夕焼けとレモンティー、その続き

夕焼けとレモンティー、その続き

「僕、クリームソーダで。お前は?」
「……こ、紅茶で。ホットで、お願いします……」

尻すぼみになった言葉の最後は、かしこまりました! という元気な店員さんの声にほとんど掻き消された。紅茶はストレートミルクレモンどちらになさいますか。お砂糖はお付けしますか。ご一緒にケーキなどいかがですか。季節のおすすめは苺のタルトです。静岡県産の紅ほっぺを使用しております。

「へえ〜、紅ほっぺだって。可愛い名前だね」
「そ、そうですね」
「じゃあお姉さん、それもひとつ」
「かしこまりました!」
「彼女、甘いものに目がないんだよね」

ね、とそれこそケーキのように甘ったるい瞳を向けられ、私は緩慢に頷いた。自分が食べたいだけでしょう、などとは到底口に出せそうにない。
恭しく一礼した店員さんが、白いエプロンをはためかせて去って行く。その後ろ姿をたっぷり十秒見送ってから、私は周囲に素早く視線を走らせた。夕暮れ時の喫茶店は静かな賑わいを見せている。学校帰りと思しき制服姿の女の子たち。一心不乱にPCを叩くビジネスマン。小さな子供を連れた若いお母さん。そして、目の前で上機嫌に鼻歌を歌っている白髪の男――のさらに向こう、空っぽのテーブルをひとつ挟んで、壁際のソファ席に腰掛けた人物が目に入る。よかった、まだちゃんといる。

「僕といるのに他の男に目移りなんて、いい度胸してるね」

恐ろしく整った顔が視界に割り込んでくる。こてん、という効果音がよく似合う仕草で首を傾げ、五条さんはサングラスの奥の青い瞳をやんわりと細めた。あまりのあざとさに閉口してしまう。どうあっても顔の良さだけは否定できないのが残念だった。油断したら、見惚れてしまいそうなほど。
もう一度、今度はさっきの半分の時間で壁際の席をちらりと見やり、私は元から大きくもない声をさらに潜めた。

「……ちょっと五条さん、任務中にふざけすぎですよ! 勘付かれたらどうするつもりですか」
「え? なあに、聞こえない」
「だから、ふ・ざ・け・す・ぎ! です!」
「だ・い・す・き? 照れるなあ。僕も大好きだよ」
「ちっが……! あーもう……」

楽しそうに弧を描くツヤツヤの唇を睨みつける。そうしたところで何の効果もないこともわかっていた。なにせ私はしがない補助監督なのだ。正論で説き伏せることも膂力で捻じ伏せることも、この人相手には叶わない。その証拠に、「どうしたの? 具合でも悪い?」なんて空々しく微笑みかけられるだけで、もう二の句が継げなくなってしまう。挙句の果てに、テーブルの上で右往左往させていた手を大きな手のひらで捕まえられ、うっとりと夢を見るような声音で囁かれれば、あとはもう風前の灯火のようにこの特級術師に吹き遊ばれる己の運命を嘆くことしか、私にできることはなかった。

「こんな風に二人きりで過ごすの、久しぶりだね。……今日は、帰さないから」

 

お前にお願いしたいことがあるんだけど。そう連絡が入ったのは、昨日の夕方のことだった。五条さんからのお願いごとというのは、実はそう珍しくない。大半はろくでもなく、ランチにどこそこの高級ステーキボックスを買ってこいとか、出張中に部屋の掃除をしとけとか、シャンプー買い足しとけとかそんなものである。要は、伊地知くんがいないときの都合のいい小間使いだった。

ただ今回だけは、いつもと明らかに様子が違った。お前にしか頼めない。極秘でよろしく。そんなメッセージがプライベートの携帯に入ったものだから、よっぽどの重要案件なのかと相応の覚悟を固めてやってきたのだ。大した力も持たない私だけれども、呪術界の端の端に名を連ねる者としての自覚くらいは持っている。
しかし、蓋を開けてみればこれだ。呼び出された先は何の変哲もない喫茶店だった。ちょっといいコーヒーとちょっといいケーキを出す、ちょっといい雰囲気の店。「とりあえず座って、あそこの男でも見張っといて。あ、三年くらい付き合ってる仲良しのカップルっていう体でよろしく」などと気の抜けた指示を出されて席についたのが十分ほど前。以降、私は壁際の男の一挙手一投足を血眼で追っているというのに、五条さんはそんなことまるでお構いなしみたいだった。これが特級の余裕というものだろうか。

