春を送る君を待つ

※先生と生徒
※原作より少し過去

 

 

「五条先生」
「なぁに?」
「好きです」
「知ってるよ」

ゆったりと椅子に腰掛けて本を読む男に声をかければ、彼は顔も上げずに返事をよこした。その態度が気に食わず、私はくしゃりと顔をしかめる。少しくらいこっち向いてくれたっていいのに。

「……好きです」
「そんな怖い顔で言うことじゃないでしょーよ」

さっきより声を低めた私に、その人はようやくこちらを見た。呆れまじりの苦笑ですら絵画のように美しく、油断すると呼吸を忘れそうになってしまう。

「……好きなんです。五条先生のことが」

懇願するように言っても、淡いブルーの瞳はついぞ揺れなかった。思い切って覗き込もうとすれば黒いレンズが邪魔をする。それを取っ払いたくていつも手を伸ばすのだけれど、これまで一度も成功したことはなかった。何度目かもわからない告白と同じで、今日も今日とて軽くあしらわれてハイおしまい、だ。

「お前も飽きないねえ」

眉ひとつ動かさずに言って、先生は再び本に視線を落とした。誰もいない夕方の職員室で、先生の白い指がぺらりとページを捲る音だけがこだまする。……私、紙に嫉妬したのって生まれて初めてかも。

「だって先生が相手にしてくれないんだもん」
「あいにく生徒に手を出す趣味はないよ」

僕ってば品行方正な教師だからさ、などと白々しく言ってのけるところが心底憎たらしかった。私の言葉なんて、そよ風程度も効きませんよと言われているみたいで。

この人はいつもそうだ。私がどんなに言葉を尽くしたって、全力でぶつかったって、少しも揺らいでくれない。

一年生の頃から、気がつけば五条先生のことばかり目で追っていた。同級生からは、悪趣味だの面食いだの遊ばれて捨てられるのがオチだの、それはもうひどい言われようだった。もっと歳の近いまともな男がいくらでもいると。

でもやめられなかった。だって先生は、残酷なほど私に優しかったから。

二年生の秋、初めて告白した。返事は今日と同じ、知ってる、とだけだった。決死の覚悟で臨んだ私の純情は行き場を失くし、ばらばらに空中分解して墜落した。そうして残ったのは擦り切れて薄汚れた恋心だけで、それはずっと宙に浮いたまま熾火のように燃え続けた。

だから私はずるずると五条先生を追いかけるしかなかった。先生は、私を叱りも遠ざけもしなかった。私がいくら職員室に足繁く通おうが、隠れ家みたいなシアタールームに押しかけようが平然として、また来たの? なんて言って、たまに内緒で紅茶とケーキを出してくれたりした。あの狭い部屋で二人きりで映画を見たことだって何回もある。けれど私が期待していたようなことは、何ひとつ起こらなかった。

映画が終わってエンドロールが流れる頃、先生の肩に頭を預けて眠ってしまった私に、彼は指一本触れることすらなかった。ただ私の膝の上で丸まったブランケットを引き寄せて、そっと肩にかけてくれた。

どうして、と訊けば、大事な生徒だから、なんていうありきたりな言葉と、人畜無害を貼り付けたような笑みだけが返ってきた。そんな“大事”なんか、今すぐに捨ててしまいたいと思った。

「じゃあ生徒じゃなくなったら?」
「もしかして、退学しようとか思ってる?」
「……ちょっとだけ」
「馬鹿だなあナマエは」

先生は声だけで軽薄に笑った。できるはずがないと見透かしているようだった。腹立たしく思っても、言い返すことはできない。

生徒じゃなくなったら、生徒じゃなくなっても、先生は私を大事にしてくれますか? ……なんて、答えは聞かなくてもわかる。

だってここを離れたら、この人と私を繋ぐものはもう何もないのだ。境界線から一歩でも外に出たその瞬間、彼は平気な顔で私を置いて行くだろう。振り返ることすらしないで。
それが痛いほどわかっているから、だから先生と生徒なんていう不自由で、けれど確かな関係に縋るしか、私にはできなかった。

「青春は一度きりなんだよ〜? 自分から切り捨てるなんてもったいない」
「……いらないです、そんなの」
「うーわ、出たよ若者」

吐き捨てるように答えた私を、先生は芝居がかった仕草で仰ぎ見た。嘆かわしいとでも言いたげに眉尻を下げ、大袈裟に肩をすくめて、つまりは面白がっているのだった。

私はぎゅっと唇を結んだ。そんなものと引き換えに五条先生が振り向いてくれるなら、どんなにか良かっただろう。

「羨ましいねえ。大人たちがどんだけその青い春を懐かしんで、胸を掻きむしっていることか」
「子供扱いしないでください」

恨めしさを込めた目で睨みつけると、先生はふっと息を漏らして笑った。革張りの椅子をくるりと反転させて私に向き直る。けぶるような睫毛を持ち上げて上目遣いに見つめられれば、たちまち私は動けなくなった。

「ナマエちゃんさ、子供でいられる時間って貴重なんだよ?」
「……私もう十八なんですけど」
「いまはその時間を大事に過ごしなさいってこと」

教師然とした顔で言うその声はとても穏やかで、私の心とはまるで正反対だ。どうしてそんなに余裕なのかな。先生が大人だから?

