花野にて

あ、地獄って真っ白なんだ。

瞼を開けて一番に思ったのは、そんなことだった。視界いっぱいに広がるまっさらな色が眩しくて、開いたばかりの目をぎゅうと窄める。地獄というのはてっきり、もっと暗くてジメジメしていて、きっと変な匂いなんかもして、とにかく居心地の悪い場所なんだと思っていた。なんだよ地獄、案外悪くないじゃん。

妙に感心した気持ちで、視線だけを巡らせて周りを窺う。半分開いた大きな窓があった。あれ、地下じゃないんだ。金木犀の香りを連れた風が、レースのカーテンをふわりと揺らして通り過ぎる。その向こうに広がるのは、誰かの瞳によく似た、鮮やかな青だった。

ああ、そっか、ここは。

「……なあんだ。ここ、天国だったんだ」

呟いたとき、不意に頭上から影が差した。この気配を私はよく知っている。胸を焦がすような、泣きたくなるような切なさがせり上がってきて、鼻の奥がツンとした。あの青空と同じ色の双眸が、私を見下ろしていた。

「――ブッブー。残念ながら、天国なんていいもんじゃないよ」

夢か幻のように美しく造られた唇で、五条はにやりと笑った。そうか地獄でも天国でもないのか。ということは。

「……もしかして私、生きてる?」
「僕にはそう見えるけど」
「そっかあ」
「そうだよ」

短い返事を聞いて、ようやっと私は自分の存在をじわじわと実感し始めた。横たわったまま両手をゆるく結んで、開く。……そっか、生きてるんだ。そっか。

結構な無茶をした自覚はあった。呪術師なんてものは万年人材不足で、誰も彼もがちょっとずつ無理をしてなんとか仕事を回している。常に火の車ってやつなのだ。そのちょっとだけの無理を、二つか三つ、あるいは四つ積み重ねたのが、今回の任務だった。呪霊の長い爪に体を貫かれ、地面に転がったところまでは覚えている。それで、次に目を開けたらこの有様だ。天井や壁の白さもベッドの硬さも高専の医務室とは違うから、たぶんどこか大きな病院に運び込まれたんだろう。

「ハイ、お見舞い」

五条は普段通りの軽い調子で言って、その手に抱えていたものをそっと私の胸の上に降ろした。鼻先で淡い色の花びらがいくつも揺れる。瑞々しく生気に溢れたその香りをいっぱいに吸い込むと、干からびた肺が少しずつ形を取り戻していくのがわかった。

「……めずらし。五条がお花くれるなんて」
「最愛の恋人に初めて贈るのが墓前に供える花束なんて、シャレになんないでしょ」

茶化すような口振りと裏腹に、彼はひどく繊細な手つきで私の頬に触れた。それがあんまり優しい仕草だったから、くすぐったくて目を細める。白い指先から滲む体温が私を内から温め直し、もう一度この体に生命を吹き込んでくれるような、そんな気がした。

「私、どれくらい眠ってた?」
「丸三日かな」
「うわあ……」
「うわあじゃないよ。硝子が呆れてたよ、『これでよく生きてたもんだ』ってさ」
「硝子ちゃん、来てくれてたんだ」
「じゃなかったらお前、今頃ほんとに地獄行きだよ」

出張料金、あとで請求するって。くつくつと喉を鳴らしながら、五条は相変わらず私の頬を撫で続ける。猫にでもなった気分だった。

「ほんと無茶するよねえ」
「今回はちょっと頑張りすぎた」
「反省しろよ」
「……ごめん」
「ダメ。許さない」

ダメって、子供じゃあるまいし。思わず緩ませた唇に、温かい感触が降ってくる。「え、ちょっと待って鼻詰まってるから」「黙って」「ご、」遮る言葉は、空気に溶ける前に飲み込まれて消えた。

五条は何かを確かめるように、あるいは見えない空白を埋めるように、何度も何度も深く私に口付けた。胸元で押し潰された花束がくしゃりと音を立てる。ああもったいない、初めてもらった記念すべきお花なのに。写真撮って硝子ちゃんに送りつけないといけないのに。ぼうっとする頭の隅で考えているうち、いよいよ息が続かなくなってくる。抗議の意を込めて軽く舌先を噛んでやったら、それでようやく彼は顔を上げた。病み上がりになんてことするんだ。

