流れ星の掬い方

※「おとなりのうちゅうじん」の続き。捏造設定ありです。

 

 

 

汝の隣人を愛せよ。

自分自身を愛するように、他者を慈しみなさいとイエスは説いた。素敵な言葉だと思う。みんながそうできたなら、きっと地球はもっと丸くなる。でもごめんなさい、私には無理です。だって私の隣人、本当にろくでもないんですよ。

「五条さん」
「んー?」
「いつになったら帰るんですか」
「うーん、いつなんだろうね?」
「疑問系やめて」

ポテトチップスの袋に伸びてきた手をすかさずはたき落とす。「いだっ! ひどおい!」とわざとらしい悲鳴が上がるが、構ったものではなかった。これは私が買ってきたポテチだ。この馬鹿みたいな暑さの中、ひいひい言いながら仕入れてきた貴重な食糧なのだ。それを、あろうことか人んちのクーラーの恩恵にあずかってグウタラと過ごしていただけの無精者に、一枚だってくれてやる義理はない。イエス様に怒鳴られようが地球が真っ二つに割れようが、断固として私は闘う。闘うぞ。

「なんっで自分ち帰らないんですか! すぐ隣でしょ!?」
「だって僕の部屋、なんにもないんだもん。仕事用だからってベッドとテレビと冷蔵庫しかないんだよ? ひどくない?」
「それだけあれば充分ですね、解散!」
「嫌だッ! 僕だってソファでごろごろポテチ食べながらネトフリ観たいッ!」
「この駄々っ子!!」

五条さんがヤダヤダと暴れ回る動きに合わせて、小ぶりなソファからは苦しげな呻き声が上がる。いくら二人掛けとはいえ、こんなでかい男が座ることなんて想定して作られていないだろう。「わかりましたわかりましたから! ポテチ食べていいですから!」まるで人質でも取られたかのように、私は降参するほかなかった。
先月買ったばかりのソファは、ここ最近ずっと五条さんに占拠されている。今日だってコンビニから戻ってきたらこうだった。悔しいのでなんとか空いたスペースに体を捻じ込んで座っているが、五条さんが長いおみ足を広げてふんぞり返るものだから、私のお尻はいまや座面の端っこに辛うじて引っ掛かっているのみである。ここ私の家だよね?

「ほらほら、呪力乱れてるよ〜」
「誰のせいですか!」

ああ疲れる。呪術師ってこんなんばっかりだったらどうしよう。不安に駆られ、腕の中のぬいぐるみをぎゅうと抱きしめた。ボクシンググローブをはめたクマのぬいぐるみは、いまはスヤスヤと健やかな寝息を立てている。ぬいぐるみが寝息を立てるというのも変な話だが、これを持ってきた張本人がそもそも変なのだから、それはそうですよねとしか言いようがない。

五条さんに(不本意ながら)命を救われてから、一週間が経っていた。私の転職の話は着実に進んでいるようで、一昨日は五条さんの部下だという気の弱そうな眼鏡の男の人が、必要書類一式を持って訪ねてきてくれた。とてもじゃないけれどホワイトな職場で働いているようには見えないやつれ方をしていたが、恐ろしいので詳しくは聞かないでおいた。
当の私はといえば、現在の職場の退職手続きを進める傍ら、五条さんの指導のもと呪術のお勉強をしている。今日は呪骸というらしいこのぬいぐるみで呪力コントロールの練習をしろと言われ、こうして映画を観ながら訓練に勤しんでいるわけである。ちなみいまは主人公が後ろからぐさりと刺されたところだ。うわあ痛そう。

「……へえ」

主人公をさすってやるわけにもいかないので、代わりに呪骸の頭を撫で回していると、不意に五条さんの顔が視界に割り込んできた。サングラスを少しだけ下げて、青い瞳でじいっと観察するように私の顔と手元の呪骸とを見比べる。薄々気がついてはいたけれど、五条さんって他人との距離感がおかしいときがある。あんまり急にその顔を近づけないほうがいい、綺麗すぎてみんなびっくりするから。

「今度はなんですか」
「なかなか素質あるねえ、ナマエちゃん」
「え、まじですか?」
「マジマジ。頭もばっちりイカれてるし、最初は窓レベルかと思ったけど補助監督くらいにはなれるかも」
「なんか余計な一言入ってましたけど」
「褒めてるんだよ〜。ねえコーラちょーだい」

私の返事も待たずに、長い指がローテーブルからグラスをひょいと持ち上げる。朝のうちからよくよく冷やしておいたカラメル色の液体は、一瞬のうちに大きな口に吸い込まれ、無骨な喉仏に飲み下されて消えた。それも私が買ってきたコーラなんですけどね。あといつの間にかポテチが空になってますね。言いたいことを視線に乗せてじっとり睨め付けると、五条さんは涼しげな眼差しで「ん?」と見つめ返してくる。洗い立てのシャツのように爽やかな笑顔だ。

「あっヤダ! もしかして間接キスとか思っちゃった? えっちー!」
「思ってません」

はああと聞こえよがしに溜息をついて、私は重い腰を上げた。すかさず「コーラおかわり〜」という呑気な声とともに、空っぽのグラスが差し出される。この人は遠慮とか謙遜とかいうものをお母さんのお腹の中に置いてきてしまったのかもしれない。こうやって私もあの眼鏡の人みたいにやつれていくのかな。やだなあ。

