あなたの瞳の海に住む

夢を見た。

透き通った海の中を、ゆらゆらと漂っている夢だった。上を見れば柔らかくお日さまの光が差して、下を見ればどこまでも深い青が続いていた。さざ波が、まるでそよ風みたいに優しく私の髪を撫でる。世界で一番大切に守られているような心地がした。温かくて気持ちよくて、ああもうどこにも行きたくないな、ずっとこのまま揺れていたいなあ、なんて思ったとき、ふわりと浮かび上がるように夢から醒めて、私は見慣れたベッドの上にいた。

「――おはよう。朝だよ」

柔らかいテノールの声が鼓膜を揺さぶる。朝日が眩しくてきちんと目を開けられないけれど、少なくともそれが誰なのかはわかった。おーけー了解、朝ですね、それではまた。優しく髪を梳く指先から逃れるように、もぞもぞと布団に潜り込む。まだ夢の中に片足を突っ込んだまま、抜け出せない。最近めっきり寒くなってきて、もともと朝が弱い私はもう冬眠寸前の穴熊に等しい。

「……んん……あと五分……いや十五分……」
「だーめ。お前も今日は任務でしょ? 遅刻しちゃうよ」
「遅刻常習犯が何言ってんですか……」
「起きれないなら、おはようのチューしてあげようか。……すっごい目の覚めるやつ、ね」
「起きます」

耳元で艶っぽく囁かれ、私は慌てて飛び起きた。朝っぱらから変に色のある声を出さないでもらいたい。なんか体に悪い気がする。

「なんだ。つまんないのー」
「胸焼けしそうなので……」
「そんなこと言って、昨日はあんなに『もっと』っておねだりしてきたじゃん。あれ可愛かったなあ」
「あーあーあー聞こえなーい」

けらけら笑うこの男はすこぶる機嫌が良さそうで、むっと尖らせた私の唇に無理やり小さなキスをした。

「おいで、コーヒー淹れたげる」

大きな手で私の頭を一撫でし、弾むように寝室を出て行く背中を見送る。ぱたん、と閉まったドアの向こうからは、陽気な鼻歌が聞こえた。

季節はもう秋も終わりという頃で、窓の外の景色はほのかに金色を帯びている。それを横目になんとか布団から這い出し、私はひとつ身震いをした。冴えた朝の空気がひたひたと素肌に染み渡り、ようやく上がりかけた体温をすぐさま奪い去っていく。
無駄に大きなベッドの下、昨夜剥ぎ取られたあれやこれやの中から、まずは自分の下着を探し出して手早く身につけた。それから少し迷った末に、ぶかぶかのグレーのスウェットを拾い上げる。優しい匂いのするそれを頭からすっぽりとかぶり、彼の後を追って部屋を出た。

冷えた床をぺたぺたと踏み鳴らすふたつの足音。私の好きな深煎りのコーヒー豆の香り。このあいだ一緒に選びに行ったピカピカのエスプレッソマシンと、色違いのマグカップ。キッチンの入り口に立ったまま、私はゆるりと目を細めた。向かい合わせに置かれた白木のダイニングチェアは、滑らかな手触りが気持ちいいと一目惚れして買ったやつ。壁際の背の高い食器棚にお行儀よく収まった揃いのグラス、お皿、カトラリー。全部、ふたつずつ。
それらを順番に眺めていると、無意識のうちにほうっと息が漏れた。まだ夢の中にいるみたいだ。なんだか胸の奥がむずむずして、コーヒーの出来上がりを待つ大きな背中に後ろからぴったりとくっついた。

「ずいぶん可愛い格好してるねえ。誘ってる?」
「朝からそういうこと言わないでください」
「それは夜ならいいってこと?」
「……減らず口」

楽しみにしてるね、なんてあんまり甘ったるい声で言うから、せっかくのコーヒーが砂糖水に変わってしまうんじゃないかと心配になる。涼しい顔でよく言えたものだ。昨夜、人のことを散々好き放題に抱いたばかりだというのに。どろりと絡みつくような欲を孕んだ眼差しを思い出し、勝手に頬に熱がのぼる。なんだか気恥ずかしくなってぱっと距離を取ると、青い瞳が意地悪く弧を描いた。

