※原作より少し過去
「ねーねーチョコないのチョコ〜チョコほしいよチョコ〜」
「静かにしてください。さっきあげたでしょう」
駄々っ子のようにまとわりつく長身の男を、私は呆れ半分の苛立ち半分で睨みつけた。彼は気にも留めない様子で、ちぇ、と口を尖らせている。いい歳をした図体のでかい大人がしていい顔ではない。
「だってあれ義理じゃん」
「本当なら五条さんにはあげる義理もないんですが、差別はいけないと思いましたので」
「つれないねえ」
はあ〜という大袈裟な溜息とともに、五条さんはその長い体を私の向かいのソファへとダイブさせる。ぼふんと弾んだ座面から埃が立って、私は眉を顰めた。相変わらずだらしない人だ。後で夜蛾先生に言いつけよう。
二月十四日。世間がバレンタインなどといって浮き足立っている今日この日、呪術高専京都校で教員を務める私は、はるばる東京まで足を運んでいた。来る四月に新しく入学してくる生徒たちについて、東京校と情報交換をするためだ。
多忙な学長の名代を任された身として、きちんと務めを果たさねばならない。そう意気込んでやってきた私に、早々に邪魔が入った。
「あれーナマエじゃん! 何してんの? 京都クビになった?」
「お久しぶりです。では失礼します」
能天気に手を振ってくる目隠しの男が視界に入った瞬間、私は方向転換をした。この人に構うくらいなら遠回りしたほうがよい。急がば回れだ。しかし丁寧に別れの挨拶をしたところで、五条さんが素直に行かせてくれるはずがなかった。
最近どう? 僕は忙しくてさ、ほら僕って特級だから。この間は福岡まで行ってきたんだけど豚骨ラーメンって美味いね。僕は魚介系のほうが好きだけどね。そういえば空港で買ったおまんじゅうがさ、
私が受付を通って校内に入り、職員室に寄って挨拶をして、応接室にたどり着くまでの間、五条さんは聞いてもいないことを喋りながらずっと後をついてきた。途中で会った職員たちに日頃のお礼も兼ねてバレンタインチョコを配っていると、物欲しそうに指を咥えてこちらを見てきたので、面倒になってひとつ投げつけてやった。難なくキャッチされ、余計に腹が立っただけだった。
そして私はいまだ五条さんに絡まれながら、応接室のソファで夜蛾先生を待っている。忙しいと言いながらこんなところで油を売っている様を見るにつけ、高専はもっとこの人をこき使ってやっていいと思う。
「本当は手作りの本命チョコとかあるんじゃないの? 照れなくていいんだよ、ほらほら」
「あるわけないじゃないですか。なんでそんなにポジティブなんですか?」
寝転がったまま催促するように手を差し出してくる五条さんを半眼で見てやると、彼はぽかんと口を開けた。目隠しの上からでも目を丸くしている様子がよくわかるくらい、とぼけた顔だ。
「え、ナマエって僕のこと好きなんじゃないかと思って。告白するなら今日しかないじゃん」
「なんでそんなにポジティブなんですか?」
意味がわからなすぎて二回も言ってしまった。私が五条さんを好き。どこからそんな発想が出てくるのだろう。特級ともなると頭もぶっ飛んでいるのか。ええー、とぶすくれた五条さんに、私はもはや呆れて物も言えなかった。
五条悟は、学生時代から自由奔放な人だった。
二学年上の彼は、私が高専に入学した時点でもうすでに雲上の人であった。家柄も実力も容姿も、何もかもを与えられた人というのは本当に存在するのだなという感想しかなかった。自分には関わりがない相手と思っていたからだ。まさかその雲上人のほうから私に近づいてくることがあるなんて、露ほども考えていなかった。
「おい」
ある日、いつものように図書室へ向かおうとしていたら、威圧感たっぷりの声に呼び止められた。私の周りにこんな風な話し方をする人がいただろうかと不審に思って振り向くと、鼻が触れそうなほど近くに黒い壁があった。それをたどって上を向けば、端整な顔がこちらを見下ろしている。あまりに近いので、その人は首の角度がほぼ九十度になってしまっていて、痛くないのか少し気になった。
「なんでしょう」
「お前、なんで挨拶に来ねえんだよ」
「はあ」
そこで私は、この人物こそが五条悟だと理解した。五条悟はすこぶる性格が悪い、といろんな人から聞いていたからだ。目の前のこの相手より性格が悪そうな人はなかなかいない。
「新入りのくせに先輩に挨拶なしってどうなの」
まるでチンピラのような絡み方だった。いまどき不良は流行らないですよ、と言いたかったけれど、余計に面倒なことになりそうだったのでやめておいた。
「任務でご不在だったので、お会いする機会がなかっただけです」
「あっそ。で?」
「ミョウジナマエです。よろしくお願いします。では」
丁寧に一礼して踵を返そうとした私の腕を、五条さんの手がむんずと掴んできた。痛くはなかったけれど、ただでは離してくれなさそうだった。
「……あの、まだなにか?」
「お前さ、俺のこと誰だかわかってんの?」
「三年の五条悟先輩ですよね」
存じてます、と言えば、彼はなんだか変な顔をした。私はなにも間違えていないと思うのだが。
「……それだけ?」
