朝焼けとコーヒー、その行方

学生時代から、五条さんのことが苦手だった。

その身の内から爛々と光を放っているような存在感の強さとか、ブルドーザーみたいに周りを掻き回す尊大な態度とか、そのくせ水を打ったように静かな呪力の気配だとか。近づいたら飲み込まれてしまうんじゃないかと恐ろしく、なのに姿を見かけると目が離せない、そんな不可解さに戸惑ってもいた。

腕っぷしも呪術もからっきしな、彼の言うところの『ショボい』後輩の何がお気に召したのか、五条さんがしょっちゅう私に構ってくるのもたまらなかった。五条さんのそばにいると落ち着かない。胸の奥はちくちくするし、見つめられたら喉を鷲掴みにされたかのように息苦しくなって、何を喋ればいいのかもわからなくなってしまう。だから、ずっと苦手だった。

「恋だろうそれは」

先々週のことだ。滲むようなオレンジ色の夕日が差し込む医務室で、硝子さんが言った。

「君は五条悟に恋をしている」

末期の病です。もはや打つ手はありません。そう宣告された気分だった。

「……誤診では?」
「残念ながらそれはないな。見ていればわかる。まさか無自覚だとは思ってなかったけど」

ご愁傷様、と口の端に笑みを乗せて、硝子さんは私の頬にぺたりと絆創膏をくっつけた。コイツはもうダメです、という烙印を押されたようにも思える。
ようやっと、何年も抱え続けていた五条さんへの違和感に名前がついた。なんとも不本意な名前が。ちっとも嬉しくないのに、その名はやけにすとんと腑に落ちて、それがまたいっそう腹立たしかった。
唇をへの字に曲げた私に、硝子さんは「そんな顔しても無駄」と嗜めるように言った。無駄なのか。困った。

「だとしたら、最悪です……」
「自分の男の趣味が?」
「違くて」
「違うの?」
「……だって、五条さんですよ。そんなの、……恋とか、無理すぎるじゃないですか。私、よわよわのミソッカスですし。スタイルも良くないですし。呪力なんか、雀どころかメダカの涙くらいしかないんですよ」
「メダカの涙」

歌うように繰り返しながら、硝子さんは華奢なボールペンで手元の紙にさらりとサインを施すと、私に差し出した。任務の報告書と一緒に提出する治療記録だ。

「五条はそんなの気にしないと思うけど」
「五条さんが気にするとかしないとか、それ以前の話ですよ」

私があの人に対してそんな感情を抱くこと自体、間違っている。いつから私はそんな、身の程も弁えない不遜な女になってしまったのか、そのことに絶望した。この気持ちは隠し通さなければならない。どうせ大切に育んだところで実を結ぶこともない想いだ。どこかに埋めて、見えないようにして、なかったことにしてしまえばいい。

――そう思っていたのに。どうして私はいま、五条さんと仲良く手を繋いで、こんなところにいるんだろう。

「……五条、さん。あの」
「んー?」
「ここって」
「ホテルだねえ」

のんびりと答える五条さんの背後、壁一面をくり抜いた大きな窓の向こうで、東京の街並みがゆっくりと夜に沈んでいく。それを呆けて眺めていれば、優しく手を引かれて部屋の中央の巨大なソファに導かれた。都心の一等地に陣取った高級ホテルの最上階、部屋はフロアにたったひとつ。いま、ここには私と五条さんの、ただ二人しかいない。

――あの後。喫茶店で五条さんの恋人ごっこに散々付き合わされている間に、ターゲットの男は消えていた。青褪める私をよそに五条さんは至って平然として、店を出たところで流しのタクシーを捕まえ、私を連れてまっすぐここへやってきたのだ。
おかしいとは思った。だってあの男からは並の一般人以上の呪力は感じなかったし、そもそもこうしてタクシーですぐに追えるくらい素性が掴めているのなら、最初から尾行の必要もなかったわけだ。
気付くのが遅かった。これは任務でもなんでもない。騙された。何のために?

「五条さん、ちょ、離れてください」
「やだ」

五条さんと並んでソファに腰を下ろしたまま、私は一ミリも動けないでいた。繋いだ手をやわやわと握りながら、五条さんが私の肩口に額を寄せてくる。細い髪が首筋をくすぐり、ひ、と喉が鳴った。甘い香りに頭の中が掻き乱される。眩暈がしそう。

「なん、で、任務なんて嘘つくんですか。あの男の人は何だったんですか?」
「任務だなんて一言も言ってないよ、僕」
「は?」
「ちなみに、あの男はただあそこにいただけの一般人。なーんにも関係ない。お前が勝手に帰らないように、適当に選んで見張らせておいたダミーのターゲット」

開いた口が塞がらないとはこのことだった。じゃあ私は今日、一体何のためにこんなにも緊張して、命を懸ける覚悟を固めて来たのだろうか。

「ねえ」

沸々と煮立ち始めた思考は、しかしすぐに低い声に遮られた。顔を上げた五条さんの目に、サングラスはない。ぼうっと淡く光る蒼穹の瞳が、薄暗がりの中で揺れていた。喉までせり上がっていた疑問も文句も、この瞳の前ではすべて形を成さない。

