僕だけのトニカ

※虎杖視点

 

 

「ええ〜〜、これって本当に僕が見ないといけないわけ?」

職員室の扉を開けると、えらく間延びした声が飛び出してきた。何事かと目を向ければ、よく見知った二人が何やら書類を押し付けあっている。

「五条さんの任務の報告書ですから」
「なんか適当にやっといてよ。任せる。信じてる」
「そう言われましても……」

声の主は、高そうな椅子にふんぞり返った五条先生と、その傍らでおろおろしている伊地知さんだった。なんだか大変そうだなあ。主に伊地知さんが。

「あのー、お取り込み中スミマセンー」
「ああ、虎杖くん……」

そろそろと近づいて声をかけると、伊地知さんは丁寧にこんにちはと挨拶をしてくれた。けれど顔に生気がない。疲れている。
なんとなくそっとしておいたほうがいいような気がして、俺は早く用事を済まそうと五条先生に向き直った。長ーい足をデスクに乗っけて、くっちゃくっちゃとお菓子を貪っている担任の姿もまた、あまり見ていたくなかった。

「五条先生に借りてたブルーレイ返しにきたんだけど」
「あーこれ、面白かったでしょ? 続編もあるんだけど、そっちはヒロインが黒幕でねー」
「えええ……今度見ようと思ってたのにネタバレやめてくんない……?」

肩を落とした俺を見てごめんごめんと軽薄に笑う五条先生には、反省の色は一切なさそうだ。そういえはこの人はこういう人だったと思い出す。今度から、返すときはこっそりデスクに置いて行こう。

「五条さん、とりあえず一回読むだけでもいいんで、お願いします……」
「うおっ」

隣からか細い声がして、俺は思わず体を引いた。伊地知さんがヨロヨロとした仕草でもう一度書類を差し出している。その目は切実だ。

「これ終わらないと今日帰れないんですよ私……」
「わかった。ちょっと考えるから一日ちょうだい」
「先生、早く見てあげなよ……」

いい加減に伊地知さんが可哀想になってきた。五条先生ってめちゃくちゃ強いし、悪い人じゃないんだけど、上司にはしたくないなと思う。この人が素直に他人の言うことを聞いてるところなんか見たことがない。超絶マイペース人間なのだ。

最強というだけあって怖いもの知らずなんだな、と少し羨ましく思いながら、尚も続く不毛な言い合いを生温かく見守る。なんとか伊地知さんに加勢してあげたいが、俺が加わったところで五条先生に勝てるかどうか……。うーんと唸ったとき、呼応するようにデスクに置かれた五条先生のスマートフォンが振動し始めた。

「あ、先生スマホが、」
「もしもし?」

……え、すげー速い。ワンコールも鳴り終わらないうちに、五条先生は通話ボタンをタップして耳にスマホを当てた。かと思えば、その口元がみるみるうちにほころんでいく。めっちゃ嬉しそうなんですけど。

呆気にとられている俺には目もくれず、先生は上機嫌で喋り出した。心なしか、声も弾んでいるように聞こえる。

「いま? いやいや全ッ然。もうめっちゃくちゃ暇。暇すぎてスクワットしようとしてたとこ」

嘘ばっかりじゃねーか。思わず俺は伊地知さんと顔を見合わせた。疲れきった様子の彼の目には、すでに諦めの色が浮かんでいる。その血色の悪い唇から今にも魂がまろび出てしまうんじゃないかと心配になった。

「うん……え、こっち来てるの? ………わかった迎えに行くからそこにいて。絶対そこにいて」

絶対ね、と念を押して、五条先生は電話を切った。
いつも飄々としている先生がこんなに素直に感情を漏らすのを初めて見た気がする。相手は一体誰なんだろう。詳しく聞きたかったのだが、先生はそのまますぐに職員室から飛び出して行ってしまった。跳ね除けられた椅子がくるくると回転する。

「あ、行っちゃった」
「あれはミョウジさんですね」

書類の束を抱えたまま、伊地知さんは苦笑まじりに溜息をついた。ミョウジさん。って誰だっけ。

「たぶん、すぐに戻ってきますよ」

 

伊地知さんのその言葉通り、十分ほどで五条先生は意気揚々と戻ってきた。それも、見知らぬ女性を連れて。

「ミョウジさん、お久しぶりです」
「伊地知くん! ご無沙汰してます。少し痩せた?」
「ええ、まあ、忙しくて……」

伊地知さんと親しげに話すその女性は、ほんわかとした笑顔が可愛らしい、優しげな印象の人だった。背丈は女性にしては少し高めなくらいか。和服がよく似合いそうな、大和撫子という感じだ。

この界隈にはちょっといないタイプの人だな。ほけっとして見ていると、彼女はそのつぶらな瞳をこちらへ向けて微笑んだ。

「あ、こんにちは。わたし――」
「可愛いでしょう、僕の奥さん」

女性が口を開いたとき、それを遮るように五条先生の楽しそうな声が重なった。え?

