ワルツより易しいから笑って

段ボールの蓋を留めたガムテープの端を、勢いよく引きちぎる。浮いたところを最後に指先でしっかりと押さえて貼り付け、私はふうと息をついた。

「梱包完了、っと」

立ち上がって腰を伸ばしながら、がらんとした部屋の中を見回す。カーテンを取り払った窓から早朝の薄明かりが差し込んで、部屋の隅に重ねられた段ボール箱をぼんやりと浮かび上がらせていた。こうして見ると、この部屋もけっこう広かったんだなあ。

壁に立て掛けた細長い影が、ひっそりとこちらを見つめている気がした。長年愛用したその呪具の譲り先も、すでに決まっている。

――今日、私はこの部屋を出る。そして呪術の世界からも。

高専を卒業してそのまま呪術師として働き始め、気がつけば八年近くが経とうとしていた。次から次へとやってくる任務をこなすのに精一杯で、せっかく日当たりを重視して選んだこの部屋にも、結局ほとんど寝るためだけに帰ってくるような毎日だった。

南向きのベランダに面した窓辺に立って、そっと窓を開ける。澄んだ冷たい空気が少しだけ胸を晴らしてくれた。次は、もっと穏やかな暮らしがしたいな。好きなものを食べて、好きな音楽を聞いて、好きな花を飾るような、そんな些細な日々でいい。
夜を拭い去るように白んでゆく空を見ながら、そんなことを思ったときだった。

「本当に辞めるんだ。ちょっとびっくりしちゃった」

軽やかな声がして、私は勢いよく振り返った。玄関からこの部屋へと続くドアが開け放たれ、長身の男が立っていた。黒い服に包まれた手足は、何もなくなったこの部屋でさえ窮屈に見えるほどにすらりと長い。

「五条」
「鍵、開いてたよ? 不用心だなあ」

……だからって、勝手に入ってくることはなかろうに。
呆れて溜息をついた私に、彼は悪びれもせずただにこりと笑った。

「この部屋、こんなに広かったんだ」
「私も同じこと思った」
「なんか寂しいねえ。ここでよくみんなで集まってたし」
「ノンアルの五条が一番騒いでたよね」

五条は当たり前のように部屋に踏み込んできて、私の隣に立った。勝手知ったるなんとやらだ。
高専から一番近いからと、五条はよくこの部屋を酒盛りの会場にした。集まるのはいつもだいたい硝子と七海と伊地知だったので私は大歓迎だったけれど、酒が一滴も入っていないくせに場酔いした五条は、普段に輪をかけて厄介だったなあ。思い出して、自然と口の端に笑みが浮かぶ。

束の間の平穏だったとしても、彼らとのそういう時間は私にとって癒しだった。それができなくなるのは五条の言う通り、ちょっと寂しいかもしれない。でも。

少しだけ俯いた私を見下ろして、五条は静かな声で続けた。

「なんで、って聞いてもいい?」

すぐには口を開くことができなかった。きっと私の答えなど知っているはずなのに、それでも訊ねる五条は意地悪だ。そして、彼の前でこんな弱音を吐く私も。

「……もう見たくなくなっちゃったの。誰かが死ぬところ」

学生時代から繰り返し見てきたのに、結局いつになっても慣れやしなかった。

お世話になった先輩も、可愛がっていた後輩も、くだらない話をしながら車を走らせてくれた補助監督も、私より遥かに強かったはずの術師も、つい数分前まで笑い合っていた仲間も、週末には一緒に出かける予定だった友人も、みんないなくなってしまった。

わかっていたはずだ。呪術師として生きる道を選んだとき、覚悟を決めたはずだった。何度も折れてしまった心を、その度になんとか誤魔化してここまでやってきた。けれどあるとき、もう立ち上がれない、と思った。折れた心は治ったわけじゃない。ただ無理矢理にくっつけて、包帯でぐるぐる巻いて固めて、ようやく形を保っていただけだった。

「……みんなに叱られるかなあ」

こんな風に無様に去って行く私を、死んだ仲間たちはどう思うだろうか。……きっと、笑って許してくれるんだろうな。そういう優しい人たちばかりだったから。

自嘲気味に笑った私を見て、五条は茶化すこともせず淡く微笑んだ。サングラス越しでもわかる柔らかな眼差しにどきっとする。

「ナマエはよくやったよ。僕が保証する」
「……最強に言われると、なんか照れるね」

胸の高鳴りを隠すように、私は五条から目を逸らした。油断すると余計な言葉が喉から飛び出してしまいそうになる。
後ろ手に組んだ指先を、バレないようにぎゅっときつく結ぶ。私は馬鹿だ。この気持ちももう今日でおしまいにすると決めていたのに、姿を見ただけで揺らいでしまうなんて。去り行く身で、いまさら何を残すというのだろう。

――私は、五条のことが好きだった。昔から。
怖いくらいにまっすぐな瞳や、何にも揺るがずに立つその姿にたまらなく焦がれた。私に足りないものは全部、彼の中にある気がした。

誰が死んでも、私が負けても、五条はいつだって遥か先で立ち続けている。それが私にとってどれほどの救いになっていたかわからない。少しの風にさえゆらゆらと振れてしまうロウソクの火みたいな自分を、いままでなんとか消さずに守ってこられたのも、五条がいたからだった。