「……あの、さあ、ここ病院だよね」
「興奮しちゃった?」
「しないよ変態」

五条はやけに透き通った目で私を見ていた。なんだかたまらなくなって、胸の上の花束に視線を逸らす。可憐に咲き誇る花の色は、五条の瞳に似ていた。いつか、私たちがまだ青臭い少年少女だった頃に、私が好きだと言った花だ。

「……生きてるなあ、と思ってさ」

ぽつりと零された言葉が、胸の奥の柔らかいところを的確に締め付ける。初めて手を繋いだときよりもゆっくりと、五条は私の手を取って、指を絡めた。たったそれだけで私は胸が詰まって、言葉が出てこなくなる。

この仕事をしていたら、死に方なんて選べない。だから毎日、いつ終わりが来ても後悔しないくらいには思いっきり生きてきたつもりだった。食べたいものは食べたいだけ食べて、漫画の新刊は発売日に読んで、高いお洋服やコスメも、気に入ったら躊躇せずに買った。何より、これは本当に奇跡としか言いようがないのだけれど、こうして大好きな人の恋人にだってなれた。だから私の人生、思い残すことなんて何ひとつないはすだった。

なのに、いざその瞬間を迎えたとき、思ってしまったのだ。もう五条に会えないんだ。あの綺麗な目を見つめて、大きな喉仏にキスをして、私より少しだけ体温の高い皮膚に触れて、名前を呼んで、そんなことももうできないんだということが、ただただ恐ろしかった。

「……地獄付近までは行ったんだけどね、五条に会いたくなって、帰ってきちゃった」
「……お前、僕のこと大好きだもんね」
「そうだよ大好きだから」
「やけに素直じゃん」
「だってほんとのことだもん」

昔から、何にも囚われず、まっすぐに進んでいく背中が好きだった。くだらないことばかり喋って、大事なところはちっとも教えてくれない唇が好きだった。いつも私の髪を乱す大きな手が、意地悪な眼差しが、子供みたいにはしゃぐ声が、たまらなく好きだった。

——だから、そんな泣きそうな顔、しないでよ。

「ねえ五条、天国でも地獄でもね、」

青い瞳が揺れる。私は一生懸命に手を伸ばしてその眦に触れた。身体中が軋んで、痛い痛いと悲鳴を上げているようだった。それもまた、生きていることの証だった。

「どこに行っても、心臓だけになっても私、きっと五条のところに帰ってくるからね」

ゆっくりと、言い聞かせるように囁いた私に、五条は僅かに目を見開いた。それから私の手にそうっと自分のそれを重ねて、小さく笑った。

「……は、すっごい殺し文句」
「なんせ最愛の恋人ですから」
「それ自分で言う?」
「だって五条も私のこと大好きでしょう」
「え?」
「え!」
「冗談だって」

きっと私は、五条より先にこの世から消えて無くなるだろう。彼だってそれをよくわかっている。わかっていて、『行くな』も『死ぬな』も言わないのだ。この人のそういうところがひたすらに切なくて、愛おしい。

「お前がちゃんと元気になったら、飽きるくらい教えてあげる」
「やだ。いますぐ言って」
「えー? ……しょうがないなあ」

耳元で甘く囁かれた言葉に、そっと目を閉じる。まるで見計らったかのように唇に柔らかな温度が触れた。なんでもいい。なんでもいいから、いつか私がこの世を去るとき、彼のために残せるものが、たったひとつだって、あったらいいのになあ。

「――なんか難しいこと考えてるみたいだけどさ」

私の頬を伝った雫を、乾いた指先が掬い取る。呪霊をボッコボコにするためだけに造られたみたいな骨張った手で、不意にそうやってちぐはぐな優しさをよこしてくるから、この男は本当にずるい。

「お前が心臓だけになっちゃう前に、今度はこっちから迎えに行くよ」

だから、ちゃんと地獄の手前で待っててよね。

そう言って不敵に微笑むから、私はもう泣きながら笑うしかなかった。返す言葉も見つからない。ほんとに迎えに来そうで困るよ。最強で、最愛の、私の恋人。

花野にて


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