あまい淡い発火

※高専時代
※五条視点

 

 

「さっっっむ」

喉の奥から絞り出すように呟けば、もわりと白い息が踊った。今日の最高気温は摂氏五度未満。冷蔵庫かよ。

「やばい寒い凍るタクシー乗ろ」
「だめだよ、補助監督さんがいま迎えに来てくれてるんだから」

もうちょっと我慢して、などと子供に語りかけるような声で言って、彼女は再び雪道に一歩踏み出す。小さな唇から洩れる吐息もまた、白く濁ってすぐに消えた。

「ならわざわざ移動しなくていーじゃん、さっきのバス停で待ってようぜ」
「じっとしてるほうが寒いでしょ」
「……じゃああったまるようなコトする?」
「え、どんな?」

振り向いた黒い瞳にじっと見つめられ、口を噤む。しまった。傑や硝子相手になら通じる冗談も、コイツには無効だということを忘れていた。「……全力疾走とか?」「あ、いいねえそれ」でも、雪が積もってきたから滑って危ないかな。暢気にふにゃりと笑う頬を、思いきりつねってやりたい衝動に駆られる。

俺よりひとつ年上のこの女は、どこの温室で育てられたのか知らないが、下世話なネタに滅法疎かった。中学の保健体育で習うような話すら、きちんと現実のものとして理解しているのか怪しい。何しろ「男になんか触ったこともありません」みたいな顔をして生きているのだ。座学の成績は学年一らしいのに、そういう方面の知識だけがごっそりと欠落している。ある意味でイカれた女だった。

彼女と二人での任務は久しぶりだった。たぶん、夏に奥多摩の山奥に派遣されて以来だ。寝坊した彼女がタイツを履き忘れ、生白い脚に無数の虫刺され痕を作っていたのをよく覚えている。からかってやろうとして「やだ先輩キスマークすごーい」と言ったら、さっきみたいにきょとんとした顔で返された。

彼女といるといつも、気がつかないうちに自分の生きる速度をじわじわと緩められているような錯覚に陥る。喋るのも遅ければ、食べるのも歩くのも彼女は遅かった。いまだってそうだ。わざわざこんな寒い中を亀みたいな速度で進まずとも、俺一人で先に帰るなりタクシーを捕まえるなり、どうとでもやりようはあった。こんな風に、いつもの半分の歩幅でちまちまと歩く必要なんて、どこにもなかった。

少し前を歩く彼女と俺との間、薄く積もった雪の上に、小さな足跡が点々と続いている。それをわざと踏みつけながら、追いつかないようにゆっくりと後ろを歩いた。艶やかな黒髪に雪のひとひらが舞い降りて、融けて透明になっていくのを、ぼんやり眺めた。

「……あー、くっそさみい」
「寒いねえ」
「なんかあったまる話してよ」
「うーん。じゃあ、寮の談話室にコタツを設置する構想について」
「はあ?」
「昨日ね、硝子ちゃんと話してたの。おっきいコタツ買って、みんなで入ってぬくぬくしながら蜜柑とか食べるの。どう?」
「そんな大人数入れるコタツなんかねーだろ」
「そこは五条くんのお力でなんとか」

外気にさらされて真っ白になった手のひらを擦り合わせながら、彼女がおどけた仕草でこちらを仰ぎ見る。後輩に丸投げかこの女。頭を鷲掴みにしてやろうと手を伸ばして、やめた。代わりに、てっぺんに積もり始めていた雪をわざと乱暴に払ってやる。「いたい!」と大袈裟に叫ぶ顔は、やっぱり楽しそうに笑っていた。何がそんなに面白いんだか。

「あっ! ねえ五条くん」

雪のせいでしんと静まり返ったモノクロの景色に、彼女の声が弾けて響く。もしも音に色があるのだとしたらきっと、彼女の声は春の訪れのようにあたたかな色をしている。そんなことを、柄にもなく空想してしまう。

「なんだよ」
「あったまることしよっか」
「は?」

言って、彼女は悪戯っぽく丸い瞳を細めた。呆けて口を開けた俺を残し、くるりと身を翻す。

「あそこのコンビニまで競走! 負けたほうがおでん奢りね!」

よーいドン! 威勢のいい掛け声とともに、彼女は雪道を駆け出した。おい勝手に始めるなよ、雪積もってるから危ないって言ったの誰だよ、俺と勝負して勝てると思ってんのかよリーチの差を考えろ……あー、もうめんどくさい。

「うわ!?」

いろんな文句を言葉にするより早く、俺は大きく一歩踏み出して彼女の手を掴んだ。呆気ない。冷えた白い手はあまりにも小さい。引き寄せて腕の中に収めて、まん丸く目を見開いた彼女の頬に指を這わせて、一息に唇を奪った。寒風に吹かれていたはずのそこは、なぜか燃えるように熱かった。

「……あったまった?」

至近距離で尋ねてやれば、真っ赤な顔がこくりとひとつ頷いた。あ、これなんもわかってねえな。後で無かったことにされるのも癪なので、ダメ押しでもう一度口付けておいた。いくら鈍くたって二回もすればわかるだろ。

「おでん奢ってよね、センパイ」

すっかり大人しくなってしまった彼女の手を引いて、コンビニを目指して歩き出す。いつまでもそっちのペースでいられると思ったら、大間違いなんだよ。

あまい淡い発火


ソナーズに投稿したものです。

Title by エナメル