私はすうっと息を吸い込んだ。私から彼に言うべき言葉があるとすれば、これだけだ。

「……五条、ありがとうね」
「ん?」
「最強でいてくれて」

私の分まで、強くいてくれて。

本人にはそんなつもり、毛頭なかっただろうけど。吹けば飛ぶような私の心を奮い立たせてくれたのは、いつだってこの人だったから。

精一杯笑ってみせたら、五条は大きな目をまあるく見開いて、ぽかんと口を開けた。それがおかしくて私はつい吹き出してしまう。最強のくせに、いくつになってもこんな顔するんだもんなあ。

「……ねえナマエ、」

くすくすと笑う私に、五条はいつになく真剣な面持ちで向き直った。長い指がサングラスをゆっくりと外して、空色の瞳が惜しげもなく晒される。朝の青白い光の中で見る彼の顔は、透き通った水のように美しい。

「結婚しようか」

ちょっとだけ見惚れていた私は、その薄い唇から発せられた言葉をすぐには理解できなかった。

「…………は、い?」

今度は私が口を開ける番だった。何か言おうとしても、は、とか、え、とか間抜けな音しか出てこない。またいつもの冗談かと思って五条の顔を見てみたけれど、目は笑っていないし、口はきゅっと一文字に結ばれている。……まさか、緊張、してる?

「ま、待って。意味わかんない」
「そのままの意味だけど」
「私たち、その、付き合ってないよね……?」
「付き合ってないと結婚できないわけじゃないだろ」
「え、いやそうだけど」

あちこち目を泳がす私を見て、五条はやっと頬をほころばせた。いや待って笑い事じゃない。私はまだ絶賛大混乱中だ。

「ああ、当主の妻といっても、家の面倒なことは僕が全部やるから心配しなくていいよ」
「え、ええ?」
「しばらくうちの実家でゆっくりしたら? お手伝いさんもいるし」
「えっと、まって」
「まあ僕としては、新婚らしく二人で暮らすってのももちろんアリだけど」
「ちょっと待ってってば!」

あらぬ方向に話が進んでいる気がして、私は慌てて五条を止めた。五条は徐々にいつものペースを取り戻しつつあるみたいだった。でも私の心臓はまだ、全力疾走した後かと思うほど激しく脈打っている。

けっこん? 結婚、って、なんで五条が私なんかと。何かの間違いじゃないのかな。それとも都合のいい夢? それなら早く覚めてほしい。細く長い息を吐いて、私は自分の爪先に視線を落とした。よりによって、何もかもを置き去りにしようという今日この日に。

「……ちょっと、待って、ほんとに、……わけわかんないよ」
「だってさあ、誰かが死ぬのを見たくないって言うなら、僕ほどちょうどいい相手はいなくない? 最強だし」
「そ、れはそうかも、しれないけど」
「僕は死なないよ」

迷いのない声で五条は言った。それから、所在なく宙に浮いた私の両手を、大きなふたつの手のひらで包み込むようにして握った。その指先が思いのほか冷たく、はっとして顔を上げる。私と目線を合わせるために腰を屈めた五条の髪がふわりと揺れて、春の日差しのような甘く優しい香りがした。

「……ずっとナマエのそばにいる。だから、ナマエも僕のそばにいて」

どこにも行かないで。そう言って、五条はぎゅっと手に力を込めた。その言葉は私の両の耳から染みこんで、鼻の奥をつんと突き刺して胸の底へ落ちていった。

五条はやっぱり性格が悪い。
こういうときばっかり真剣な目をするんだ。私が憧れた、ひたむきな目を。

「……最悪。ほんっと、マイペースすぎ」
「ええー? 柄にもなく緊張したのに、ひどいな」
「なんでこんな日に言うかなあ……」
「こんな日だからだよ」

呆れ笑いのつもりが、唇が震えて情けない声しか出てこない。どうしようもない感情が胸を満たして、溢れた分は涙になった。

「……そうやって誰かを想って胸を痛めたり、抱えきれなくて泣いちゃったりさ」

ぐずぐずと鼻を鳴らす私に、五条は困ったように笑って、片手を離して私の目尻をそっと拭った。空いた左手が寂しくて、今度は私から手を重ねる。骨張った指をなぞったら、もっと胸が苦しくなった。

「そういうナマエの弱さが、僕はたまらなく愛おしいんだ」

五条は両手を私の頬に添えて、まっすぐに前を向かせた。どんな場所にいても輝きを失わない宝石のような瞳が、すぐ目の前にある。いつもいつも、俯いた私の顔を上げさせるのは、やっぱりこの人なのだ。

「僕の足りないところを、ナマエが埋めてよ」

すっかり登りきった太陽が、五条の顔を明るく照らし出す。白い髪も青い瞳もやわく微笑んだ唇も、すべてが眩しいくらいにきらめいて、それがあんまり綺麗で目を細めたら、また少し涙がこぼれた。

ワルツより易しいから笑って


専業主婦になってみたもののやっぱり性に合わなくてまた呪術関係で働き始めちゃったり、ちょっと心配しながらも「まあ僕がそばにいるしいっか」とか思っていたりする。

Title by 誰花