恋にリボンを掛けないで

※高専時代

 

 

 

「――夏油くん助けて!!」
「うん?」

教室に駆け込むなり叫ぶように言い放った私を、夏油くんはのんびりと仰ぎ見た。壁に掛かった古びた時計が、あと少しで午後の始業時刻を告げるところだった。優等生然として席についている彼だけれど、このあと教科書代わりに開くのは漫画本だということを私は知っている。このクラスで真面目に座学を受けるのなんて私くらいのものだ。なのに成績はいつも最下位。齢十六にして、私はこの世の不条理というものを思い知った。が、いまはそんなことどうでもいい。

「どうしたのナマエ」
「ご、五条くんに追われてる……!!」
「鬼ごっこにしては穏やかじゃないね」

教卓の陰に逃げ込んで顔だけを出した私を見、夏油くんはおかしそうに肩を揺らした。机の上で頬杖をつき、小首を傾げてみせる仕草はなんともあだっぽい。一房だけ残された前髪がはらりと頬にかかるのさえ、計算し尽くされているようだった。

「それで? どうして追われてるんだい?」
「わ、わかんない……」
「さっき仲良く昼ごはんに出かけてたじゃないか」

そうなのだ。午前の授業が終わってすぐ、私は五条くんに誘われて、一緒にお昼を食べに出かけた。別に珍しいことじゃない。いつもは私は硝子ちゃんと、五条くんは夏油くんと食べているけれど、たまに気まぐれのように五条くんが私を誘ってくることがあった。天気がいいからとか、甘いものが食べたいからとか、夏油くんの顔を見飽きたからとか理由はいろいろで、だいたいは適当だ。

今日もそうやって、さっぱりと晴れた空の下、高専内の手頃な石段に二人並んで腰掛けて、購買で買ったパンを食べた。五条くんは巨大な焼きそばパンとコロッケパンを平らげた後、足りないと言ってさらにカップ麺を買ってきた。私がたまごサンドを一パック食べきるまでの間にだ。

『よく食べるねえ』
『成長期』
『まだ大きくなるの』
『ナマエくらいならそのうち踏み潰せるかもなー』
『ええ……』

そしてジュースを飲みながら、課題のプリントが終わらないだの、新しい補助監督さんがどうだのという他愛もない話をした。そんな平和なランチタイムだったはずだ。それなのに。

『あのさあ』

そろそろ教室に戻ろうと、立ち上がってスカートのお尻をはたいたところだった。五条くんは見たこともない真剣な顔で、それはまるで一片の絵画のように美しかったのだけれど、とにかく、一心に私を見つめていた。

『――付き合う? 俺たち』

時が止まったかと思った。
魔法にかかったみたいに、私は一歩も動けなくなった。息を呑んだまま呼吸もできなくなってしまって、そのうち心臓がどくんどくんと大きく狂い始め、その音があんまりうるさくて、鼓膜が破けるんじゃないかと心配になったくらいだ。

『……なんか言えよ』

黙りこくった私に向かって、五条くんが躊躇いがちに手を伸ばした。あ、と思った瞬間、弾かれたように私は逃げ出していた。どうしてなのかわからない。体が勝手にそう動いてしまった。午後のおやつ用に取っておいたドーナツも、お財布も、ぜんぶ放り出してきた。頭の中はただただ真っ白だった。五条くんがどうして急にあんな顔をするのか、私はどうしたらよかったのか、わからなかった。何も。

「……わかんないよ……」

床にぺたんと座り込んで、スカートの裾を握りしめる。今頃きっと私を探し回っている五条くんのことを考えたら、胸がざわざわと波立った。付き合うって、どういう意味だろう。五条くんは仲良しのクラスメイトで、友達で、それ以外に名前をつけるなんて、考えたこともなかった。

「……夏油くん。五条くんてさ、」
「うん」
「わ、わた……わた……」
「綿?」

すっとぼけた返事をしながら、夏油くんは意地悪く目を細めた。訊けるわけがない。『五条くんて私のこと好きだったの?』なんて、口に出すのさえ憚られた。自意識過剰、とんだ自惚れだ。座学も実戦もダメダメな、〝平凡〟を辞書で引いたら真っ先に名前が書いてあるような、地味な女なのだ私は。間違っても五条くんから好かれるような特別な存在じゃない。だってほら、組手ではいっつも転がされてるし、任務じゃ絶対に五条くんより前に行かせてもらえないし、『一口ちょうだい』を信じて渡したあんパンは半分以上食べられちゃうし。あれ、もしかして私って嫌われてるんじゃ。だったら、だったらどうして、あんなこと。

