている。
制服姿の女の子たちが、ねえあれ芸能人かなあ、なんてはしゃぎながら私の脇を通り過ぎた。人混みから文字通り頭ひとつ抜きん出た長身と、白銀の髪、明らかに仕立ての良さを感じさせる春色のコート。ちょうどハイブランドの電子広告を背にして立っているせいで、普段から彼の姿を見慣れている私ですら、この人はたったいま画面の向こうから飛び出してきたのではないかと荒唐無稽な想像を巡らせてしまう。

「五条さん、お待たせしました」
「ぜーんぜん。任務お疲れ様」

軽やかな口振りはいつも通りの五条さんだ。私服姿を見るのはずいぶん久しぶりで、なんだか面映い。私もお洒落して来られたらよかったのにな。少し汚れた黒のスーツを見下ろして、小さく溜息をついた。

「怪我しなかった?」
「はい、元気です」
「そりゃあ何より」

持とうか、と鞄に向かって差し出された手をやんわりと断る。鞄といっても今日の任務の資料とか嗜み程度の化粧品とか筆記用具が入っているくらいで、大した荷物ではない。にも関わらず五条さんはいつも当然のように手を差し伸べてくれるので、毎度私はどうしようもなくくすぐったい気持ちになるのだった。

「これくらい自分で持てますよ。私だって呪術師の端くれなので」
「そういうの関係なくてさあ、僕が持ちたいの」
「……じゃあ、代わりに」

言って、何も持っていないほうの手を差し出す。一瞬きょとんと目を丸くした五条さんは、すぐに嬉しそうに顔を綻ばせた。

「えっなに、どしたの、可愛いんだけど。結婚する?」
「うーん」

えー何その返事、とけらけら笑いながら、五条さんは少し冷えた左手で私の右手を握りこんだ。火照った肌の温度に気づかれるのではないかとどきどきしたけれど、頭上からは上機嫌な鼻歌が流れてくるだけだった。

夜桜を見に行こう、と言い出したのは五条さんだ。
滅多に訪れない五条さんのオフの日。私の任務が早めに片付きそうな日。そして桜が満開の、雲ひとつない快晴の日。今夜はそれらがすべて重なった、奇跡のような金曜日の夜だった。
大きな手に導かれるまま、駅から公園までの道のりをやたらとゆっくり歩く。東の空からは淡い輪郭をした満月が昇り始めていて、時折吹きつける風が五条さんの髪をふわふわと揺らした。甘酸っぱい花の香りと新芽の青苦さの混じったような、春の夜のにおいがした。

「はいどーぞ」
「ありがとうございます」

公園のベンチに腰掛け、五条さんが買ってきてくれた缶コーヒーを両手で包み込む。まだ肌寒いこの時期の缶コーヒーは、飲み物というよりカイロと呼ぶほうがふさわしい。冷えた鼻の頭に缶をくっつけて温めていると、隣に腰を下ろした五条さんが「動物みたい」と言って笑った。その手には透明な炭酸のペットボトルが握られていて、蓋の開いた丸い口からぱちぱちと泡の弾ける音がした。

「こんな動物いましたっけ?」
「わかんない。いるんじゃない?」
「適当だなあ」
「動物になっても僕が責任持って面倒見てあげるから、心配しなくていいよ」
「どんな心配ですか」

だいたい人間だって動物なんですからね、なんて屁理屈をこねようとした。いつものデタラメな冗談と同じに笑い飛ばしたかったのに、ふと仰ぎ見た五条さんの瞳が思いのほか優しい色をしていたから、私はさり気ない風を装って缶コーヒーに視線を戻した。ぱちぱち。しゅわしゅわ。夜風の隙間を埋めるように、小さな音が続く。

「ほんとだよ?」
「……いまのところ、間に合ってます」

口の中で転がすように呟くと、そっか、と答えて五条さんはまた笑った。

 

結婚しよう、なんて言い出したのも、やっぱり五条さんだった。
冬の初めのことだ。いつものように任務帰りの五条さんが私の住むマンションへとやってきた。付き合ってそれなりの年月を重ねた私たちは、先に仕事を終えたほうがどちらかの家で夕食を用意して待つ、というのを暗黙のルールとしていた。もっとも特級の五条さんが二級の私より早くに帰ることなんて、いままで数えるほどしかなかったのだけれど。

その日はオムライスを作った。黄色い卵のキャンバスに、真っ赤なケチャップで絵を描いた。自分にしては子供じみたことをすると思った。不思議なのだけれど、五条さんの顔を思い浮かべていたら、なんだかそうしたくなってしまったのだ。

「なにこれブタ? 可愛いね」
「……猫です」
「え? 猫ォ? はは、見えね〜」
「…………」
「うそうそ冗談だって。拗ねないでよ」

むっつりと押し黙った私の頬を銀色のスプーンの先でつつきながら、五条さんはたいそう楽しそうだった。そんなに笑うほどヘタだろうか。視線を落とせば自分のオムライスに描いた犬の絵と目が合ったので、スプーンの背でぐりぐりとかき混ぜて、ただの丸に生まれ変わらせた。

「ねえ」

五条さんはもう一度、今度はたっぷり時間をかけて輪郭の歪んだ猫の絵を見つめた。ずいぶんと優しい顔をしていたように思う。そうしてから白い睫毛をゆっくりと持ち上げて、あの澄んだ目をして言った。

