今世紀最大のやさしさですよ

※高専時代

 

 

五条くんは具合が悪いらしい。

「あーだっるー」

談話室の一番大きなソファに仰向けに寝転んで、彼はずいぶんと間延びした声を漏らした。三人掛けの座席を占拠してなお余りある長い脚を床に投げ出し、はあ、と物憂げな溜息をつく。

「疲れてんのかなー」
「…………」
「最近ずっと任務忙しかったからなー」
「…………」
「もしかして風邪ひいちゃったかもなあー!」

一際大きな独り言が聞こえたところで、私は仕方なしにテレビを一時停止した。さっきから後頭部にびしばしと視線を感じる。楽しみに録画しておいた映画のクライマックスだというのに、これじゃあちっとも集中できない。恨めしさを込めて振り返れば、五条くんはソファの上でごろんと体を反転させてこちらに向き直った。パンダみたいだな。

「五条くんでも風邪ひくことあるの」
「ナマエさん俺のことなんだと思ってんの?」
「……クソガキ?」
「あ?」
「嘘です睨まないでください」

一瞬にして二回りは低くなった声に身を竦める。急に物騒な顔をしないでもらいたい。私をなんだと思ってるんだ。先輩ですよ先輩。
言いたいことはたくさんあったけれど、ぐっと飲み込んで重い腰を上げた。私は心の広い女なので、生意気な後輩の失言くらいではそうそう腹を立てないのである。

「具合悪いなら自分の部屋で寝たら?」

ソファの脇に立った私を見上げて、けぶるような睫毛がふわりと持ち上がる。サングラスを取り払った青い瞳は、びっくりするほど清く澄んでいた。こういう目をするから、私はどうにもこの子のことを憎めない。

「……動くのめんどくせー」
「じゃあ私が部屋戻るから、ゆっくりしてなよ」

あとで毛布を持ってきてあげようと密かに思う私、いい先輩だな。自画自賛しながら踵を返したとき、しかし予想外に強い力で手首を掴まれて、私は足を止めた。もちろん犯人は五条くんである。彼はツヤツヤの唇をこれでもかとへの字に曲げて、たいそう不満げな眼差しで私を見ていた。いまにもその白い頬をぷうと膨らませそうだ。

「もっと優しくしろよ」
「ええ……? だってあんまり具合悪そうに見えないし」
「はあ? こんなにしんどそうにしてんのに? その目は節穴か?」
「ほら元気じゃん」
「元気じゃねーよ」

チッと柄の悪い音が鳴る。病人はそんなに威勢よく舌打ちしないんだよ。私の呆れた視線もまったく意に介さない五条くんは、今度は白銀の前髪をぺらりとめくってこちらへ向けてきた。まずソファから起きなさいよ。

「ねえほら熱あるかも。ちょっと触ってみて」
「じゃあ体温計持ってくるから」
「無理早くいますぐ測ってくれないと死ぬ」
「……しょうがないなあ」

なんだか子供みたいに切実な声で言うから、私はもう観念するしかなかった。幼児とか子犬とか、小さくて可愛いものに私は弱いのだ。五条くんは全然小さくないけど。とはいえ、万年末端冷え性の永久凍土みたいな私の手では、果たして正しく測定できるかわからない。少し考えた末、私は彼と同じく自分の前髪を持ち上げて、その陶器のように滑らかな額にこつんとおでこをくっつけた。

「――は?」

素っ頓狂な声を上げて、五条くんはこぼれ落ちそうなほどまんまるく目を見開いた。間近で見ると本当に、空の一番高いところを取ってきて注ぎ込んだみたいに綺麗な青だ。思わずほうっと溜息が出そうになって、慌てて口を噤む。そうそう熱、熱は。

「んー……んん?」

額から伝わってくるのは、私と同じくらいのぬるい体温だけだ。なあんだやっぱり熱なんかないよ。そう言って、離れようとしたときだった。
急に腕を強く引かれたかと思うと、次の瞬間には視界がぐるんと回って、私はソファに転がっていた。目の前には、端整な眉をぎゅっと顰めた五条くんの顔がある。呆気ないほど一瞬の出来事だった。

「……ナマエさんさあ、さすがに油断しすぎ」

低い声で言って、五条くんはソファに縫いつけた私の手首をなおもきつく握り締めた。これはとても具合の悪い人の握力じゃないですね。

「け、仮病だ! 嘘つき! 詐欺師!」
「こんな簡単に捕まっちゃって、呪術師やっていけんの。心配になるんだけど」
「余計なお世話……っ!」

反論は途中から言葉にならなかった。五条くんの長い指が、頬をするりと撫でた。たったそれだけで私は、全身が痺れたみたいに動けなくなってしまったのだ。こんな、壊れ物に触るみたいな優しい仕草が五条悟にできたのか。さっきまでただの駄々っ子だったくせに。

「……顔真っ赤。熱あるんじゃねーの」

囁く吐息が唇を掠めて、息が止まった。私が彼にしたみたいに、けれども今度は明らかに違う意図を持って、五条くんは額を私のそれにぴたりとくっつけた。熱いのはどちらのほうだろう。空色の瞳に映る私は、我ながら可哀想になるくらい狼狽えている。なけなしの先輩の威厳、どこへ。

「……なあ、十秒だけ待つからさ。いますぐ逃げるか、このままキスされるか、ナマエが決めて」
「キ……!?」

ひどい横暴だ。いたいけな女子を組み敷いておいて言う台詞じゃない。冷え切った指先を温めるようにやんわりと握られて、眩暈がしそうだった。

「――それ以上は、譲ってやらない」

睫毛の先まで見える距離で、五条くんがゆっくりと目を細める。十秒なんてそんな優しさ、ないほうがまだましだったよ。

今世紀最大のやさしさですよ


構ってほしい五条くんと、知らぬ間に絆されていく先輩。
企画「彗星図鑑とタルトタタン」様に参加させていただきました!