春が来るのはあなたのせいです

「僕さあ、お見合いするんだよね」

いつかこんな日が来るとわかっていた。
穏やかな春の午後のことだった。綻び始めた桜の花によく似た色の唇をカップから離して、五条さんはゆったりと微笑んだ。窓際のテーブル席には眩しいほどの日差しが降り注ぎ、精緻なガラス細工のような彼の長い睫毛をきらきらと輝かせる。どこか夢見心地でそれを眺めながら、私は無意識のうちに「そうなんですか」とつまらない相槌を打っていた。

「……怒らないんだ?」

かたり。硬質な音とともに、真っ白なコーヒーカップがソーサーに戻される。私はいま、うまく笑えているだろうか。面白みの欠片もない返事しかできない私は、この人の美しい瞳にどう映っただろうか。

「……それは、だって五条家のご当主ですから、縁談があるのは当然でしょうし」
「お前が嫌だって言うならやめるけど」
「そんな、」
「どうする?」

そんな言い方は、狡くないですか。喉まで迫り上がってくる言葉をどうにかして押しとどめた。
いつかこんな日が来るとわかっていた。そういう人を好きになったのだ。だからせめて、最後まで物分かりのいいコイビトでいようと決めていた。それでも、飲み込んだ涙が鉛のように胸の底を重たくしていく。

「……そう。わかった」

私の大好きな骨張った長い指が呼び鈴を鳴らす。それが終わりの合図だった。

「出ようか」

もし、もしも、当たり前のように絡められるこの指をきつく握り返したら。行かないでとたった一言、引き止めたなら。五条さんはどんな顔をするのかな。
繰り返し思い描いた未来は、やっぱり今日も暗い色をしていた。

春が来るのはあなたのせいです

『じゃあ、付き合おっか』

幻聴かと思った。ちょうど一年前のいまごろ、任務を終えた五条さんを高専まで送り届けた直後だった。運転席から外に出ると、先に車を降りた彼はぼんやりと桜の花を眺めていた。春風に捲かれてはらはらと乱れ散る花びらの中で、その横顔はただただ美しかった。

『――お前さ、僕のこと好きでしょ』

夢のような光景に心を奪われていたせいだ。にやりと不敵に笑った唇から目も離せないまま、私は緩慢に頷いていた。だってその通りだったのだ。十代の頃の青い恋がいつしか真っ赤に熟れ、腐り落ちる寸前にまでなっても、私はまだそれを捨て去ることもできず、こうしてずっと隠し持っていたのだから。
五条さんの特別になりたいなんて、大それたことは望んでいなかった。ただ同じ場所で生きて、たまに姿を見かけて、声を聞いて、運が良ければひとつふたつと言葉を交わして、それで満足だった。そういうちっぽけな恋で終わるはずだったのだ。
それなのに。どうして私は、いつの間に、こんなにも貪欲になってしまったんだろう。

 

「五条、見合いするらしいな」

何でもないようにさらりと言われ、危うく書類を取り落としそうになる。五条さんと同期であるところのこの医務室の華は、今日も今日とて妖しげな魅力を湛えた瞳で私に微笑みかけた。

「ついに別れたのか?」
「……別れては、ないですけど……たぶん」
「なんだ残念。クズから可愛い後輩を取り戻すチャンスだと思ったのに」

おどけて唇を尖らせた硝子さんには苦笑を返しておく。
五条さんと付き合うことになった、と報告したときの彼女の顔は忘れられない。ただでさえ大きな目をまんまるく見開いて、そこからきっかり十秒後、苦い薬を飲んだ後みたいに美しいかんばせをくしゃくしゃに歪め、まあ頑張れよ、なんて絞り出すような声で言ったのだ。
そんな顔をしなくても、と思う。取り戻すも何も、五条さんはその気になれば私のことなどすぐに手離すだろう。それこそ、今回のお見合いがうまくいって、そのまま結婚なんてことになれば、いよいよ私は用済みだ。それが今回でなくとも、近い将来、いつか必ずそうなる。それがわからないで五条さんとお付き合いをするほど私も浅はかではない。

「あいつはなんて?」
「……私が嫌ならやめるって」
「ということは、嫌じゃなかったわけ?」
「私の気持ちだけで決めるようなことじゃないじゃないですか」

片や一介の補助監督。片や呪術界の要。どうするべきかなんて火を見るより明らかだった。だいたい、私のような女が五条悟の恋人などという位置にいること自体がおかしいのだ。

「……それに、」

冴えた青い瞳を思い出す。嫌だと、離れたくないと口にした瞬間、すべてが終わってしまいそうで怖かった。
きっと私は試されていた。きちんと分を弁えているかどうか。いざというとき、ちゃんとその立場を明け渡すことができるかどうか。あれはそういう質問だったんじゃないだろうか。

五条さんが私を選んだのは、つまりちょうどよかったからなのだと思う。一般家庭の出身で家同士のしがらみもなく、五条悟の恋人という地位をひけらかすほど自己主張が強くもなく、そして五条さんのことを好きな、インスタントな存在。私の価値はそこにしかないとわかっていたから、恋人気取りの言動は一切してこなかったつもりだ。だからこそ、一年間この関係を続けてこられたわけで。