改めて目の前の五条さんを窺う。いまからでも何か合図があるかもしれないと思い直した。なんか、ほら、目配せとか。一瞬たりとも見逃すまいとサングラスの向こうに目を凝らすと、何を勘違いしたのか五条さんはさらに笑みを深くして私を見つめ返してくる。違うそうじゃない。

「ねえ。あーんしてよ」
「は?」
「僕も苺タルト食べたい」

私の手元のタルトを指した五条さんは、早く早く、と目を輝かせて私を急かす。僕も、っていうかあなたが勝手に頼んだんでしょうに。

「……五条さん、念のためなんですけど」
「うんうん」
「私たち任務中なんですよね? あの壁際の男をマークするんですよね?」
「え? ……あー、そうそうそんなカンジ」

五条さんはちらりと私の視線の先を確認しただけで、至極適当に返事をよこした。壁際の男はスポーツ新聞を大きく広げ、舐めるようにして読み耽っているばかりだ。テーブルの上のコーヒーはずいぶん前から空っぽのようだった。いつまでここにいるつもりだろう。

「……あの人、見た目はただの一般人ですけど、実はやばい呪詛師とかなんです……?」
「まあ、うん、そんなとこかな」
「だったら尚更こんな、カップルのフリしてまで尾行なんて回りくどいことしなくても」
「そんなことよりさ、僕、早くケーキ食べたいんだけど」

そんなことより? 五条さんは子供のようにつんと唇を尖らせてこちらを見る。まるで緊張感というものがない。

「はい?」
「いま自分で言ったでしょ。僕らはカップル、つまり恋人同士なんだよ? あーんの一つや二つ、堂々とやってくれないと困るんだよね。なんのためにお前を呼んだと思ってんの?」
「は、はあ。スミマセン……?」
「ということで、ハイ」

お皿の端に渡してあった銀色のフォークをつまみ上げ、律儀にも柄の部分をこちらへ向けて差し出してくる。思わず受け取ってしまってから、はっとした。いやそこまでしたなら、あとは好きなだけほじくって食べてくださいよ。そんな台詞は、この人の笑顔を前にするとやっぱりどうしても出てこなくなる。

「ねー、はーやーくぅ」
「……わかりましたから待ってください……」
「そのおっきい苺が乗ってるところがいいな」
「ここでいいですか……?」
「そうそう。いいねえ」

あーん、と自分で言いながら、五条さんは恥ずかしげもなく大きな口を開けた。周りの視線が痛い。誰でもいいからいますぐ私をここから逃がしてくれ。今更ながら、使命感に駆られてのこのことこんなところへやってきた少し前の自分を呪った。もはや、ただでさえ目立つこの男の口に一刻も早くケーキを突っ込むことでしか、この羞恥から逃れる道はない。フォークの上にありったけのタルト生地とクリーム、一際大きな苺を乗せて、これでも喰らえ、という気持ちで五条さんの口元へ運ぶ。

「ん」

ばくり。赤い舌が覗く。ちらと見えた犬歯に、大粒の苺が噛み潰される音がする。甘酸っぱい香り。タルト生地のバターの匂い。大きく上下する喉仏。

「……美味しい」

五条さんが幸せそうに目を細める。まるで本当の恋人に向けるようなその眼差しを受け止めたら、胸の奥の何やら柔らかい部分をきゅうっとつまみ上げられたような気分になった。ああ嫌だ。恥ずかしさを誤魔化すために強行した行為なのに、もっと頬が熱くなるのはどうしたらいいんだろう。喉にどろりと絡みつく感情を洗い流すように、レモンの苦味ばかりが残った紅茶を一息に飲み干した。

「……満足しましたか?」
「いーや? まだまだ」
「なんなんですかこの任務ほんとに」
「『今日は帰さないから』」

宙に浮いたままのティーカップごと、右手を包み込まれる。呆気に取られた私の鼻頭にキスでもしそうなほど唇を近づけて、五条さんは密やかに笑った。

「言ったよね? とことん付き合ってもらうよ」

きっと、傍目に見ればさぞ仲の良い恋人同士に映るのだろうな。青い瞳の中でちらちらと揺れる夕焼けの朱から目を逸らせないまま、そんなことを思った。

 

 


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Title by 誰花