おいで、愛してあげる

ふはあ、と重い溜息をつくと、目の前の白い湯気が大きく揺れた。今日の寒さを象徴するようにもくもくと立ち昇るそれを睨みつけ、もう一度、今度はわざと息を吹きかける。揺らめきながらも懸命に上を目指すその姿はなんだか健気で、私を少しだけ後ろめたい気分にさせた。ごめんよ湯気、お前に罪はない。ただちょっと八つ当たりしたかっただけなんだ。

「なにラーメンと睨めっこしてるの。伸びるよ」

はっと顔を上げれば、隣の席から五条が呆れ果てたような視線を寄越していた。素顔はいつものアイマスクで隠れているわけだが、ぐいんと下がった口角を見れば、その下でどんな表情をしているかは想像に難くない。普段ならここで一言二言は言い返していたことだろう。でも今日の私は、この男に頭が上がらない。

「早く食べなよ。それとも僕の奢りじゃ不満?」
「……いえ、ありがたくイタダキマス」
「ん。よろしい」

割り箸を割ろうとしたところで、大きな手が伸びてきて私の頭を真上からぐりぐりと乱暴に撫でた。おかげで割り箸は片方に大きく偏った割れ方をしてしまった。格好悪いな。誰かさんみたいだ。

今日、私は恋人に振られた。
信じられない。だって五年も付き合ってきたのだ。同業だったし、お互いにいい歳にもなってきたし、そろそろ結婚かなあ、なんてぼんやりと考えてもいた。呪術師の私たちに許されるのは、世間一般に言う幸せな家庭とはちょっと違うのかもしれないけれど、でもきっと悪くはないはずだって。
そう思っていたのは、どうやら私だけだったらしい。

『お前は一人で生きていけるだろ』

可愛げがない。隙がない。そばにいてやりたいと思えない。次々と繰り出される言葉の針に縫い付けられて、私は何ひとつ言い返すことができなかった。いまさら何をとか、あまりに一方的じゃないかとか、怒りが湧いてくるよりも早く、妙に納得してしまったのだ。だって、全部その通りなんだもの。

「……で、何も言い返せずに泣きながら逃げ帰ってきたわけ?」
「泣いてない」
「なっさけなーい」
「泣いてない!」

嘘。ほんとは柄にもなくちょっとだけ泣いた。任務終わりのぼろぼろの状態で、それでもなんとか恋人との約束に遅れまいと必死に走って、ようやく辿り着いた待ち合わせのカフェで聞かされるのがそんな話だったら、誰だって泣きたくもなると思う。あのカフェ気に入ってたのに、もう行けなくなっちゃったじゃないか。

その後どうやって高専まで戻ったのかは、あんまり覚えていない。気づいたら見慣れた事務室の扉の前に立っていて、次の瞬間にはその扉が勢いよく開いて背の高い男が出てきた。私を見下ろしてぽかんと口を開けたその間抜けな顔を見た瞬間、今朝開いたスマホのカレンダーを思い出す。ああ、あれを見たときの私はまだ、今日という日がこんなにも最悪な一日になるなんて、微塵も思っていなかったな。

『……誕生日おめでとう、五条』
『そんな死にかけの呪霊みたいな顔で言われても全然嬉しくないんだけど』

死にかけの呪霊って。そもそも呪霊は最初から死んでるじゃん。思わず眉を顰めたが、確かにせっかくのおめでたい日にこんな辛気臭い顔を見せてしまったのは申し訳なかったかもしれない。素直にごめんと口にしようとしたら、五条が不意に私の肩を掴んだ。そのまま問答無用でぐりんと回れ右をさせられる。

『ちょうどよかった。飯食いに行くとこだから付き合ってよ』
『え』
『芳楽苑のラーメン、お前好きでしょ』

聞き覚えのある名前を告げながら、五条はぐいぐいと私の背中を押した。高専からほど近い、小さな中華食堂だ。学生時代から、それこそ五条とも数え切れないくらい訪れたことがある。飾り気のないシンプルな味の中華そばが美味しいのだ。いや美味しいのだけれど。

『え、待って五条、誕生日でしょ? 予定は?』
『その誕生日の僕がラーメン食べたいって言ってんの。ハイさっさとコート着る』

言われて、私はようやく小脇に抱えたままのコートの存在を思い出した。カフェを出てからここに来るまで、どうりでずっと寒かったわけだ。

 

「……ね。ほんとに今日、予定なかったの? 誕生日なのにこんなとこいていいの?」

黄金色の麺を持ち上げた手を止めて、隣へちらと視線を向けた。年季の入ったカウンターテーブルと小さな椅子で背中を丸めてラーメンを啜る姿は、なんとも窮屈そうだ。

「僕は誕生日どころか年中無休で忙しいよ? そんな中、こうやって傷心の同僚を慰めるために余暇を削ってあげてるわけ。感謝してよ」
「ありがとう……?」
「あ、胡椒とって」

