お題企画
※高専時代
※「これは進行性のやまいです」の少し後のお話です
「デートしよう」
部屋の外で待ち構えていた悟くんは、私の顔を見て開口一番にそう言った。
「デートしたい。ナマエさんと」
ドアノブを握ったままぽかんとしている私に向かって、彼は真剣な眼差しでもう一度宣言する。寝ぼけた私の頭はまだ、その言葉を咀嚼しかねていた。
「でーと」
「付き合い始めてからまだ一回も出かけてないじゃん、俺ら」
言いながら、悟くんは私の手をドアノブから引き剥がすようにして絡め取った。そのままぎゅうと握られて、ようやく頭が冴えてくる。でーと……デート?
はっとして顔を上げると、朝の光のように清らかな青い瞳がこちらを覗き込んでいた。
「……だめ?」
私はうんともすんとも言えなくなった。
小首をかしげて切なそうに眉を寄せる顔は、どう考えたってあざとい。まだ日も登りきらないような早朝、いきなり女子寮までやって来て何を言い出すのかと思ったら。そうやって可愛くお願いすればなんでも叶うと思っているのだ。そして残念ながら、それは間違っていない。
「……だめじゃない、よ」
「よっしゃ! 決まり」
小さくガッツポーズを作った悟くんからは、もうさっきの儚げな表情などすっかり剥がれ落ちている。
デートって何するんだっけ、なんてぼんやりと思っていると、いまだ繋がったままの手を悟くんが優しく引っ張った。それに気を取られた隙に、ちゅ、と唇が鳴る。瞬きをする間もないくらい鮮やかな手口だった。
「――土曜日、空けておいてね」
顔を離した悟くんはとびきり甘い声で言って、くるりと踵を返すとそのままスキップでもしそうな足取りで任務へ出かけていった。
……あーあ。まだ歯みがきしてなかったのに。
「うっわ、かっわいい!!」
約束の土曜日の朝、駅に着いた私を迎えたのは、元気いっぱいな悟くんの歓声だった。待ち合わせっぽくしたい、という理由でわざわざ集合場所に最寄駅を指定したのは、もちろん悟くんだ。
「髪上げてんの初めて見た! 自分でやったの?」
「う、うん」
「もしかしてそれ新しい服? すげー似合ってる」
「ありがと……」
「リップも変えたでしょ、いい色だね」
「…………うん………」
三六〇度、穴が空くほど見つめられ、恥ずかしさで身が縮む思いだった。考えつく限りのオシャレをしてきたつもりだけれど、流行に疎い私にできることなんてたかが知れている。こんなにじっくり見られたら、ボロボロと粗が出てきてしまいそうで気が気じゃなかった。恥を忍んで硝子ちゃんに相談すればよかった、と思ってももう遅い。
それに引き換え、悟くんだ。ただでさえ目立つ見た目をしているのに、その私服姿たるや、控えめに言ってもどこかの雑誌のトップモデルレベルだった。
私、今日一日こんな人の隣を歩くのか。眩暈を起こしかけている私の内心など知らず、悟くんはさらりと私の手を取って言った。
「じゃ、出発」
嬉しそうに目を細めるその顔を見て、胸がいっぱいになる。朝からこんな調子で私、大丈夫かな。
果たしてその心配は的中し、遅めのランチを食べ終わる頃には私はもうへとへとになっていた。
週末の賑わいを見せるショッピングモールをひとしきり歩き回った後、私たちは併設の映画館のロビーまでやって来た。運良く空いたベンチに私を座らせた悟くんは、飲み物を買うと言ってレジに並んでいる。
人混みの中でもすぐに見つかる後頭部を眺めて、私は長く息をついた。結局、朝から続く緊張が解ける瞬間は訪れなかった。気の利いた会話をする余裕すらなく、私が役に立った場面といえば、手をビチャビチャにしたままお手洗いから戻ってきた悟くんにハンカチを貸してあげたくらい。
――だって、一緒にいるだけで痛いほど伝わってくるのだ。当たり前のように絡められる指も、私を見る優しい眼差しも、穏やかな声音も全部全部、『好きだ』と告げているようで、たまらなかった。そんな風に宝物みたいに扱われたらもう、どんな顔したらいいの。
「お待たせ〜」
弾んだ声がして顔を上げると、二人分の飲み物とポップコーンを持った悟くんが立っていた。
「どうかした?」
「う、ううん! ありがとう……」
ついまじまじと見つめてしまい、慌てて目を逸らす。悟くんは荷物をサイドテーブルに置いて、私の隣に腰を下ろした。肩が触れそうになり、さりげなくお尻の位置をずらす。甘い香水がふんわりと香って、頭がくらくらした。
「あ。ナマエさん、ヘアピン取れかけてる」
「えっうそ」
「ここ」
不意に悟くんが私のうなじあたりに手を伸ばした。そっと肌を掠めた指に、思わず体がぴくりと跳ねてしまう。ああもう、しっかりしてよ私! これじゃあ意識しているのがバレバレだ。恥ずかしくなって目を伏せたら、悟くんがふっと笑う気配がした。
「――かわいい、ナマエ」
囁くような声の後、乾いた指先が私の首筋を優しく撫でた。ひ、と声を上げそうになる口を慌てて噤む。そんな私にはお構いなしに、悟くんは私の耳元まで唇を寄せてくる。
「食べちゃいたい」
ぱかりと開いた口から漏れる吐息が、炎みたいな熱さでもって私の皮膚を舐めた。スカートの裾を握りしめた拳を、悟くんの大きな手のひらが包み込んでくる。じわりと伝わる体温で、胸の奥までぐちゃぐちゃに溶かされてしまいそうだった。
(もう無理、死んじゃう……!)