「あ、いまえっちなこと考えたでしょ〜」
「か、考えてません」
「ふーん?」

差し出されたカップに勢いのまま口をつける。中身は当然まだ熱々で、ひっと声を上げた私を見て彼はなぜか嬉しそうに笑った。悔しいけれど、黄金色の陽射しの中できらきらと輝く白い髪も睫毛も、やわく細められた瞳も、相変わらず見惚れてしまうくらい綺麗だった。

なんて現実味のない風景なんだろう、と思う。しんと静かなキッチンで二人並んでコーヒーを啜っていると、いつだって不思議な心地がした。こうして一緒に過ごす時間もだいぶ肌に馴染んできたはずなのに、時折ふと、すべてが夢なんじゃないかという気持ちになるのだ。だって、唯我独尊を絵に描いたような彼が他人のためにコーヒーを淹れているところなんか、誰が想像できるだろうか。猪野くんあたりに話してもきっと信じてもらえない。この人がどれだけ穏やかな瞳で私を見るのか、どれだけ優しく私に触れるのか、誰も知らない。昔の私も、知らなかった。

 

『じゃあ、僕と付き合おうよ』

帰りにコンビニ寄ろうよ、みたいに軽やかな口調で告げられたのは、高専を卒業してまだ何年も経たない頃だった。食欲の秋だから飲もうだなんて適当な口実で開催された、見知った顔ばかりの飲み会でのことだ。私はちょうど学生時代から付き合っていた彼氏と別れた直後で、もう当分恋愛はいいかなって思ってるんですよねえ、とかそんな軽口を、笑い飛ばしてもらうつもりで口にしただけだった。のに。

『……人の話聞いてました?』
『うん。彼氏と別れて傷心してるんでしょ』
『聞いてましたね』
『聞いてたよ。だから付け込もうと思って、いま口説いてる』
『はあ』

素面のくせに、ずいぶんとあけすけな物言いだった。

『僕、なかなかの優良物件だと思うんだけど』
『いや、まあ、そうですね……?』
『でしょ?』
『だったら素敵な恋人の一人や二人や三人、もういるんじゃないんですか』
『ずっと窺ってたんだよ』
『何を?』
『付け入る隙を』

つまみのチーズを放り込もうと口を開けたまま、私はぽかんと彼の顔を見つめ返した。メロンソーダを飲み干した唇が艶然と微笑む。この人って、こんな風に笑う人だったっけ。記憶を辿ってみても、睨まれるか見下されるか舌打ちされるか、そんなろくでもないシーンしか思い出せない。そういえば彼が特級に上がってからというもの、こうして顔を突き合わせて話すこともほとんどなかったなと、このときになってようやく気がついた。

『こう見えて、ちゃんと大事にするよ?』

だから、ね?
そうやって向けられた眼差しが思いのほか柔らかかったからなのか、はたまたヤケ酒のつもりで呷ったワインのせいか、気がつけば私は、ゆるゆると首を縦に振ってしまっていたのだった。どうせすぐ飽きられて五股とかされて捨てられるんだろうな、なんて頭の隅では思いながら。

 

「ねえ。一応聞くけどさ、今日が何の日だか覚えてる?」
「……覚えてますよ」
「だよね。忘れてたらぶっ飛ばすところだった」
「シャレにならないからやめて」
「やだなあ冗談だよ」

だから冗談に聞こえないんだってば。黒いインナーを纏った腰に軽く拳を突き立てれば、おもむろにその手を引かれて抱き寄せられた。優しい仕草と裏腹に、ガラス玉のような瞳の奥には昨夜の残り火がちらつく。一体いつからそんな風に私を見るようになっていたのか、いまだに訊けずにいる。