「とても優秀な呪術師と伺いました」
「ふーん」
「図書室に行きたいので、もういいですか?」
早く行かないと図書室が閉まってしまう。昨日借りた本を返して、新しいのを仕入れたいのだ。寝る前の読書が私の毎日の癒しだった。
そわそわする私をじっと見た五条さんは、急に楽しそうにニヤリと笑って、なぜだか得意げに胸をそらした。
「俺も行く」
「はあ」
図書室に行くという意味だろうか。わざわざ私に宣言しなくても、勝手に行けばいいと思う。生徒は誰でも入れるのだし。
「いいんじゃないでしょうか。では」
「は?」
まだなにか言いたげな五条さんを無視して、私は再び頭を下げた。ここにいたらいつまで経っても絡まれそうだ。私の図書室タイムがもったいない。
しかし、そうして早足で歩き出した私の隣を、背の高い影がぴったりついてくる。なぜ。
「あの、なんでついてくるんですか」
「俺も図書室行くんだよ」
その長い足でさっさと先に行けばいいものを。いい加減面倒になって、私は考えるのを放棄した。
「……勝手にしてください」
それからの五条さんは、文字通り勝手なことしかしなかった。隙あらば毎日のように図書室にやってきて、私が本を探す間どうでもいいことを喋りながら後ろをウロチョロするし、人が読書に集中していようがお構いなしに髪をいじってきたり、変な落書きを見せてきたりした。うざったいので部屋で本を読むようにしたら、今度はドアの隙間から不幸の手紙を差し入れてくるようになった。勝手にしろと言ったことを私は死ぬほど後悔した。
さらに彼は自身が卒業してからも、あらゆる手段で私に構ってきた。東京にいては埒があかないと思った私は、京都校での教職のお誘いにこれ幸いと飛びついた。京都に行ってからはさすがに少し落ち着いたものの、それでもたまにメールや電話が来ることがあった。ほとんど無視していたけれど。
ただ一度だけ、五条さんが出張で京都に来た際に二人で食事に出かけたことがある。ずっと行ってみたかった料亭の予約を、五条さんが取ってくれたからだ。
五条さんと二人で出かけることと、憧れの料亭とを天秤にかけ、苦渋の思いで私は誘いを受けた。どんな恩着せがましいことを言われるかと覚悟して行ったが、彼は意外にも、私がたらふく飲み食いするのを満足そうに眺めていただけだった。
五条さんにもいいところはあるのだな、と思ったのはそれ一度きりだ。決して、食べ物に釣られたわけではない。
思い返して、私はあらためて目の前の五条悟を見た。彼はソファの上で足をばたつかせて遊んでいる。これでちゃんと先生が務まっているのだろうか。生徒たちの未来を憂いていると、不意にその不貞腐れた顔がこちらを向いた。
「だってこないだデートしたじゃん」
私は耳を疑った。いまなんて? 私が五条さんとデートなどするはずがないじゃないか。
まったく身に覚えがないという顔をすると、五条さんはガバッと体を起こしてこちらに身を乗り出してきた。人を指差してはいけません。
「京都で飯食ったよね? 忘れたの?」
「あれはただの食事でしょう」
「妙齢の男女が二人きりで食事したらそれはもうデートでしょ」
「デートじゃないです」
ここはきっぱりと言ってやらねばならない。私が断固折れないとみるや、五条さんの薄い唇が大袈裟に歪んだ。
「ひどいよナマエ、僕はデートのつもりで張り切って行ったのに」
五条さんはわざとらしく悲痛な声を上げて、僕を弄んだの、などと嘘泣きを始めた。人聞きの悪いことを言わないでもらいたい。いつも周りの人間をおもちゃのように弄んでいるくせに。
「こんなに僕の心を傷つけて、これはもうチョコで埋め合わせするしかないよナマエ」
「チョコが食べたいだけじゃないですか」
「ナマエの! チョコがほしいの、僕は」
珍しくムキになった五条さんに、私は少したじろいだ。子供っぽいのはいつものことだが、ひとつの物事にこんなにこだわるところはあまり見たことがない。なぜか罪悪感のようなものを覚えてしまう。いや私は悪くないはずなのだが。
「……ないですよ、そんなの」
ないものはない。そう言ってやれば、五条さんはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「……ふうん」
彼はそのまま、勢いをつけてソファから立ち上がった。やっと諦めてくれたようでホッとする。
そろそろ夜蛾先生が来る時間だ。鞄から資料を取り出そうとしたとき、出口に向かっていたはずの五条さんの足が私の真横で止まった。
「じゃあ、これでいいや」
ぺろり。
不意に生温かい感触があった。続いて、目隠しの下から覗いた青い瞳と視線が絡まる。べっと舌を出した五条さんを見て、唇を舐められたのだと気づいた。
「え」
「ごちそうさま」
五条さんは長い足を優雅に動かして戸口に立つと、悪辣な笑みを浮かべて私を振り返った。
「ホワイトデー、楽しみにしててね」
十分後に夜蛾先生がやってくるまで、私は口元を拭うことも忘れて固まっていた。
「………悟が何かしたか」
「………いえ、まったく、何も」
—
ホワイトデーに押し切られてデートしちゃう後輩。
Title by 誰花