あなたのキスはいつも雨の匂いがする

※twitter再掲

 

 

 

悟が泣くところを見たことがない。
片割れみたいな親友が去って行ったときも、その彼を自分の手で送ったときも、悟は泣かなかった。そんな彼を見るにつけ、私はいつも不安になるのだ。いつかその胸が涙でぱんぱんに膨らんで、張り裂けてしまうんじゃないかって。
誰も気がつかないうちに、ひっそりと。

 

「……うう〜……」
「あれ、また泣いてる」
「だってジャックが……!」
「お前この映画観るの何回目?」
「さ、三回くらい……?」
「嘘。僕とだけでも五回は観てるよ」

呆れた声で言いながらも、ティッシュの箱を寄越してくれる悟は優しい。私はその箱から一気に三枚を引き出して、ちーんと思い切り鼻をかんだ。うわあ、と大袈裟に眉を顰めてみせる恋人は無視だ。いまさらそんなことを気にするような仲でもない。

丸めたティッシュをゴミ箱に放り込んで、私は再びソファに身体を沈めた。さらりと滑らかなレザーの感触に舌を巻く。この家の家具は相変わらずどれもこれも質がいい。あまりに居心地が良くて、かえって腹が立つくらいだ。

任務のない金曜日の夜は、悟の家で映画を観るのが私たちの暗黙のルールになっている。何を観るかを選ぶのはいつも悟で、あるときはロマンティックなラブストーリーだったかと思えば、翌週はえげつないスプラッタだったり、はたまたよくわからないフランス映画だったりもする。私がいちいち悲鳴を上げたり、いかにも『ちんぷんかんぷんです』という顔でぽかんとしているのを見るのが楽しいのだという。映画鑑賞の趣旨を逸脱していると思う。

今日は珍しく、私のお気に入りの映画を選んでくれていた。たまにこういう甘さを見せるのがこの男のずるいところだ。

「そんな涙脆くて、よく呪術師やってられるよねえ」
「泣いても笑っても呪力は一定、って夜蛾先生に仕込まれてるもん」
「そういう話じゃないの」

言って、悟はソファの背もたれに預けていた長い腕で私の頭を抱き寄せた。なされるがまま、しなやかな筋肉に覆われた肩にぴったりと耳をくっつける。遠くでとくとくと心臓の動く音がする。悟の心音はいつも一定だ。穏やかに凪いだ海に立つ漣のようだった。この広い胸の中にどれほどの想いを抱えているのだろうと、思う。

「……ねえ悟」

映画はエンドロールに差し掛かっていた。悟は緩やかなリズムで私の髪を撫で続ける。その横顔を見上げれば、やわくほどけた青い眼差しが落ちてきた。

「んー?」
「私、」
「うん」
「……やっぱなんでもない」
「なーに? 変な子だね」

おかしそうに笑う悟のお腹に手を回して、ぎゅうと強く抱きついた。私に何ができるかなんて、そんなことを訊いても意味がない。だって悟には何も必要ないのだ。涙も恐怖も弱さも臆病も、私が持っているものは何も。

「なんかごちゃごちゃ考えてる?」
「……考えてない、です」
「ふーん。まあいいけど」

不意に両脇に手が差し込まれて、ひとつ瞬きをしたら悟の膝の上に座っていた。背中に添えられた手のひらから、悟の体温が伝わってくる。肌をじんわりと溶かしていくような、柔らかな熱だった。

この人の心を揺さぶるものは、きっともうこの世にほとんど残っていない。それは必ずしも悪いことではないのだろう。わかってる、わかってるけど。

「悟」
「今度はなに?」
「……好き」

向かい合った空色の瞳を見つめて、あるだけの気持ちを乗せて囁いた。私の内心などとっくにお見通しだろうその双眸がきゅっと細くなる。そんなに優しく笑わないで。切なくてまた涙が出ちゃうよ。

「知ってる」

柔らかい唇が私の眦を掠めた。それから頬へ、それから唇へ。啄むように繰り返してから、ちゅ、と小さな音を立てて離れる。頬を包む手のひらも、鼻先に触れる吐息すらも愛おしくて愛おしくて、胸が軋むようだった。

「僕の分も、お前が泣いておいてよ」

もちろんベッドの上でもね。悪戯っぽい顔でそんな風に付け足すから、私はもう思い切りその首に抱きつくほかなかった。

 

悟が泣くところを見たことがない。
大事にとっておいたアイスをひっくり返してダメにしても、全米が泣いたと謳われる映画を観ても、悟は泣かなかった。そんな彼を見るにつけ、私はいつも思うのだ。

いつかその胸が溢れてしまわないように、私がいるのかもしれないって。

あなたのキスは
いつも雨の匂いがする


ワンライに投稿したお話を加筆修正したものです。