インナー・サマーブルー

※原作の数年前くらい

 

 

 

肺の中身をすべて押し出すように、大きく息を吐いた。今夏の新作リップの隙間から薄灰色の煙がもわりと溢れ出す。真っ青な空に立ち昇って溶けていくそれをぼんやり見送って、私は再び煙草の吸口に唇を寄せた。

古い校舎の屋上を吹き抜ける風は熱を孕んでいる。耳が潰れそうなほどの蝉の大合唱と相まって、寝不足の体から残り少ないエネルギーを根こそぎ奪っていくようだった。これだから山奥は嫌だ。呪術師なんか辞めて丸の内OLにでもなろうかな。OLってもう死語か?

だらだらと思考を巡らせながら、また煙を吸って、吐く。転職を考えるのは初めてではない。二徹三徹は当たり前、休日無視の二十四時間・三百六十五日営業。労基法など知ったことかと言わんばかりの劣悪な労働環境である。おまけにいつ死んでもおかしくないときた。先輩の言葉を借りれば正しく“クソ”だ。

任務の後には決まって悪い夢を見る。昨夜もそうだった。眠れない夜を埋めるために手を出した煙草は、いつしか癖になってしまった。日が昇る頃にベッドに入りながらいつも、今度こそ呪術などとはきっぱり縁を切ってやろうと思う。思うのに、気がつけば卒業して幾度目かの夏をまたここで迎えようとしていた。

「いーけないんだー、こんなとこでサボって」

歌うような声がした。淡い気配とともに後ろに立ったその人が誰なのか、振り返らなくてもわかった。軽薄で、それでいて体の芯に打ちつけるような、低い音色。僅かに鼓動を速める心臓は無視して、空を見つめたまま答える。

「サボってません。休憩です」
「ここ禁煙だよ?」
「……知りませんでした」
「うんだっていま決めたもん」

携帯灰皿に煙草を押し付けた私を見て、五条さんはけらけらと笑った。まだ半分も吸ってなかったのに。抗議を込めた視線にもまるで悪びれる様子はなく、私のすぐ隣にやってきてフェンスにもたれかかる。私はひとつ息をついて、半歩分の距離を取った。この人のパーソナルスペースは異様に狭い。

「……五条さんこそ、こんなところで何してるんです?」
「伊地知とかくれんぼしてたらお前が見えたから、来ちゃった」
「面白半分で伊地知くんの胃を痛めつけるのやめてくださいよ」

にっこりと満足げな五条さんの顔を見る限り、どうせかくれんぼなんて可愛いものではないのだろう。ただでさえ線の細い同期の男の、途方に暮れた背中が目に浮かぶ。戻ったら少し仕事を手伝ってあげよう。

「ていうかお前、まだ煙草吸ってたの?」

五条さんの言葉で、半ば無意識のうちに次の煙草を取り出そうとしていた手を止めた。最近、本数が増えたと家入さんに指摘されたことを思い出す。自分だって大概だろうと思いながら、事実なので否定はできなかった。

「……禁煙するなんて一言も言ってませんけど」
「まーたそうやって可愛くないこと言うー」
「可愛くなくて結構です」
「学生の頃は初々しかったのに、こんなにスレちゃってまあ」
「私も大人になったんですよ」

『可愛くない』。たった一言で潰れそうになるこの胸が忌々しい。けれどもそれを気取られないように振る舞えるくらいには、大人になったつもりだ。この人の目にもそう映っていることを願う。汗ひとつ浮かべない真っ白な喉元を盗み見て、私はまた小さく息をついた。

――手の届かない相手であることは、最初からわかっていた。なのに、どうして惹かれてしまったのだろう。

不敵に閃く青い瞳だとか、少し背中を丸めて歩く後ろ姿だとか、ふと遠くを見つめる横顔だとか、そんなものから目が離せなくなったのがいつだったのか、思い出せない。

無謀な恋だった。もし私が私の友人の立場だったならきっと諌めたはずだ。やめておけ、傷つくだけだ、って。
でも、どれだけ頭でわかっていても駄目だった。何をどうしたって近くにいたいと、そう思ってしまったら。