――私が、子供だから?

ぴたりと口を噤んだ私にも、先生はただただ微笑むだけだ。目を合わせていられなくて下を向く。くたびれて汚れた上履きに、愛想のない黒のプリーツスカート。やっぱり私は、どこまでいっても。

「ナマエ?」
「だったら」

俯いた私の頭に触れようとした先生の手を、私は思い切り払いのけた。思ったより大きな声が出たことに自分でも驚いてしまう。先生は黙って私を見ていた。この期に及んでも表情ひとつ崩さないこの人に、ひたすら苛立ってしょうがなかった。嘘でもいいから、ちょっとくらい困った顔してみせてよ。

「だったら、なんで優しくするの……」

出てきたのは、びっくりするほどか細い声だった。
もっと怒りたかったはずなのに、いつの間にか私の胸は悲しみでいっぱいになっていた。目の前がぐにゃっと歪んで、大好きな人の顔もちゃんと見えない。

こんな不恰好な形になってしまう前に、いっそズタズタに切り刻んでくれればよかったんだ。そうしたら私だってきっと綺麗に諦められて、いつかただの甘酸っぱい思い出になって、そんなこともあったねと笑い合えるようになっていたかもしれない。

なのに先生はいつも、真綿で包むように私を優しく扱った。だから私はいつまでもいつまでも、このじくじくとした想いを後生大事に抱えたまま、この人のそばから離れられないのだ。

「……先生のせいですよ。先生が優しくするから私、馬鹿みたいにずっと、」

ぼたぼたと床に流れ落ちる涙の粒を追いかけるように、私は言葉をこぼし続けた。そのうちうまく息ができなくなって、うぇ、と変な声が出た。情けない。かっこわるい。

そうして何度か鼻を啜り上げたとき、はあ、という大きな溜息が聞こえた。のろのろと顔を上げれば、五条先生はまっすぐに私を見つめていた。突き刺すような強い眼差しが怖かった。思わず肩を震わせた私に、青い瞳がすっと細くなる。

「ガキ」

低い声で放たれた言葉の意味を理解した瞬間、羞恥でカッと顔が熱くなった。

「……っ、またそうやって、」
「いまは、って言ってんだろ」

けれど、再び声を上げることはできなかった。椅子に座ったままの先生の右手が、私の顎を掴んでぐいっと引き寄せた。あまりの強さにまっすぐ立っていられなくて、慌てて先生の両肩に手をついてようやくバランスを保つ。はっと気が付いたときには、睫毛の一本一本まで数えられるほど近くに先生の顔が迫っていた。途端に心拍数が跳ね上がる。

膝に乗っていた本が滑り落ちて派手な音を立てても、先生は気にも留めないで私を見据えていた。よく知っているはずの香水の匂いが強烈に鼻を突いてくる。早く離れないと頭がどうにかなりそうで、でも先生の手が許してくれない。

「――ナマエさあ」

吐息が触れそうなほどの距離で、先生が私の名前を呼んだ。ひどく熱っぽいその声に脳が痺れ、もう何も考えられなくなる。

「子供と大人の違いって、何だかわかる?」
「……なん、ですか」
「欲しいモノをどうやって手に入れるか」

先生の左手が器用にサングラスを外した。ゆらゆらと揺らめく青い炎みたいな瞳が、下から舐め上げるように私を覗き込んでくる。思わず息を止めたら、先生は見たこともない艶かしい笑みを湛えた唇で囁いた。

「僕は狡い大人なんだよ、ナマエ」

知らなかった?

小首を傾げてうそぶく彼に、私は瞬きすらできなかった。手を伸ばせばすぐにでも触れられる距離にいる、なのに射抜かれたみたいに微塵も動けない。指一本でも動かしたら最後、何かが弾けてしまいそうな予感がした。

……知るわけないよ。だって今の今までそんな顔、一度も見せなかったくせに。

途方に暮れる私を見て、五条先生は満足そうに目を細めた。それから、その無骨な親指の腹で信じられないくらい優しく私の唇をなぞって、言った。

「今のうちにせいぜい楽しみなよ。苦しくて愛おしい青春ってやつをさ」

その後は、僕がそっくり戴いてしまうから。

春を送る君を待つ


何も捨てる必要なんてないよと思っている先生と、最初から彼の掌の上だった女の子。

Title by 誰花