少年詩

※「少女文学」の五条側

 

 

「なあ傑」
「うん」
「……俺、ナマエのこと好きなんだけど」
「だろうね」
「は?」
「ん?」

思わず間抜けな声を上げた俺に、傑はいつも通りの涼しげな顔を向けてきた。だろうね、ってなんだよ。

「……なんかもっとこう、驚くとかねえの」
「逆に聞くけど、もしかして隠してるつもりだったのか?」

読んでいた本に再び視線を落としつつ、ことさらおかしそうに訊ねる傑は、人のベッドに陣取って優雅に読書を決め込んでいる。部屋の主である俺はといえば、背もたれのついた椅子に反対向きに跨って、さっきまで漫画を読んでいた。途中で登場したモブっぽい女キャラがどことなくナマエに似ていたから、思いつきでその名前を口にした。

漫画を閉じて後ろ手で机に放り投げ、固い背もたれに顎を預ける。傑が淡々とページを捲る音だけが静かな部屋に響いた。どう答えたものかと思案していると、傑は追い討ちをかけるようにまた口を開いた。

「私はてっきり、周りを牽制したくてああいう態度をとってるのかと」
「……ああいうって」
「ナマエが可愛くて仕方ない、って態度」
「…………」

俺は今度こそ閉口した。別に周りにバレようがどうってことないが、そこまであからさまな自覚はなかった。

「違ったのかい?」
「……あーあーもういいよクソが」

切長の目には意地の悪い笑みが浮かんでいる。こっち見んな。

俺は深く息を吐いて、古びた窓の外を仰いだ。抜けるような青空が広がっている。季節は秋で、ちょうど呪術界における繁忙期が終わりつつある頃だった。

夏の間、目の回るような任務続きの日々を駆け抜けてふと息をついたとき、思い出すのはいつも同じ顔だった。ミョウジナマエ。同級生の女。特に強くも弱くもなく、目立ちもしないが地味でもない、まさに平凡を絵に描いたようなやつだった。

『五条くんて、すごく背が高いね』

初めて出会った日、そう言ってふにゃりと相好を崩したナマエを見て、随分と素直に笑うやつだな、と思った。

なんだか無性に胸に沁みる笑顔だった。ナマエが笑うと、周りの空気がやんわりとふやけるような、不思議な心地がした。後になってから、ナマエの家は元々、呪術とはなんの縁もない一般の家系だったと聞いて、妙に納得した覚えがある。

たぶん、俺は呪術界に慣れすぎていたんだろう。
物心つく前から周りは呪いと他人の思惑まみれで、特に五条家に寄ってくる連中などは、どれだけ上っ面が良くても腹の中では何を考えているか知れたものではなかった。そういう人間ばかり見ていた俺にとって、ナマエは突然降ってきた異星人みたいなものだ。本人はいたって普通にしているつもりでも、俺にとっては普通じゃない。ただそれだけのことで、でも俺はナマエに惹かれた。

「悟、入学した頃から好きだったろう」
「そこまでわかってんのかよ……お前が俺のこと大好きか?」
「よく今まで手を出さなかったね」

おどけて大袈裟に肩をすくめた俺をまるっと無視して、傑は言葉を重ねた。人を節操無しみたいに言うな。そのスカした面をボコボコにしてやろうか。
右手に青筋を立てそうになったとき、ふっと影が差すようにナマエの横顔が脳裏をよぎった。そういえば最近、あいつの笑う顔を正面から見た記憶がない。

「……あいつ、俺に寄り付かねえじゃん」
「はは、さすがの悟も、ナマエを取って食えやしないか」

傑は声を上げて笑った。癪だが事実なので言い返せない。

近頃のナマエは、俺のことを遠ざけているようだった。座る位置はいつも硝子か傑を挟んで反対側、もしくは対角線上。話しかけようとすると、さあっと水が引くように距離を取られた。故に二人きりになることもほとんどない。

元々、同級生に対してすらどこか一歩引いたところのあるやつだが、今回はそんなやんわりとした遠慮とは明らかに性質が違っていた。理由に心当たりがないのが尚更もどかしかった。

最後にまともに話したのは、もう三ヶ月近く前のことだ。

 

「よお」
「五条……」

寮の共有スペースで見かけたナマエは、俺を見るなり「しまった」という顔をした。そんなあからさまな態度を取られると、さすがの俺も心が折れそうになる。

深夜の寮には人気がなく、遠くで静かに鳴く蛙の声がよく聞こえた。ナマエはソファに腰掛けて、ぼうっとテレビを見ていた。画面には古いフランス映画が流れ、ナマエの小さな顔を青白く照らしていた。

