おとなりのうちゅうじん

※一般人夢主

 

 

 

それは蒸し暑い真夏の夜半、コンビニへ買い物に行った帰り道のことだった。家までの僅かな距離も我慢できず、私はアイスを齧りながらのろのろと歩いていた。夏はパイン味に限るよね、なんて常夏の南の島みたいにハッピーな思考をしていたのをよく覚えている。そんな私の頭の中身に負けず劣らず暢気なメロディーが聞こえてきたのは、ちょうどそのときだったのだ。

ふんふんと軽妙な鼻歌を響かせながら、その人は颯爽と私を追い抜いて行った。高級アイスがこれでもかと詰まったコンビニ袋のシルエットもさることながら、上から下まで真っ黒な服装と、真冬のゲレンデかと思うほどきらきら輝く白銀の髪とのコントラストがあまりにも眩しくて、私は思わず足を止めた。そして二度見した。彫刻じみて美しい輪郭をしたその顔の半分が、分厚いアイマスクに覆い隠されていたからだ。

怪しい。怪しすぎる。私がパトロール中のおまわりさんだったとして、職務質問をかけるのも躊躇うレベルの怪しさだ。だってこんなにも『私は怪しい者ですよ』って全身から主張してるんだもの。何かの罠に決まっている。

ぼけっと突っ立っている路端のちんちくりんになど目もくれず、彼は踊るようなステップでとあるマンションのエントランスへと消えて行った。

……待って。そこ、私も住んでるんですけど。

おとなりのうちゅうじん

隣の部屋に変な人が住んでいる。

変とは言っても、別に猟奇的だとかそういう危ない感じではない。ただ単に髪が真っ白で、めちゃくちゃ背が高くて、嘘みたいに脚が長くて――これは別に変じゃないか――そして、いつも真っ黒なアイマスク、もしくは透過性ゼロのサングラスをつけている。それでいてまるですべて見えているかのように軽やかに歩くものだから、実は外国のサーカス団の人なんじゃないかと疑ったこともある。だって見た目からして日本人離れしているし。

今日も今日とて物音ひとつしない隣の部屋を横目に、自分の家の鍵を回した。彼がこのドアから出入りする姿は一度も見たことがなかった。日本人離れ云々の前に、人間ですらなかったりして。そんな突飛な考えを巡らせながら、自室のドアを開け放つ。そして目の前に現れたのがもっと荒唐無稽な光景だったから、私は玄関に立ったまま頭を抱えたくなった。

「あ、ナマエちゃんおかえりー。今日は遅かったね、残業?」
「五条さん!! 勝手に入らないでって何回言えばわかるんですか!!」
「だってベランダの窓開いてたんだもん」
「開いてたから何」
「不審者が入ってきたら危ないでしょ? だからお留守番しといてあげた」
「もう入ってきてるんですけど」
「えっウソどこどこ?」

私のお気に入りのソファを占拠して、お気に入りのクッションを抱きしめて、お気に入りのマグカップで勝手にコーヒーを淹れて飲んでいるこの男。どこに出しても恥ずかしい立派な不審者である。

この変な隣人は、名を五条悟さんと言った。歳は私より二つか三つ上で、教師をしているらしい。どれも本当かどうか怪しいものだ。だいたいこんなアンポンタンみたいな人に教職など務まるわけがない。
しかしどれだけ嘘をつくなと詰ったところで、返ってくるのは「嘘じゃないもん!」などという年甲斐もない台詞と、ぶりっこ女子も真っ青のあざとい顔だけなのである。もう何も訊くまいと心に決めて久しい。