「……五条さんは、面倒なの嫌いでしょう」

いつか終わるとわかっていても、一分一秒でも長く、この関係にしがみついていたいと思ってしまう。
会うたびに優しく触れてくれる指先も、私の名前を呼ぶ甘ったるい声も、たとえ見せかけだったとしたって、本当の終わりが来るそのときまではどうか私だけのものであってほしい。そんな風に願ってしまう私は、まさしく五条さんの嫌う面倒な女に違いなかった。

「嫌いかどうかは相手によるんじゃない? だいたい、あいつ自身が相当面倒だろ」
「……そうですね」

硝子さんから受け取った書類を鞄にしまいながら、乾いた笑みを零す。嫉妬も我儘も面倒に思われないくらい可愛い女だったなら、五条さんも少しは私を好きになってくれたかな。あの唇で、好きだと囁いてくれたかな。

 

五条さんのお見合いが行われるというその日、私は朝から落ち着かなくて、あてどもなくひとりで街をぶらついていた。久しぶりの休日だったし、たまには自分のためだけにお洒落をして、コスメや服を買って、そうすれば少しは気分も晴れるだろうと思っていた。

五条さんからは今朝、ご丁寧にも、お見合いの場となる都内のホテルの住所がメッセージアプリに届いていた。緊急のときはここに迎えに来るようにと事務的に添えられた一言が、その場所と自分とを決定的に隔てているようで、いっそう胸が詰まった。
本日何度目かもわからない溜息をスマホの画面に落としてから顔を上げる。ちょうど目に入った鏡には、ひどく暗い顔をした自分が映っていた。手に取った服をろくに見もしないままラックに戻し、店を出る。

何を見ても、何も感じない。世界が全部モノクロになってしまったみたいだ。そのうちスマホが鳴って、さよならと告げられるのではないか。いや、連絡が入るならまだいい。何もないまま、終わることだって。

賑やかなファッションビルを抜けて外に出れば、生ぬるい風が頬を撫でた。ふと視線を上げ、私は愕然とした。あてどもなく、などと言いながら、気づけば目の前に五条さんのいるホテルがあるのだ。己の未練がましさに泣きたい気分だった。

(……帰ろう)

ピンヒールの爪先がじわりと痛む。背の高い五条さんに少しでも近づきたくて買ったそれも、そのうち履かなくなるだろう。いままで選んだことのなかった淡い水色のワンピースも、背伸びして買った高価な香水も、全部、もういらなくなる。
まあいっか。ほら、だって春だし。新しい出会いとか、あるかもしれないし。今度はちゃんと身の丈に合った慎ましい恋をしよう。こんな風に身を裂かれるような思いをしなくても済むように。五条さんの隣に私じゃない誰かがいても、笑って祝福できるように。

「……あ」

踵を返そうとした視界の隅で、ちらちらと瞬く白銀の髪を捉えた。見間違えようもないその色を、今日ほど恨めしく思ったことはない。さっさと立ち去ればいいものを、私の目は縫い止められたようにその光景を映し続ける。
ホテルから出てきた五条さんが、女性を伴ってタクシーに乗り込もうとするところだった。かっちりと着こなしたスーツ姿で、いつもは無造作に遊ばせている髪を綺麗に撫でつけて、サングラスの向こうで柔らかく瞳を細めて。
先に車に乗った女性が、急かすように五条さんの大きな手に触れようとする。
何かが弾けた気がした。

「待っ、――っ!」

駆け出した私の足は、アスファルトの僅かな溝につまずいて呆気なく膝をついた。片足から靴が脱げて後ろに飛んでいく。投げ出された鞄の中身が飛び散って、道路に歪な模様を描いた。

「……まっ、て、やだ、行かないで……」

道端にみっともなく蹲ったまま、立ち上がれない。強かに打ちつけた膝がじくじくと熱を持ち始めるけれど、それよりも、息もできないくらい胸が痛くて痛くて、涙が溢れた。
行ってしまう。五条さんが、今度こそ手の届かないところへ、二度と戻ってきてくれないところへ、知らない誰かと。

「――緊急事態?」

磨き上げられた革靴の先が見えた。のろのろと顔を上げ、眩しさに目を細める。逆光の中で、淡く輝くふたつの青がゆらゆら揺れていた。

「ご、じょう、さん?」
「うん」
「なんで……」
「緊急のときは迎えに来てって、言ったでしょ」

長い脚を折り曲げて、五条さんは私の目の前にしゃがみ込んだ。乾いた指先がするりと頬を撫で、垂れ落ちた髪を掬ってくれる。それから五条さんは散らばった私の荷物を丁寧にひとつひとつ拾い上げ、砂を払って鞄に戻した。どうしてこの人がまだここにいてくれるのか、わからない。

「五条、さん。お見合いの人、行っちゃいました……」
「……それ」
「え?」
「僕のための服でしょ。お洒落して誰と会ってたの?」
「あ、会ってな、」
「じゃあ何してたの?」