「ボクノオクサン」
「そ。僕の奥さん」

おうむ返しに呟いた俺に、五条先生はにんまりと笑って繰り返した。メッセージアプリだったらきっと、語尾にハートか音符の絵文字がついていたに違いない。先生が女性の肩に手を回して引き寄せたところで、俺はやっとその意味を理解した。

「え、えええーーー!? 奥さん!?」
「あっはは、悠仁、リアクション最高」
「もう悟さん……」
「サトルサン!?」

待って待って、頭が追いつかない。ぐっと親指を立てた五条先生のピカピカの笑顔と、困り顔の女性とを何度も見比べる。五条先生って結婚してたの?確かにプライベートは謎だったけど、これは予想外すぎた。しかも悟さんて。

「正式にはまだ婚約者なんですけど……初めまして、ミョウジナマエです」
「う、うっす。虎杖悠仁です。その、五条先生にはいつもお世話になってます」
「あなたが虎杖くん? よくお話は聞いてます」

ミョウジさんは丁寧な自己紹介の後、俺の目を見て優しく笑ってくれた。なんか、可愛い人だなあ。すげーまともっぽいし。五条先生が自慢したくなるのもわかる気がする。先生の奥さんか。へー!

「ミョウジさんは私と同期なんですよ」
「ああ! だから仲良さげなんだ」
「ごめんねえ伊地知〜、可愛い同期とっちゃって」
「は、はあ……」

せっかくにこやかに補足してくれた伊地知さんに、五条先生は意地の悪い顔を向けた。相変わらずミョウジさんの肩を抱いたままだ。はなから誰かに渡すつもりなんてさらさらなかったじゃないですか、という小さな呟きは、たぶん俺にしか聞こえていない。伊地知さん、昔から苦労してんだな。

「あーえと、ミョウジさんも補助監督なんすか?」
「いえ、わたしは呪術師ですよ」
「えっほんとに?」

俺は思わずミョウジさんの頭から爪先までを眺め回してしまった。華奢な体に控えめな性格、失礼だけどとても呪術師には見えない。少なくとも俺の知る呪術師たちとはずいぶんイメージが違って見えた。
まじまじと彼女を見る俺に、五条先生はくつくつと面白そうに笑っている。

「悠仁、人を見かけで判断しちゃいけないよ。ナマエはこれで一級なんだから」
「え、ナナミンと一緒? ってことはめっちゃ強いってこと!?」
「しかもゴリッゴリの武闘派」
「ウソォ……」
「や、やめてください悟さん」

恥ずかしそうに目を伏せるミョウジさんは大層いじらしかった。先生の婚約者とわかっていても、俺の男心的なものがくすぐられてしまう。こんな人がゴリゴリの一級呪術師だなんて、世の中まだまだわからないことがたくさんあるもんだ。

五条先生はウキウキした様子を隠しもせず、ナマエ、ナマエとミョウジさんにべったり引っ付いている。いつでも浮き足立っているような人だが、今日は一段と舞い上がって見えた。なんか飼い主に久しぶりに会った犬みたいだな。ミョウジさんも満更でもなさそうなあたり、伊達に婚約までしているわけじゃなさそうだ。ごちそうさまです。

「ナマエ、この後はフリーなんだろ? 何か食べに行こうよ。何がいい? 和食? フレンチ?」
「そうですね。でもその前に……」

しかし五条先生が夕食の誘いをかけたとき、少しだけミョウジさんの目が鋭くなった、気がした。彼女は伊地知さんの手から書類の束を取り上げると、そっと五条先生に差し出した。その顔は、再び柔和な笑顔に戻っている。

「これは悟さんの報告書ですね。終わらせてからにしませんか?」
「もっちろん! 伊地知、書類ぜーんぶ持ってきて!」

ええ……。さっきまであんなに渋っていたくせに、さも今やろうとしてましたよみたいな顔で五条先生は颯爽とデスクに向かった。俺、なんか見ちゃいけないものを見ちゃった気がする。

「私は夜蛾先生にご挨拶してくるので、終わったら連絡してくださいね」
「三十分で終わるから! マジで! 待ってて!」
「ふふ、はいはい」

ざかざかと猛スピードで書類をめくり始めた五条先生を見届けて、ミョウジさんはゆったりとした動作で出入口の扉に手をかけた。そうしてから、半眼で大人たちを眺めている俺に気がつくと、桜色の唇に人差し指を立てて悪戯っぽく笑った。

あ、なるほど。この人も確かに呪術師だった。

僕だけのトニカ

「ナマエ〜! 全部やったよ! 褒めて褒めて」
「はい、えらいですね」

 

 


学生時代から口説きに口説きまくってようやく落とした。

Title by 誰花