「どう? 疲れて帰ってきたらイケメンが待ってるこの生活。最高じゃない?」
「控えめに言ってお引き取りください」

ただし正規のルートから。玄関を指さす私を見上げて、五条さんはアハハと阿呆みたいに笑った。

ついひと月前まで顔も名前も知らなかった彼が、なぜこうして私の部屋に不法侵入してくるに至ったか。それは一枚のタオルから始まった。

『は、はろー……あの……ま、マイ、タオル、フライアウェイ……』
『……ぶっ』

よく晴れた、風の強い日だった。

タオルを取り戻したいだけだったのだ。ベランダで洗濯物を取り込んでいた私の手からふわりと舞い上がり、あろうことかお隣のベランダに着地してしまった、お転婆なフェイスタオルを。
そのために意を決してインターホンを鳴らした私の前に現れたのは、あの怪しい黒ずくめの男だった。特徴的なアイマスクの代わりに真っ黒なサングラスをかけて、それはそれでガラが悪いわけだが、その奥からは目を瞠るほど澄み切った青い瞳が一対、愉快そうに私を見ていた。

『ブフッ……何それ英語?』
『え』
『ああタオルねタオル。はいどーぞ』
『あの、え?』
『僕、生粋の日本人なんで』

それともお隣のお兄さんがこんなに格好良くてびっくりしちゃったのかな? あんぐりと口を開けた私に彼は臆面もなく言い放ち、おかしくて仕方ないといった様子で肩を震わせて笑った。あ、これは相当に性格がアレな御方なのだなと一発で分かる、ひねくれた笑い方だった。

私はすぐさまタオルを受け取り、極めて丁重にお礼を述べてその場を辞した。明らかにヤバそうな男が隣人であることに些かの恐怖心は覚えながらも、とはいえ都心の賃貸マンションでは深く関わる機会もないだろうと甘く考えていたのだ。その結果がこの有様である。

「ベランダから入ってくるとかほんとにサーカス団ですか?」
「サーカス? なんの話?」
「だいたい女性の部屋に不法侵入なんて、いつ通報されてもおかしくな……あっ、ちょっ、ねえそのプリン食べないでお願い後生ですから」

五条さんは事あるごとに私の部屋への侵入を繰り返していた。この人が何食わぬ顔でうちのベランダに立っているのを初めて見たときは、さすがの私も腰を抜かした。いろんな意味で。まずもってここ七階ですし。

本当なら、普通の感覚を持った人間なら、問答無用で警察に突き出していたと思う。けれども残念ながら私はとっくのとうにそんな感覚を失っている。だからこの人が繰り広げる突拍子もない言動の数々に対して、表面的には尤もらしく文句を言いながらも、まあこっちに危害を加えるつもりじゃないならいいか、なんてすんなりと受け入れてしまえるのだ。

「……ベランダの鍵、また開いてました?」

つとめて平静を装ったせいか、必要以上に無機質な声が出た。五条さんはさして気にも留めない様子で、私が大事にとっておいたプリンの最後のひと匙を綺麗に舐めとってから、なんてことはない口振りで答える。

「うん。開いてたね」
「……そうですか」

視界の隅で、白いレースのカーテンが揺れる。窓も開いていないのに。それを黙って見つめていると、足元のゴミ箱からカコンと小気味良い音がした。空っぽのブリキの缶の底で、五条さんに食い散らかされたプリンの亡骸が哀れな姿を晒している。再び顔を上げたときには、もうカーテンは動きを止めていた。

「どうかした?」
「いえ。……今度こそ戸締り忘れないようにします。近頃、一人暮らしの女性の家に勝手に上がり込む不埒な輩がいるらしいので」
「怖いねー」

 

自分は人と少し違うのかもしれないと気がついたのは、五歳かそこらのときだったと思う。おばけ、幽霊、この世ならざるもの、呼び方はなんでもいいけれど、とにかくそういった“見えてはいけないはずのもの”が、どういうわけか私には見えていた。窓の外に細長い犬がいる、と告げたときの母親の不思議そうな顔を見て、「ああこれは言っちゃだめなやつなんだ」と幼心に刻んだ記憶は、いまだ胸の奥にもやもやと影を落としている。