「――結婚する?」

 

五条さんのそばにいるのは心地がいい。穏やかな海に揺られているみたいだ。混じり気のない強さと優しさと美しさだけで形作られたような彼の存在を、愛おしいと思った。
だからこそ、私は素直に頷くことができなかった。
婚姻という呪いで五条さんを縛って、その代わり私は何を差し出せるのだろう。どれもこれも、五条さんには必要のないもののように思えた。まっさらでひとつの瑕疵もないこの人を、私という不純物がじわじわと蝕んでいくようで、恐ろしくなった。

あれから五条さんは、事あるごとに本気とも冗談ともつかぬ調子で『結婚』を持ち出してくるようになった。そのたびに私は肯定とも否定ともつかぬ相槌で濁しながら、それでも五条さんのそばを離れられずにいた。五条さんは、それ以上の答えを求めなかった。ただ言い淀む私を、いつも少しだけ笑って許してくれた。

「五条さん」
「んー?」
「どうして急に、結婚なんて言い出したんですか?」
「どうしてだろうねえ」

風が気持ちいいね、とでも言うみたいな鷹揚さで五条さんは答えた。とても恋人からプロポーズの返事をはぐらかされ続けている人の態度とは思えない。私が言えたことではないけれど。

宵闇よりも濃い色をしたサングラスに、薄紅の花がぼんやりと浮かんでいた。すぐ目の前では無数の桜が競い合うように咲き誇っているというのに、私は五条さんを見つめることに忙しくて、ちっとも花見などできそうになかった。
その凪いだ横顔を、好きだと思う。そよ風のように穏やかな声も、ビー玉みたいな瞳も、絡め合うとちょっと痛いくらいゴツゴツした指も。それを、こうして一番近くで眺めることさえ許されている。私ばかりが与えられているようで、時折とても心細くなった。

「……僕はさ、ただ」

五条さんはおもむろに腰を上げて、ベンチに座ったままの私と向かい合うように立った。あたたかな両手が私の頬を包み込む。風に舞う花びらをそっと掬い取るような、優しい仕草だった。その無骨な見た目からは想像もつかないほどの繊細さで、五条さんの指先が私の肌の上を滑った。

ああそうだった。この人はいつもこうやって、宝物を慈しむみたいに、そうっと私に触れるのだ。

「ずーっとああやってお前がオムライス作ってくれたらいいのになあって、思っただけだよ」

ヘッタクソな絵描いてさ、僕のために。
そうしてゆるく目を細めて、五条さんは見たこともないほど綺麗に笑った。満開の桜の花だって霞んでどこかへ飛んでいってしまうくらいだった。幸福とか歓びとか、そうした美しいものがこの世にどれくらい存在しているのかわからないけれど、それらを全部取ってきて丸めて詰め込んだみたいな。うまく言えないけれど、そんな顔だった。

「うわ、僕いま超キマッてなかった? 惚れ直した? 結婚したくなっちゃった? なっちゃったでしょ?」
「……はい」
「だよね〜わか……えっ?」
「しましょうか、結婚」

胸の内に何かが溢れて、それはそのまま音になって口から零れ出た。まんまるく目を見開いて固まっている五条さんがやけに面白かった。この人がこんなにびっくりしているところを見られるのは、次はいつになるんだろう。そのときもどうか、幸せに満ち溢れた驚きであってほしい。この人に降り注ぐのは、いつだって美しいものだけであってほしい。

そうして、願わくはその一欠片が私であったなら、どんなにか素晴らしいだろう。

「私も、もっと五条さんにオムライス、作りたいです。これからも、何があっても、ずーっと」

絵はもうちょっと練習しますけど。鼻の奥がつんとするのを誤魔化したくておどけてみせたら、五条さんは不意に自身の口元を手の甲で隠して明後日のほうを向いてしまった。その視線の先を追っていけば、ぼうっと光る桜並木がずっとずっと、遠くまで続いていた。

「……は〜〜〜ッ、お前、ほんと、ほんっとさあ……」
「なんです?」
「なんでもない!」

拗ねたような声とともに、ぎゅうと抱き竦められる。さっきまで五条さんが飲んでいた炭酸の、ほのかな柑橘の香りが鼻先を通り過ぎた。

「まさか照れてるんですか?」
「……ちょっと黙って」
「五条さんにもそんな感情があったんですね」
「黙って」

堪えきれずに漏れてしまった笑みは、すぐさま薄い唇に飲み込まれた。いつもより熱を帯びたその頬に指を這わせ、するりとサングラスを抜き取ってやる。いつだってまっすぐに揺るがない瞳が好きだったけれど、たまにはこんな風にゆらゆら波打つ青を見るのも、存外悪くないと思った。

「五条さん、大好きです」
「それも僕の台詞だから……」

深い溜息とともに項垂れた五条さんがなんだかたまらなく愛おしくて、私はついに声を上げて笑った。帰ったら覚えとけよ、なんて凄まれても、少し赤くなった眦に気づいてしまったから、ちっとも怖くなかった。

奇跡のように美しい、金曜日の夜のことだった。

ライムソーダと花明かり


「照れ五」のお題をもとに、twitterに投稿したお話です。

Title by: Garnet