「今日、僕の恋人やってみてどうだった? 嬉しかった? 楽しかった? いいなって思った?」
「は、え、あの」
「もっといろんなことしたいって、思った?」

いろんな、こと。甘い毒のような言葉を吐く唇に目が行き、慌てて視線を逸らす。じわじわと近づいてくる五条さんの体を片手で必死に押し返すが、結局はそちらの手も容易く拘束されて終わった。こんなに立派なソファなのに、もうどこにも逃げ場がない。

「お前さ、いつも僕と距離取ろうとしてるよね」
「え、と」
「連絡は常に仕事用のスマホにしかしてこないし、買い出し頼むときはいつも『お前の分も買ってきていいよ』って多めにお金渡してるのに、一回も使ったことないよね。いくら部屋に呼んでも毎回ホントに掃除だけしてあっさり帰るしさあ」
「いや、それはだって、仕事です、し。公私混同は」
「まあそういうのは昔からだから、今更どうでもいいんだけど。でも最近、任務もできるだけ僕と一緒にならないように伊地知に調整させてるね。それこそ公私混同なんじゃないの?」

背筋がうっすらと寒くなった。バレている。お叱りを覚悟して首を竦めたが、予想に反して五条さんの声は楽しそうだった。

「お前がそうやって無駄に逃げ回ってるの眺めるのも、悪くはないんだけどさ。でも、それで怪我されるんなら話は別」

言って、五条さんは私の頬を長い人差し指でなぞった。先日、任務で軽い怪我をして、硝子さんに診てもらったところだった。別に大した傷じゃない。同行した呪術師が相手の攻撃をいなし損ね、私に掠ったのだ。不意打ちだったから仕方がない。五条さんだったら、防げたのかもしれないけれど。
ぴくりと肩を揺らすと、青い瞳が柔らかくとろける。心臓を絞り上げられるような心地がした。苦手なのだ。そうやって、不意に優しい顔をするところが。

「どうしてお前が僕を避けたがってるのか、当ててやろうか」
「避けて、ない、です……」
「嘘つくなよ」
「嘘じゃな、あの、近、やめ、」
「正直に言ったらやめてあげる」

ざらついた親指の腹で耳の縁を撫でられて、息が詰まる。正直になど言えるはずがなかった。こんな風に思ってしまうこと自体、おこがましいにも程がある。だというのに、五条さんの指に、眼差しに、声に切なくなるほど想いが込み上げて、うっかり口を滑らせてしまいそうになる。

「なん、なん、なんなんですか、こんな、いきなり」
「いいでしょ別に。僕たち〝恋人同士〟なんだからさ」
「それは任務だと思ったからで……!」
「僕はさあ、ずっとお前とこうしたかったよ」

今度こそ、心臓が止まったと思った。
一拍遅れて、爪先からじわあと熱が昇ってくる。そんな私を見透かしたように、五条さんは淡く微笑んだ。

「デートして、手を繋いで、抱きしめて、キスもその先も、お前としたかった」

耳元で囁かれ、いっそこのまま死んでしまいたくなる。これも恋人ごっこの一環だろうか。愛おしそうに私の輪郭を撫でる仕草も、潤んだ瞳も、掠れた甘い声も、全部。だとしたら、酷い仕打ちだ。

「お前は? 僕の恋人になりたいって、思ったことなかった?」
「……五条さ、」
「ね、教えて」

教えて。そのたった四文字が、いままで聞いたどんな言葉よりも強く強く私を揺さぶった。どうしてそんな、切実な声で言うのだろう。もう何もかもがだめだった。喉の奥に押し込めていた言葉が、堰き止めきれずに口から溢れ出す。

「――すき、です」

好きです。ずっと好きでした。たぶん、初めて見たときから。苦手だなんて嘘でした。あなたの隣に似合わない自分を自覚するのが怖かった。近づいて拒絶されることに耐えられなかった。だから気づかないフリをして、ずっと。

「……うん」

言ってしまった。ぎゅうと俯いたつむじに、小さな返事が落ちてくる。恐る恐る顔を上げれば、ガラス玉みたいな丸い瞳の中で、自分の姿がゆらゆらと揺れていた。五条さんの瞳にいま、私だけが映っている。そう思ったら、たまらなく胸が詰まった。

「上手に言えたね」

唇にあたたかな感触があった。キスされた、とわかった次の瞬間には、眦に滲んだ涙を五条さんの舌先が攫っていく。思わず強く目をつむると、吐息のような笑い声が降ってきた。

「お前、明日は休み?」
「え、はい、あの」
「じゃあ近くにコーヒーの美味い店があるから、朝はそこで一緒に食べよっか」
「へ」
「言ったでしょ。『今日は帰さない』って」

まさか、それも本気だったのか。わからない、もう何もわからない。さっき触れ合った唇ですら幻ではないかと疑っているのに。無意識に口元へやった手を絡め取られる。視界いっぱいに美しい空色が広がっている。その柔らかな眼差しは、間違いなく、私に注がれていて。

「――僕も、教えてあげるね」

そうして囁かれた言葉に、私は今度こそなす術もなく陥落した。

朝焼けとコーヒー、その行方


2022/1/8開催の「じゅ夢Webonly」様にて無料配布させていただきました。

Title by 誰花