この世は不可思議な現象で溢れていて、私たちは日々それらのすぐ隣を生きている。実際に知覚できるかどうかに多少の個人差があるというだけなのだ。見えることが幸か不幸かはわからないけれど、私はずっと世界の裏側を覗き見るような気持ちでそれらを眺めて暮らしてきた。
だから、出かける前に何回も確認したはずのベランダの鍵がいつの間にか開いていることも、そこから怪しい男が勝手に出入りしていることも、あるいはカーテンの裏に異様な輪郭の小動物みたいなものが見え隠れしていることも、私にとってはさしたる問題ではなかった。命にさえ関わらなければ。

――例えば、いまみたいに。

(あ、死んだかも)

真夜中に息苦しさで目を覚まし、一番に思ったのはそれだった。私の腹の上にどっかり腰を据え、ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべてこちらを見下ろしているのは、昼間、カーテンの裏にちらりと見えた小動物のような何か、が、巨大化したものだった。蔓みたいに伸びた腕が私の首をぎゅうぎゅうと締め上げてくる。悪夢。悪夢だ。これが決して夢などではないという事実、それ自体が。

ああこんなことなら、せめてあのプリンを食べておきたかった。この期に及んで、私の頭の中の大半を占めるのはそんな思いだった。五条悟、死んだら呪ってやるからな。徐々に霞んでゆく視界の隅で、美しく光る白銀が揺れる。最期に思い浮かぶのがよりによってこの人の姿だなんて、私はよっぽどプリンに執着しているらしい。食べ物の恨みって怖いなあ。まるで他人事のように取り留めもないことばかりを考えながら、いよいよ重くなってきた瞼を閉じようとしたときだった。

ぶわ、と強い風が吹いた。次の瞬間、私を押さえつけていた巨体は塵になって消えていた。ぱち、ぱち、ぱち。ゆっくりと三回、まばたきをする。捲れ上がったカーテンの合間から薄く月の光が射して、ベッドの脇に立つその人の青い瞳を浮かび上がらせる。こいつまたベランダから入ってきたよ。

「ナマエちゃん生きてるー?」
「……みたいです」
「そりゃあ何より」

いまだ起き上がれずにいる私の顔を覗き込むように背中を丸めて、五条さんはケタケタと笑った。こっちは死にかけたのに何を笑っとるんだと文句をつけたかったのだが、目が合った途端、私は何も言えなくなってしまった。ゆるく細められた彼の双眸は底が知れないほどに深く澄んで、内から淡い光を放っているようにすら見えた。この世ならざるもの、という言葉が脳裏をよぎった。

「だから言ったでしょ? 不審者が入ってきたら危ないって」
「不審とかいうレベルでは……ていうか五条さんほんと何者……?」
「まあ平たく言えば、ああいうのをぶっ殺、……やっつけるのが僕のお仕事」
「やっぱ教師じゃなかった」
「後進育成も兼ねてんの」

つまりああいうのをぶっ殺す人が五条さん以外にも複数いて、しかもこの人は彼らを指導する立場にあるということか。本当に、この世は不可思議なことばっかりだ。

「さてナマエちゃん。これからどうする?」
「どうするって、」
「君みたいに見える子はさあ、それだけで憑かれやすかったりもするんだよね」
「……」
「一人でやってく自信ある?」

黙りこくった私に、五条さんは嫌味なほど整ったその唇をにんまりと持ち上げる。

「そこでひとつ提案なんだけど」
「却下で」
「人の話は最後まで聞こうね」

誇らしげにぴんと立った長い人差し指が一本、目の前に突きつけられる。その向こうに五条さんの顔を仰ぎ見ながら、きっとこれはろくでもないことになると確信めいた予感を抱いた。

「転職、興味ない?」
「え」
「強力な結界で防犯バッチリ、食堂付きの寮完備、女性も活躍するアットホームな職場です」

悪くないでしょ? なんて訊いてくる割に、私が断る可能性など微塵も感じていないようだ。本当にろくでもない。アットホームを売り文句にする職場が実際にアットホームであったことなど、人類史において一度たりともないのだ。けれどもそれ以上にろくでもないのは、そんなぶっ飛んだ提案を「悪くないな」と思ってしまう、私のこのイカれた頭だ。

 

 

 


お隣さんにスカウトされて高専職員に転職する話。

Title by 天文学