「あんなマジメちゃんだったのに、なんで急に煙草なんか始めたわけ?」
「……さあ。忘れました」
「律儀にハタチ迎えてからってのがまた、妙にお前らしいけどさ」

ついとこちらを見下ろした五条さんとは目を合わせず、ポケットの中の煙草の箱に指をかける。この人さえいなければ、私はもうとっくに呪術師など辞めていたし、そのせいでこんなものに頼ることだってなかった。

恋愛なんてろくなもんじゃない。理性も理屈も全部吹っ飛ばして、人を馬鹿にしてしまう。冷静さだけが取り柄だったつまらない女ですらも、例外なく。

「ねえナマエ」
「嫌です」
「まだ何も言ってないよ」
「どうせまたしょうもないことでしょう」

新しい煙草を咥えて火をつける。痺れるような苦味を舌の上で転がしていると、五条さんがまた口を開いた。

「やめてよ、煙草」

思わず隣を見上げると、いつも通りの薄い笑みが返ってきた。この人が自分と関係ないところで他人の行動に口を出すのは、珍しい気がした。いや単に煙たいだけかな。それとも何か裏があると考えたほうがいいのかもしれない。
正面に向き直って、つとめて細く長く煙を吐き出す。じりじりと肌を刺す日差しが疎ましい。

「……嫌ですよ」
「身体に悪いよ」
「五条さんらしからぬ発言ですね」
「お肌も荒れるし」
「何を企んでるんです?」
「別に何も? ……たださあ」

ふ、と真上から大きな影が差した。瞬きをひとつする合間だった。白い指がすっと伸びてきて、私の手から吸い止しを奪った。背中で錆びたフェンスが甲高い音を立てる。むせ返るほどの、甘い香りがする。

「――口が塞がってちゃ、キスもできないだろ」

射るような眼差しに、息を止めた。まっすぐに私を見下ろす青い瞳は、今日の空よりも深く冴え渡っていた。それを隠していたはずの白い包帯は彼の首元に垂れ下がり、私の目の前でゆらゆらと揺れている。

五条さんのパーソナルスペースは異様に狭い。狭いけれど、それを差し引いたってこの状況はおかしい。長い腕とフェンスとにがっちりと囲われた私は、身じろぎすらままならない。かろうじて開いた唇からは、虚勢を張るにも心許ないくらいの細い声しか出てこなかった。

「か、らかわないでください」
「ひっどいな〜。僕が冗談でこんなことすると思ってんの?」
「するでしょ」
「しねーよ」

ぎしり。五条さんがさらにこちらへ距離を詰めると、彼に掴まれたフェンスが再び悲鳴を上げる。火がついたままの煙草は五条さんの手のひらでくしゃりと潰れて塵になった。まるで自分の心臓を握り潰されたように胸が詰まった。

「僕さあ、ずーっと待ってたんだよね」
「……なにを、ですか」
「ナマエはいつ僕に告白してくれんのかな〜って、それはそれは楽しみに」
「は、」
「なのにいつまで経っても遠回りするから、いい加減待ちくたびれちゃった」

爪先から脳天まで、一気に熱が駆け抜ける。この人は一体、何を言ってるんだろう。

「い、意味わかんな……」
「嘘つき。わかるでしょ?」
「わかんないです、五条さんほんと、ばかじゃないの」
「好きなくせに」

瞬間、周りからすべての音が消えた気がした。

「大っ嫌いなこの仕事辞められないくらい、僕のこと好きなくせに」

低い声がはっきりと耳を打った。口を開けたままぴくりとも動けない私を見て、五条さんはにんまりと笑った。それはいつも通りの軽薄な笑みに見えた。瞳の奥にちらつく、獰猛な光を除いて。

「……ね、これはもういらないね?」

五条さんは器用にも、私のスカートのポケットから煙草の箱をするりと取り出した。それが鮮やかな放物線を描いて夏の空へ落ちていくのを、視界の端で見送った。あとはもう、何もわからなかった。

「――口寂しいなら、僕が塞いであげるから」

あつい。息ができないくらいあつい。足元を這う風も、頬をなぞる指先も、唇に触れる温度も、全部、全部。

インナー・サマーブルー


煙草の箱は、五条さんを捜索中だった伊地知さんに拾われました。

Title by 誰花