「このままじゃ五条さんに食い潰される……」
「ねー次の映画なににするー?」
「もうなんでもいいです……」
「なんで急に疲れてんの? ウケる」

……言い返したは負け。言い返したら負け。キッチンの戸棚から新しく自分用のグラスを引っ張り出し、無心でコーラを注ぐ。五条さんのグラスにはこれでもかと氷を追加しておいた。知覚過敏で泣けばいい。

「ていうか、五条さんって日本に数人しかいないすごい等級の人なんですよね? こんなとこで油売ってていいんですか?」

ソファに戻ると、五条さんは次の映画探しに夢中になっていて、珍しく私の分のスペースが大きく空いていた。ラッキーだ。素早く体を滑り込ませつつ、遠回しに早く帰れよという圧をかけてみる。いいんですか? よくないですよね? いますぐにここを出たほうがいいですよね?

「いーのいーの。繁忙期過ぎたし、僕が全部やっちゃったら後輩が育たないでしょ?」
「とか言ってサボりたいだけなんじゃ……」
「ねえ洋画と邦画どっちがいい?」
「え? 邦画ですかね」
「ふーん。僕は洋画の気分だから洋画にするね」
「…………」

五条さんが勝手に選んで勝手に再生した映画が始まる。もう五条さんを追い出すのは諦めて、画面に集中することにした。訓練中なのだし、教官がそばにいたほうが何かと便利かもしれない、と無理やり自分を納得させる。

映画は古いパニックホラーだった。ぐちゃぐちゃのゾンビがいっぱい出てくるやつ。女子と観る映画のチョイスとしては最悪の部類に入るだろうが、あいにく私は普段から異形に見慣れているので特段の感慨もなかった。
けれど、いざ自分で戦うと考えたら話は別だ。首に絡み付く呪霊の腕の感触を思い出し、背筋がぞわりと粟立つ。呪術界に足を踏み入れるからには、ああいうのも自力で祓えるようになっておいたほうがいいのだろうか。せめて蠅頭くらいは……あれ?

「そういえば最近、呪霊出てきませんね……?」

言いながら、私は部屋の中を隅々まで見渡した。カーテンの裏はもちろん、天井にもゴミ箱の後ろにも、怪しい影は見当たらない。思い返せば、マンションのエントランスやゴミ置き場、コンビニへ行く途中の高架下など、日に一度は呪霊を目にしていたような場所でも、ここ数日は蠅頭の一匹すら見かけなくなっていた。

「あー、このへんのはだいたい祓っといたからね」
「え!?」
「この家にも簡単だけど結界張っといたし、しばらく雑魚は寄りつかないんじゃない?」
「祓ったって、全部ですか!?」
「まあ蠅頭とかは別にほっといてもよかったんだけどさ、選別するのも面倒だったから」

一気にやっちゃった、と五条さんは事もなげに言ってのける。その横顔を見上げて、不意に気がついた。

――ああ、そっか。

私たちが空想上のお化けやモンスターを画面越しに怖がっている間に、『こんな世界じゃなくてよかったね』なんて呑気に笑っている間に、この人は現実でそれらと戦ってきたのだ。
簡単なことだった。どうして私が、私たちがこうやって毎日平和に暮らしてこられたのか、いまになって考えればよくわかる。軽薄で、周りのことなんかちっとも気にかけないような振る舞いをするけれど、本当にそうなら、きっと彼はとっくに呪術師なんて辞めていた。

「……そうやって、五条さんはずっと私たちを守ってきてくれたんですね」

誰も知らないところで、誰に感謝されることもなく、けれど当たり前のように、命を賭して誰かを守る。そういう仕事。そうして、今度は私もそちら側に身を置こうとしている。

「……僕だけじゃないよ」

呟いた五条さんの声が嘘みたいに優しくて、私は口を噤んだ。そんな顔もできるんですね、と茶化すことも憚られるくらいには、それは彼の底知れぬ心の奥からぽろりと零れ出た本音のように聞こえた。

私、五条さんのことを勘違いしていたのかもしれない。ポテチやコーラくらいで騒いで心が狭かったな。これからはもっと敬って感謝しよう。そう反省した直後、太腿にどさりと重さを感じて視線を落とす。私の膝を枕にして寝転がった五条さんがいた。はい?

「ちょ、なんですか!?」
「お仕事がんばったから眠くなっちゃった〜」
「今日働いてないですよね!? てか重いです!!」
「失礼しちゃうなあ、僕の体は天使の羽のように軽いんだよ?」

こんな馬鹿でかい天使の羽があってたまるか。ふわふわの白い髪を引っ張ってやろうかと思ったけれど、目を閉じた五条さんがあんまり穏やかに笑うから、やっぱり私は何も言えなかった。

「ちょっとだけ、休憩させて」
「……ちょっとだけですよ」
「ん」

テーブルの上のリモコンに手を伸ばし、そっとテレビの電源を落とす。起きたら、コーラもう一杯くらいはご馳走してあげなくもないですよ。

流れ星の掬い方


もうちょっと続きます。

Title by icca