お馴染みの青い缶から胡椒を振りかける様子は、普段と何ら変わりない。五条の誕生日って意外とこんなものなのかな。てっきり高級ホテルでも貸し切って、シャンパンタワーの三つか四つくらい建てているものと思っていた。もしくは美人の彼女と夜景の見えるロイヤルスイートとか。思ったままを口に出すと、バブルかよと一蹴された。

「くだらない気遣ってないで、早く食えよ。まさか食事も喉を通らないくらい傷ついちゃってる?」
「……別に。向こうの主張には正当性あると思うし」
「正当性ねえ」

五条は含みのある声で言って、くつくつと笑った。
だってしょうがないじゃん。私に可愛げがないのも、一人で生きていけるのも、その通りなんだし。代々続く術師の家系に生まれて、幼い頃からそういう風に育てられてきたのだ。いまさら、彼の求めるような“守ってあげたくなる”女の子になろうなんて無理な話だ。

「でもさあ、五年も付き合っといていまさら気がつくとか、そいつの目って節穴?」
「……それは、まあ、思わないでもない」
「結局は他に女ができたんじゃないの」
「傷口に塩塗り込むようなこと言わないでよ」

慰めたいのか落ち込ませたいのか。睨んでやっても何の効果もないことはわかっているので、諦めて再び箸を動かす。さっきまで奮然と湧き上がっていた白い湯気は、もう微かにゆらゆらと漂うだけになっていた。

「五条はさ、誰かに振られたこととか、なさそうだよね。いいなあ」

ずぞぞ、とラーメンを一口啜って言う。特に意味を込めたつもりはなかった。半分は本心だったけれど、もう半分はただのヤケクソの当て擦りだ。だから五条がほんの僅かに動きを止めたのも、気のせいだと思った。ずるずる、ずるずる。麺を吸い込む音が重なり合う。店の壁に取り付けられたテレビから、囁くように微かな声だけが聞こえてくる。

「……あるよ、一回だけ」

たっぷり間を置いて返ってきたのは、意外な答えだった。

「え、嘘。いつ?」
「学生んとき」
「全然知らなかった。五条って好きな人いたの?」
「まあね」

五条は何食わぬ顔でラーメンを咀嚼し続けるが、私は十余年の時を経て初めて知る事実に静かな衝撃を受けていた。あの五条が自分から誰かを好きになることなんて、しかもその相手から振られることなんてあるんだ。やっぱりあれかな、性格がアレだったのかな。その子よく無事だったな。硝子は知っていたんだろうか。今度訊いてみよう。

「五条を振る女の子なんているんだ……」
「ほんとにねー。そんなのよっぽどの馬鹿か命知らずか」

五条はそこで一度言葉を切って、赤い塗り箸の先を私に突きつけた。え、なに。人に箸を向けちゃダメっておうちで教わらなかった? 咎める前に、五条の薄い唇が動く。そこで私はさらなる衝撃を受けることになった。

「あとは、お前くらいのもんだよ」
「……は?」
「はい味玉あげる。お前ここの味玉好きだよねえ。昔、欲張って食べすぎて腹壊したじゃん」

けらけらと笑って、五条は私の丼の中につるんと丸い玉子を滑り込ませた。透明なスープにぷかぷか浮かぶその姿があんまり呑気なので、目の前の現実を一瞬、忘れそうになる。確かに私はここの味玉が好きだ。でも食べすぎたのは五条が面白がってたくさん注文したせいだよ……とかそんなことはどうでもよくって。

「……えっと、なんて? 私が? 五条を?」
「ハイ覚えてなーい」

五条は大仰な仕草で天井を仰いだ。いつの間にかスープだけになっていた丼に箸を投げ出し、丸椅子をくるりと回転させて私に向き直る。狭いカウンター席では逃げ場などあろうはずもなく、二本の長い脚に挟まれて私は身動きすら取れなくなった。まごつく私を、五条はゆったりと頬杖をついて面白そうに眺めている。私がこの男を振った? 冗談でしょ?

「二年の冬、任務帰りに二人でここ寄ったでしょ。雪降ってて、すげー寒かった」
「う、うん。それは覚えてる。覚えてるよ」

確か、珍しく東京にも雪が舞った日だった。

「僕はお前に『彼女になってくれる?』って訊いた」
「え?」
「で、お前は『やだよ』って言った」
「ええ? 待って、そんなこと…………あ」

あ。思い出した。

二年生の、十二月の始めだった。あの日もこうやって、二人で並んでカウンター席に座っていた。天気のせいか他にお客さんはいなくて、今日と同じようにとても静かで。例年より早い降雪を知らせるニュース番組をぼんやり眺めながら、五条が言ったのだ。

『あーあ。こういう寒い日にさあ、私があっためてあげる、って抱きしめてくれる彼女とかほしーなー』
『そのルックスで釣ればいくらでもあっためてくれるでしょ、そのへんのカワイイ女の子たちが』
『……じゃあ、頼めばお前もしてくれるわけ?』
『ん?』
『ナマエも彼女になってくれんの?』
『あはは、やだよそんなの』

柄でもないし、なんて笑い飛ばした。その後いつまで経っても五条が膨れっ面をしているから、そんなに寒いのかと私のマフラーを巻いてあげたのだ。真っ白なもふもふのマフラーから覗く真っ赤な鼻がおかしくてまた笑った。

……え、まさかあれが?

