きみの手で愛を授けて

お題企画

※「青き路抜ける、花ざかりの森」より少し後のお話です。

 

 

 

「はい、できたよ悟」

右手に持ったドライヤーのスイッチを切って、白い後頭部に語りかける。ごうごうと喧しかった風の音が消え、リビングルームは途端に静かになった。大きな窓から望む街のネオンの瞬く音まで聞こえてきそうだ。

「悟、眠いの?」
「んー」

返ってきた声で、半ば夢の中にいるらしいとわかった。目の前でふわふわと揺れる白い綿毛の海に指を埋める。乾かしたての柔らかい髪はあたたかくていい匂いがして、思わず頬が弛んだ。

「もう寝る?」
「……ん、大丈夫。今度は僕の番ね」
「疲れてるでしょ、無理しなくていいよ」
「だーめ、僕がやりたいの」

ひとつ大きく伸びをした悟が振り返る。ソファに座った彼の頭は、その後ろに立つ私の目線よりも少し下にあった。けぶるような睫毛の先までよく見える。こうしているといつもより距離が近く感じるから、私は悟の髪を乾かすのが好きだった。上目遣いにこちらを仰ぐ瞳を見つめていたら、鼻先にちょんと触れるだけのキスが贈られる。

「ではお手をどうぞ、お姫様」
「ふふっ、なあにそれ」

立ち上がって、悟はおどけた仕草で私の手を取ってみせた。上下くたくたの部屋着のくせに、そんな仕草すら王子様みたいに絵になるからちょっと悔しい。昔からいちいち格好良すぎるんだよなあ。

「じゃあお言葉に甘えて、お願いします」
「まかせてよ。ツヤツヤにしてあげる」
「悟はなんでも上手だもんねえ」

ほんの束の間のエスコートを受け、なんとなく浮かれた気持ちでソファに腰を下ろすと、すぐに悟の手が髪に触れた。教えたこともないのに、私がいつもヘアオイルを使っているのをちゃんと覚えていて、毛先から丁寧に丁寧に馴染ませてくれる。大事なものを扱うような優しい手つきに、胸の奥がじんわりと熱を持った。

悟が高専を卒業するのを待って一緒に暮らし始めてから、もう何年も経つ。相変わらず私たち、特に悟は、任務に追われて忙しない毎日を過ごしているけれども、そこそこ仲良くやっている、と思う。大きな喧嘩はまずないし、たまに悟のワガママに振り回されることはあっても、それはそれで楽しかったりする。たぶん私の性分なのだろう。

何より、この人は確かに私のことが好きなのだという自惚れが許されるくらいには、悟は私を甘やかしてくれるし、大事にしてくれていた。それこそ、お姫様みたいに。

「悟に触ってもらうと、なんだか髪も綺麗になりそうな気がするから不思議」
「僕の手は特別だからね」
「特別?」
「そう。ナマエのための魔法の手」

悟がふわりと笑う気配がして、すぐにドライヤーのあたたかい風に包まれる。本当にそうかもしれない。だってもう心地よくて眠っちゃいそうだもん。私はそうっと目を閉じて、髪を梳く悟の指の感触に身を委ねた。

(出会った頃は、こんな日が来るなんて思いもしなかったなあ)

もう十年以上も前になるけれど、寒空の下、ベンチで体を丸めて眠っていた悟の姿をまだ思い出せる。あのときは怖かったな。でも、もしあそこで声をかけなかったら、いま私たちはこうして一緒に過ごしていただろうか。同じご飯を食べて、お互いの髪を乾かして、ひとつの布団を分けあって眠っていただろうか。

「――はい、おしまい」
「ありがとう」
「ナマエも眠くなってるでしょ」
「……なってない」

なんでもお見通しと言わんばかりの青い瞳から逃げるように、私は明後日のほうを向いた。悟はくつくつと喉を鳴らしながら手早くドライヤーを片付けて、私の隣に腰を下ろす。わざと勢いをつけて座るものだから私の体はぽふんと跳ねてしまって、それがおかしくてふたりで少し笑った。

「ねえ悟」
「ん?」
「……もうちょっと、触ってほしいなあ」
「なに? 今日は積極的だね」
「え!? あ、ちが、そういう意味じゃ……!」
「冗談だって。ほら、おいで」

言ったそばから、悟はさっさと私を抱えて自分の膝の上に収めてしまった。向かい合う形でぎゅうと抱きしめられ、悟の首筋に鼻を埋める。同じシャンプーを使っているはずの悟の髪はなぜだかとても甘い香りがして、心臓がとくとくと音を立てた。