途端に、羞恥で顔が熱くなった。ひとりで着飾って、五条さんのお見合いの会場の前でこんなことをして、傍目に見れば相当痛々しいはずだ。思わず「ちが、」と言い訳を口にしかけた私の唇を、五条さんの指先が押しとどめる。

「……ちょっとは、期待してもいいの?」

息を呑んだ。期待、って、どういう。
目も口もぱっかりと開けた私の顔を見て、五条さんは少しだけ笑った。呆れたような、安堵したような、初めて見る顔だった。

「見合いは断ったよ。っていうか、最初から受ける気なんてさらさらなかったし」
「へ……?」
「お前があんまりにも平気な顔してるから腹立って、会うだけ会ってみたわけだけど」

ヨイショ、という小さな掛け声とともに立ち上がった五条さんは、その勢いのまま私の両脇を抱えて一息に引っ張り上げた。膝が震えてふらついた体は、見慣れないスーツの胸に抱き寄せられる。もう二度と触れられないと思っていたその温度に、泣きそうになる。

「……やっぱり僕、お前がいいみたい」

耳を疑った。今度こそ幻聴じゃないだろうか。呆気に取られて仰ぎ見れば、五条さんは憮然と唇を尖らせてこちらをまっすぐ見下ろしていた。今日はなんだか、初めて見る五条さんばっかりだ。

「え、え?」
「なあにその反応。フツーに傷つくんだけど」
「……わ、私、だって、ただの平凡なやつで、五条さんに、そんな」
「あー、だからいつも遠慮してたってこと? やけにあっさりしてたのもそういうこと? あんなに僕のこと好きそうな顔してたのに、付き合ったらスーンッてしてるんだもん。おかしいと思ったんだよ」
「すきそうな、かお」

そんなに顔に出ていたんだろうか。思わず頬に手をやると、そーゆー顔だよ、と反対側をつねられた。

「……だ、って、めんどくさいって思われたら」
「勘弁してよ。何のために僕が毎週毎週デートの時間取ってたと思ってんの? わざわざ手繋いで街中歩き回ったり、夜だって優しくしてたつもりだし、それだけでもう充分めんどくさいんだけど」
「ご、ごめんなさ……」
「……お前じゃなかったらこんなことしないって言ってんの」

はあ、と脱力したような溜息の後で、きつく抱き締められる。耳元に降りてきた唇で囁くように名前を呼ばれ、死んでしまいそうだった。

「――好きだよ」
「っ、」
「好き」
「五条さ、ん」
「大好き」

ぎゅっと縋りつくように五条さんの上着を握りしめた。胸がいっぱいで、もう溢れてしまいそうだった。夢みたいだ。さっきからずっと、夢みたいなことばかり起こる。

「……これでわかった?」

宥めるように髪を撫でられ、顔を上げる。少し拗ねた表情の五条さんがなんだかおかしくて笑ったはずなのに、いくつもいくつも、涙が零れて止まらなかった。

「……私も、大好きです」

 

「うわ、首輪ついてんじゃん」

一週間ぶりに顔を合わせた硝子さんは、私の姿を見て開口一番に言い放った。綺麗に紅を引かれた唇が見事なへの字に歪んでいる。そんな顔でも美人なのだからこの人は狡いと思う。

「首輪じゃなくて指輪ですよ……」
「首輪みたいなもんだろ」
「全然違います……」
「ちょっと見せてみ」

返事も待たずに、硝子さんは私の左手を取ってまじまじと覗き込んだ。「マジでガチのやつじゃん」と言ってぴゅうと口笛を吹く。どうやら私の薬指で光っている石は、マジでガチのやつ、らしい。
五条さんからこれを渡されたのは、お見合いの一件からまだ三日と経たないときだった。夕食の最中、左手出して、と唐突に言われ、手のひらを上に向けて差し出したら「ちげーよ」と笑われた。正式なのは後日ね、なんておまけまでついていたせいで、あれから私は毎日ソワソワと過ごしていたりする。

「オメデト」
「あ、ありがとうございます」
「あーあ、可愛い後輩が五条の毒牙にかかった。今日はヤケ酒だ」
「毒牙……」
「まあ、あいつはずっとお前しか見てなかったからな」
「……えっ?」

さらりと聞き捨てならない台詞を吐かれた気がする。「硝子さん? え、ちょっと」「おっと口が滑った」椅子をくるりと回転させて後ろを向いてしまった硝子さんに言い募ろうとしたとき、ポケットの中でスマホが震えた。しまった、伊地知くんとの会議忘れてた。

「こ、今度、詳しく聞かせてくださいね!?」
「気が向いたらな」

慌てて荷物をまとめて医務室を出ようとして、呼び止められる。振り返れば、赤い唇をにっと持ち上げて、いつものように妖しく微笑む彼女がいた。

「披露宴には美味い酒を頼むよ」

 

 


「すれ違いからのハピエン」のお題をもとに、twitterに投稿したお話です。

Title by エナメル