「やーっと気づいたって顔だね」
「いやだって、あんな……!」
「ひっどいことするよねえ、少年の純情を踏みにじって」
「冗談だと思ったんだもん! 告白するならもっとこう、ちゃんとわかりやすく……!」
「そしたら付き合ってくれた?」
「え」

それは。口ごもった私を見て、五条はにんまりと唇を持ち上げる。よくない予感がした。この男は他人が困っているところをさらに引っ掻き回すのが大好きなのだ。昔から。

「――じゃあ、やり直そっか」

長い指をアイマスクに引っ掛けて、勿体ぶった仕草でゆっくりと引き下ろす。五条の顔なんて飽きるくらい見てきたはずなのに、澄んだ冬晴れの空のような青い瞳が現れた瞬間、かつてないほど心臓が跳ねた。いや待って待って、待って。

「僕の恋人になってよ。ナマエ」

一音一音、はっきりと刻み込むような声で五条は言った。同じ場所、同じ季節、同じ二人。あの頃と何も変わらないはずなのに、何かが決定的に違う。あのときの五条は、こんなにもまっすぐに私を見なかった。

「……む、むり、むりむりむり!」

やっとのことで絞り出した声が裏返りそうになる。だってこんな、雰囲気もへったくれもない街の中華食堂で、五条の誕生日に、恋人に振られたその日に。訳がわからない。

「は? なんで」
「なんでって……そもそも五条って私のこと好きだったの……?」
「さっきからそう言ってるつもりなんだけど。お前だって僕のこと嫌いじゃないでしょ」
「嫌いじゃないけど、そういう問題じゃ」
「じゃあどういう問題? お前もこうして晴れて自由の身になったわけだし、なんの問題もなくない?」
「自由の身て」
「ねえ、何が問題なの」

五条はむうっと唇を尖らせて私の顔を覗き込んだ。そんな駄々っ子みたいな。

「……だって私、別れたばっかだし、それに」

言いかけて口を噤んだ。そうだ、私は今日、振られたばっかりなのだ。五年間の幕引きにしてはひどい台詞だったのかもしれない。でも、少なくとも間違ってはいなかった。むしろ正しすぎるからタチが悪い。そんな私が誰かの可愛い恋人になれるなんて、到底思えなかった。

「……は〜あ。お前ってほんっと頭堅いね」

いつまでも黙っていると、五条は殊更に大きな溜息をついた。かと思えばその大きな手で私の頬を両側から挟み込み、ぐいっと顔を近づけてくる。空色の双眸に自分の間抜けな顔が映って揺れた。これくらいで頬を染めるほど初心ではないという自負はあるけれど、心の中を覗き見られているようでどきりとした。

「あのさあ。お前が可愛げも隙もなくて、なんならそこらの男よりよっぽど強いことなんて、こっちはとっくにぜーんぶ知ってんの」
「そ、そんなはっきり言わなくたっていいじゃん……!」
「それに、お前が一人で生きていけるかとか、そんなのどうでもいいよ。僕は僕の好きなようにお前のそばにいるつもりだし、これまでだってそうしてきたんだから」

はあ僕って健気だなあ泣けてきちゃう、などと涙を拭う仕草をしながら、反対の手はちゃっかりと私の指先を絡め取っている。慌てて引っ込めようとしたら、思い切り力を込められてびくともしなくなった。

「しょ、傷心の女に言い寄るのは、よくないと思います!!」
「えーもう別れたんだからいいじゃん。それに僕、誕生日なんだよ?」
「誕生日関係ない……」
「ずっといい子に待ってたんだからさ、ちょっとくらいご褒美くれてもよくない?」

なんてったって、誕生日なんだし。

手のひら同士を擦り合わせるように、ぎゅっときつく握られる。それに焦って顔を上げて、後悔した。私の知る意地悪な顔も、人を食ったような態度も、そこには微塵もなかった。

「――ね? 早くプレゼント、ちょうだい」

蜂蜜みたいな瞳とチョコレートみたいな声で、五条が言う。困った。さっき食べたラーメンの味も、もう思い出せなくなっている。

おいで、愛してあげる


五条さんお誕生日おめでとうございます!

Title by 誰花