「昔はちょっと手が触れただけで真っ赤になってたのにねえ、ナマエさん?」
「……そういうのはもう忘れて」
「無理。僕、記憶力いいから」

私の頭をゆっくりと撫でながら、悟がからかうように言った。抗議の意味を込めてちょっと髪を引っ張ってみても、楽しそうな笑い声はやまない。たぶん全部ばれているのだ。昔だけじゃなく、こうしているいまだって、顔も体も火照ってどうしようもないこと。

こればっかりは何年経っても収まる気配がない。惚れた弱みというやつだ。観念して小さく溜息をついたら、不意に名前を呼ばれた。顔を上げた私を、やわく細められたた瞳が覗き込んでくる。

「さっきの話だけどさ」
「さっきの?」
「僕が触ると髪が綺麗になりそうってやつ」
「うん」
「あれさ、ナマエもそうだよ」
「私?」
「ナマエの手も、僕にとって特別」

いろんなものを僕にくれたから。穏やかな声でそう言って、悟は私の手を掬い上げた。硬い親指の腹が、形を確かめるように一本一本、私の指を撫でていく。慈しむようなその仕草に、胸がむず痒くなって私はもぞもぞと身じろぎをした。そんなに大したものあげたことあったっけ。

「わ、私、最近キャラメルくらいしか悟にあげてないよ……?」
「ぶっは! この流れでそれ? ウケるんだけど」
「なんで笑うの!?」

真剣に考えたのに、失礼な。私はこれ見よがしにむうと唇を尖らせた。悟は頭がいいので、行間をいくつもすっ飛ばして喋ることがよくある。そして置いてきぼりを食らって混乱する私を見て楽しむのだ。案の定、悟は私のむくれた顔を見てますますにんまりと唇を吊り上げた。

「ナマエってたまに馬鹿だよね」
「だってわかんないよ……」
「え〜? 例えばさあ、シてるとき僕の首に縋り付いてくる手なんか最高にえろ、」
「うわあああもういいです!!」

しれっと放たれた爆弾に、私は飛び上がるほど慌てて悟の口を塞いだ。びたーん!と痛そうな音がしたけれど構いやしない。嬉しそうな顔でなんてことを。第一、それってあげるとかもらうとかの話じゃない気がするんだけど。

「悟のほうが馬鹿じゃん!」
「んん〜?」
「ひぁ!?」

ぎゅっと悟の唇を押さえたら、今度はその手のひらを分厚い舌が舐めてくる。情けない声を上げた私に、悟はけらけらと子供みたいに笑った。この人は、ほんとにもう。

「せ、先輩を敬ってください!」
「そんなの卒業したらもう無効だろ」
「悟は在学中からでしょ……」
「可愛がってた先輩ならいたけどね」

さて誰のことでしょう、なんて白々しい台詞を吐いて、悟はまた私を抱き寄せた。……それくらいはさすがに、私だってわかるよ。

「……もう。悟には敵わないなあ」
「最強だからね」
「たまには勝ちたいのに」
「ナマエはそのまんまでいーの」

大きな背中にのろのろと手を回すと、急かすように強く抱きすくめられた。悟のぬるい体温と、肌のにおいと、少しだけ早く刻む鼓動の震えを体いっぱいに感じる。

——毎日毎日、飽きもせず、悟を好きだなあと思う。こんなどうってことない穏やかな日々が、ずっと悟に降り続けばいいと、そればっかりを願っている。
そしてそんな彼の隣に、できれば私がいたらいいな、なんて、ちょっぴり贅沢なことも。

「ナマエ」

囁くような声に顔を上げると、甘くとろけた眼差しが降ってくる。見つめ合って、どちらからともなく唇を重ねた。すぐに離れていく熱がもどかしい。けれど、もう一回とねだる前に、骨張った指が私の左手を攫っていった。

「そろそろ指輪、買おっか」
「……え」

固まった私の薬指にそっと口付けて、悟はこれ以上ないほど幸せそうに微笑んだ。

ああだめだ。やっぱり一生、勝てる気がしないや。

きみの手で愛を授けて


ジュエリーショップ(貸切)にて、ギラッギラのどでかダイヤの指輪を指して「ねえこれ!これにしよ!」とはしゃぐ五条さんと、それを無視して小さな青い石がついた指輪を選ぶ先輩と、そんな彼女にきゅんとしてしまう五条さん。

お題:「群青に溺没」の番外編で、卒業後の二人/ゆか様
お題ありがとうございました!ただただいちゃつくだけの二人になりました。

Title by icca