「あ、あんな顔、はじめて見た」
「へえ、どんな」
「ちょっと怒ってるみたいな、真剣な、こわい顔……」
「あっはは」

夏油くんは大きな声を上げて笑った。笑い事じゃないよ。夏油くんは私と五条くんがどうなってもいいっていうの。じとりと睨んでやっても、夏油くんはにやついた顔でこちらを見てくるだけだ。見た目は全然似てないくせに、そういうところは誰かさんとそっくりで、ほとほと嫌になる。

「どうなってもって、例えば?」
「た、」

……たとえば。例えばだよ。このまま、前みたいに仲良くおしゃべりできなくなっちゃったりとか。お昼も一緒に食べれなくなっちゃったりとか。隣り合わせの机も離さなきゃいけなくなっちゃったり、とか。指折り数えてみたら胸がきりきりと痛くなって、それ以上は考えるのをやめた。

「ナマエは面白いことを言うなあ」
「だからっ、笑ってる場合じゃないんだってばー!」
「どうなるかは本人で試してごらんよ」

切長の目が滑るように動いて、教室の扉の上でぴたりと止まった。まさか。嫌な予感がして反射的に身を縮める。乱暴な音を立てて引き戸が開け放たれたのは、その直後だった。

「ナマエ、」

私を呼んだのは、五条くんの声だった。走ってきたのか、少しだけ息が上がっている。その掠れた低い声音を聞いただけで、一度は落ち着いたはずの鼓動が一気に速くなった。

「随分遅かったじゃないか悟。女性を待たせるのはいけないな」
「いま忙しいから説教は後にして」
「先生には適当に言っておくよ」
「……頼むわ」

……夏油くん、きみという人は!
私は絶望した。信じてたとまではいかないけれど、知らんぷりくらいはしてくれると思ったのに!

半べその私をよそに、足音はつかつかとまっすぐにこちらへ向かってくる。やばい。吐きそう。手のひらで口元を押さえた私の上に、大きな影が差した。万事休す。恐る恐る顔を上げれば、不機嫌そうに細められた青い瞳が、こちらを覗き込んでいた。

「見えてんだよばーか」

――そして、私は教室を飛び出した。

風の速さで廊下を走り抜け、階段を転がるように駆け下り、靴下のまま校舎の外へまろび出る。壊れた機関車みたいに、止まれなかった。
おかしい。私、おかしくなっちゃったんだ。ついさっきまで、隣に座っても平気だったはずなのに。目が合っただけで居ても立ってもいられなくなるなんて、そんなの変だ。
いつ五条くんが追いついてくるかと思うと、後ろを振り向くこともできなかった。ただひたすらに走って走って、胸が苦しくなってお腹が痛くなっても走り続けた。そうしていくつ目かもわからない角を曲がった、瞬間。

「ぅわ……っ!?」

突如現れた障害物にぶつかって、私の逃走劇は呆気なく幕を閉じた。信じがたい長さの脚を片方、通せんぼをするみたいに壁に突っかけて、五条くんが立っていた。

「つーかまーえた」

その場にへたり込んだ私を、五条くんはにっこりと笑って見下ろした。お、怒ってる。これは間違いなくはちゃめちゃに怒っている。

「ご、ご、ごじょくん、あの、」
「お前、足速すぎ。普段手ェ抜いてんだろ」
「そん、そのようなことは……!」
「なにビビってんの」
「ひえっ……」

思わず頭を抱えた。どんな罵詈雑言が降ってくるかと覚悟したけれど、五条くんはなかなか口を開かない。代わりにその長ったらしい脚を邪魔そうに折り畳んで、私の前にすとんとしゃがみ込んだ。同じ高さで目を合わされたらもう、何も言葉が出てこなかった。じっと見つめられたところから火がつきそうなくらい、頬が熱い。

「……逃げるなよ」

わりと傷つくんだけど。五条くんは少し尖らせた唇で、拗ねたように言う。どうしよう。ただでさえ胸がはち切れそうなのに、そろりと指先を握られて、どうにかなってしまいそうだ。

「そんなに嫌だった?」
「ちが、ちがくて、」
「……俺はさ、好きだよ、ナマエのこと」

やめてほしかった。いつも小学生みたいに馬鹿騒ぎしているくせに、急に優しい顔するんだもん。そんなの、そんなのってずるいよ。

「だから、あー、…………付き合って、クダ、サイ」

消え入りそうな声で言ってそっぽを向いた五条くんは、それでも私の手を離さなかった。慣れない敬語なんか使うもんじゃないよ。ほら、おかしくって涙が出てきた。

恋にリボンを掛けないで


いい感じだと思ってたのに逃げられてショックな五条くんと、無自覚に恋していた同級生と、カウンセラー夏油。

Title by 誰花