「ところで、本当におはようのチューしなくていいの?」
「しませんって」
「したいならしていいよ、ほら」
「…………しませ、」
「ん?」
「……、…………うう」

これは、するまで永遠に離してもらえないやつだ。そうでなくたって、そんな期待を込めた目で見つめられたら私なんかひとたまりもない。観念して薄い唇に控えめに口付けると、お返しとばかりにえげつないキスが贈られた。わかってた。わかってたけど。

「……ほんと性格わるい……」
「何のことかなー」

けれど、こんな小さな戯れだけで彼がどれほど幸せそうに笑うか、私はもう知ってしまったのだ。だからきっとこれからも、飽きもせずにずっと、こんなことを繰り返してしまうんだろう。

(惚れたら負け、ってほんとだな……)

昔はただの怖い先輩だったのに、いつの間にこうなってしまったんだろう。椅子の背もたれから黒いジャケットを取り上げて羽織る様子を、ぼんやりと眺める。いつの間に、こんなにも。

「さてと。僕はそろそろ行くから、戸締りよろしくね。ゴミは出しとくよ」
「あっ、はい。お気をつけて」
「はー、僕ってば真面目に働いて家事もやって、えらすぎない? いつノーベルえらいで賞もらってもおかしくないよねコレ……あ、やば。伊地知待たせてんの忘れてた」

まったくもってやばいと思っていなさそうな暢気な声に、ふと思い出す。そうだ。伊地知くんに出す予定だった報告書、渡しといてもらおうかな。

「五条さんちょっと待っ、……あ」

声をかけた瞬間、しまったと思ったがもう遅かった。振り向いた彼の白い頬が、風船みたいにぷっくりと膨らんでいく。いくら童顔だからって、三十を目前にした大男にこんな顔が許されていいのだろうか。

「……あのさあ、お前も〝五条〟でしょ」

片手で易々と頬を挟まれ、間抜けな声が漏れた。そんなこと言われたって、ただの後輩だった頃からもう十年以上もこの呼び方をしてきたんだから、すぐに直せやしませんよ。途切れ途切れにそう訴えると、さらにむぎゅっと顔を潰される。痛いんですけど。

「いい加減慣れろよ」
「だって、」
「ハイやり直し」
「……さとるさん……」
「ん、なあに?」

ころっと笑顔に切り替わる早業にはもはや溜息しか出てこない。この顔に私は滅法弱かった。報告書のことなんか一瞬で頭から吹き飛んで、ただ滴るような甘さを湛えた青い瞳に自分だけが映っているのを、ずっと見つめていたいと思ってしまうのだ。

まるで海みたいな人だった。気まぐれにじゃれついてきたかと思えば、今度は荒っぽく振り回してみたり、急に優しく包み込んでみたりする。そうやって引きずり込まれて、あれよあれよという間に私はここまで泳ぎ着いてしまったわけだ。その先がこんなにも明るくて満ち足りた場所だなんて、対岸からはまるで予測もつかなかった。

「……あの。今日、任務終わったらすぐ着替えて、行きます」
「うん。去年と同じお店、覚えてる?」
「はい」
「よしよし。いい子だね」

ゆるく弧を描いた唇が私のそれに触れ、ちゅっと可愛らしい音を立てて離れていく。骨張った指先で私の左の薬指を撫でると、彼は満足げに笑った。

「――じゃ、行ってきます」

颯爽と出て行く背中を見送り、短く息をつく。じんわりと熱を持った左手に視線を落とせば、応えるように白金が瞬いた。もう一年も経つのに、いまだに信じられないんだよなあ。

「……高級フェイスパック、朝から使っちゃおうかな」

持て余した袖でにやつく口元を覆い隠して、私はバスルームへと足を向けた。

さあ、出かけよう。さっさと仕事を終わらせて、とびきり綺麗に着飾って、今日はきっと素敵な記念日にするのだ。

あなたの瞳の海に住む


2021.10.30発行の同人誌「All about Them」に書き下ろしとして収録いたしました。
Title by またね