「どうしたの、こんな時間に」
「飲みもん取りに来た」

冷蔵庫にあったお茶のペットボトルを取ってから、俺は無断でナマエの隣に腰を下ろした。華奢な体がぴくりと跳ね、そのあとじりじりと端の方へ寄っていく。そんなに嫌がらなくてもいいだろうが。

「……珍しいじゃん、ナマエがこんなん見てるの」
「………うん」

短く答えたきり、ナマエは何も喋らなかった。ただまっすぐにテレビの画面を見つめて、呼吸すら潜めているように見えた。

いっそのこと、無理やり引き寄せてしまおうか。そんなことを考えたときだった。

「……あの。私もう寝るから、テレビ使っていいよ」
「は、続き見ねえの?」
「うん」

ナマエの声は意外なほどきっぱりしていた。画面の中では、主人公の女が凪いだ海をただ見つめている。

引き止めようか。なんで俺を避けているのか理由を問いただそうか。口を開いたところで、うまい言葉がすぐには出て来なかった。

「背伸びして見てみたけど、やっぱ私には難しいや」

ナマエは途方に暮れたように眉尻を下げて俺を見た。ねえどうしたらいい? そう訊かれているような気がした。そんな顔を見たら、俺はもう何も言えなくなってしまった。

 

それで結局は何もわからず解決もしないまま、俺たちは任務の波に呑まれていって、まともに顔も合わせないまま秋になった。今日は久しぶりに4人ともオフのはずだが、ナマエは硝子と連れ立って朝から出かけて行った。

誓って言うが、俺はナマエ相手には悪ふざけを仕掛けたことがない。というか、あいつのへにゃっとした顔を見るとそんなことをする気にもなれないのだった。それでもこうなってしまったのは、やはり日頃の行いのせいなのだろうか。

「ナマエは真面目だからね。悟みたいな不良とは関わりたくないんじゃないか」
「……やっぱ取って食っちまうか」

ぼそっとこぼした俺の言葉を、傑は鼻で笑い飛ばした。できるものならやってみろ。そう顔に書いてある。つくづく性格の悪い野郎だ。

今までも、手を出そうと思わなかったと言えば嘘になる。他人が勝手に引いた線を踏み越えることなど、道端の花を手折るように簡単だ。でもそうやって折ってしまったら最後、二度と元には戻らないこともわかっている。だから勢いだけではどうにもできなかった。少なくとも、その他人がナマエであるのなら。

「で、これからどうする気だい?」
「なに、これってなんの尋問?」

傑はいつの間にか本を閉じ、ベッドの縁に腰掛けてこちらを見ていた。試すような視線が疎ましい。

「ナマエは結構、上級生にウケがいいんだよ。本人は気づいてないみたいだけど」
「……知ってる」

ウケがいい、などという可愛らしいものではない。わざと遠回しな言い方をするところが忌々しく、思わず舌打ちが出た。
要は、自尊心が低く、押しに弱く、自己主張の少ないナマエを、隙あらば籠絡しようという輩が少なからずいるということだ。考えただけで胸糞悪い。

「この前も、クソみてーに手加減した三年と組手してたしな。ぶっ潰したけど」
「見てたよ」
「見んなよ」

その三年が手心を加えてナマエの気を引こうとしているのは明らかだった。あまりにも生ぬるいやり方をするので、うっかり半殺しにしてしまった。
強いやつとやりたいなら俺と組めよ。そう言おうとして振り返ったら、ナマエは引き攣った顔で後ずさりした後、硝子のもとへ逃げていった。いま思い返してもクソみたいな出来事だ。

「カッコつけてドン引きされて逃げられる悟が面白……ふふっ、不憫でね」
「オイいまなんつった表出ろ」

傑はついに吹き出して、ギャハハと下品に笑い転げた。こいつに見られたのは不覚だった。まったくどいつもこいつも俺の苦労をまるでわかっていない。ナマエもナマエで、鈍感も大概にしろと言いたい。あのままではいつどんなクズ男に捕まるかわかったものではない。なんか腹立ってきた。

「冗談はさておき、大切なら早く手元に収めておくことだね」
「言われなくてもなんとかするっつーの」

ひとしきり笑った後、傑は本を手に取り立ち上がった。尋問は終わりらしい。

ナマエがどんな理由で俺を避けているにせよ、みすみす逃がしてやるつもりはなかった。まず手始めに、次に会ったら意地でも隣に座らせてやる。特級のしぶとさ舐めんなよ。

「——ところで悟。日曜、『バイオアワード3』観に行かない?」

少年詩

「ナマエ、キスしていい?」
「……………え!!?」

 

 


好きな子に対して悪ふざけ抜きでの絡み方がわからない五条くんだったら可愛いな、というお話。

Title by 天文学