きつく目を閉じたとき、ぴんぽーん、という呑気な音が響いた。入場開始を告げる館内アナウンスだ。途端にすっと離れていく悟くんは、もういつもの飄々とした顔に戻っている。
「行こっか」
にこりと笑って立ち上がった悟くんに、自分がどう返事をしたのか思い出せない。
「あー面白かった! やっぱ演出に金かかってんのは見応えあるね〜」
「そ、そうだね……」
きゃっきゃとはしゃぎながら映画の感想を述べる悟くんの隣で、私は曖昧な笑みを浮かべた。まったく覚えていないなんて言えない。ド派手なアクションが売りの話題作を観たはずなのに、その内容はこれっぽっちも頭に残っていなかった。なんなら主人公の名前すらわからない。
映画が悪いわけじゃない。悟くんの膝の上で繋がれたままの右手と、青白く照らされる綺麗な横顔を交互に眺めていたら、いつの間にかスクリーンにはエンドロールが流れていたのだ。
映画館の外に出ると、辺りは少しずつ夕暮れの色に染まりつつあった。ゆらゆらと揺れるふたつの長い影を見つめながら、悟くんの話に中身のない相槌を打つ。
――私、いちおう先輩なのにな。どうしていつも余裕がないんだろう。悟くんはこんなにも言葉で、態度で示してくれるのに、何ひとつうまく返せない。こうして並んで立っているだけで精一杯で。
「ヒロインが最後さあ――」
無邪気に喋っていた悟くんが、私を見下ろしたところで言葉を止めた。もしかして、全然覚えてないのバレちゃったのかな。焦って口を開こうとしたら、悟くんの手がやんわりと私の頭に触れた。
「……疲れちゃった?」
困ったように笑う顔を見て、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「だい、じょうぶ」
「暗くなってきたし、そろそろ帰ろ」
「え、でも悟くん、晩ごはん予約してくれたって、」
「ナマエさん、明日朝から任務でしょ?」
「そうだけど……」
「大事な彼女がデートで疲れて怪我でもしたら、目も当てらんないよ」
ね、と優しく言った悟くんは、私の手を引いて駅の方へと歩き出す。
『大事な』。その一言だけでこんなにも満たされるのに、それを伝える言葉が見つからない。
このデートが決まってから、乏しい知識を振り絞って必死に考えた。どうしたら悟くんは喜んでくれるかな。どんな服が、髪型が、メイクが好きかな。彼氏、年下、初デート、なんてキーワードを携帯が熱くなるまで検索した。なのになんにも役に立たないじゃないか。
私だって、悟くんのことが好きだ。そんな寂しい顔をさせるためにここに来たわけじゃない。
伝えたい。伝わって。
「――さ、さと、る」
小さく名前を呼ぶと、悟くんはぴたりと足を止めた。目を見開いて振り返ったその顔をまっすぐに見上げ、大きく息を吸い込む。恥ずかしがってる場合じゃない。女は度胸だって、どこかの雑誌にも書いてあったもの。
「もうちょっと、一緒にいたい……」
自分で言っておいて頬が熱くなる。目を逸らしたかったけれど、ぐっと唇を噛んで我慢した。悟くんはそんな私を見つめたまま、ぴくりとも動かない。
その薄い唇が何度か開いたり閉じたりを繰り返した後、ようやく出てきたのは、はあああ、という盛大な溜息だった。
「…………くっそ」
「え、え、悟くん!?」
急に脱力したように私の手を離して、悟くんはその場にへなへなとしゃがみこんでしまった。両手で口元を覆うのを見て、慌てて顔を覗き込む。
「ど、どうしたの?気、」
気持ち悪いの、と続くはずだった言葉は中途半端に終わった。乱暴に私の後頭部を掴んで引き寄せた悟くんが、噛み付くようなキスを見舞ってきたせいだ。
「……あのさあ、」
甘く歯を立てられた唇がじんわりと痺れている。間近で見る悟くんの目尻は、少し赤かった。
「……そんなの、どこで覚えてきたの?」
「そ、そんなのって……?」
恐る恐る聞き返したら、悟くんは拗ねた目をして黙ってしまった。そうしていると、なんだかようやく年下の男の子って感じがする。可愛らしくてつい笑ってしまったら、悟くんは降参とばかりに両手を挙げて立ち上がった。
「……あーもうやめやめ! イイ彼氏キャンペーンしゅーりょー!」
「キャンペーン?」
「よい子で紳士な悟くんは完売しました〜」
「わ、」
つられてのろのろ立ち上がった私の頬を、悟くんが両手で掴んでぐいっと引き寄せた。目の前に端整な顔が迫り、息が止まる。
「さとるく、」
「さっきみたいに呼んで」
「……さと、る……」
震える声で名前を呼ぶと、悟くんは見たこともない顔であでやかに笑った。薄闇に閃く青い瞳から目が離せない。滴るほどの熱が籠ったそのふたつの眼に、体の内側まで覗き込まれているようだった。呼吸も忘れたままの私の鼻先で、つやつやの唇がゆるりと弧を描き、甘ったるい毒を吐く。
「――今日は帰さないから。覚悟しろよ、ナマエ」
悟くんになら、食べられちゃうのも悪くないかなあ。なんて、馬鹿みたいなことを思ったのは内緒だ。
—
翌日の任務は悟くんが代わりに行ってくれました。
お題:「群青に溺没」の番外編/Rayla様
お題ありがとうございました!このシリーズまた書けて楽しかったです…!
Title by 弾丸