ドーナツの穴が誰かの目である事

「ナマエちゃんせんせー、さよーなら!」

元気な声が通り過ぎて行った。風が巻き起こるほどのスピードで私を追い越したのは虎杖悠仁だ。五十メートルを三秒で走るらしい。車か?

「悠仁、危ないから廊下は走っちゃダメ!」
「ダイジョーブ! 俺、頑丈だからー!」
「あんたに轢かれる方が大丈夫じゃないんだよ!」

あっという間に遠くなる赤髪に向かって叫ぶ。夕暮れ時の高専の渡り廊下に、私の声は虚しく響いた。聞こえてないんだろうなあ。

呪術師の任務の傍ら、高専の非常勤講師として働き始めたのはつい最近のことだ。本当は教師なんて柄じゃないのだけど、他ならぬ五条悟に頼み込まれて渋々承諾した。
自分が不在の時の生徒たちのケアのため、などとうそぶいておいて、つまるところ体よく自分の雑務を押し付ける相手が欲しいのだろうとはすぐに察しがついた。特級術師と教師の二足の草鞋はたいそう忙しいようだし、それでなくても人を困らせるのが趣味みたいなやつだ。

ただ、そうとわかっていても、私はどうにも五条の頼み事を断ることができなかった。あの素晴らしく整った顔で「お願い」などと言われると、断るほうが鬼か悪魔のような気分にさせられる。それに——

思いを巡らせたところで、また後ろから声がして私ははたと我に返った。

「……ったくアイツは、猪突猛進しか芸がないわね」
「同感」

今度は普通のスピードで歩いてきた釘崎野薔薇と伏黒恵だ。悠仁と三人まとめて今年の一年生。まだ出会ったばかりだが、彼らも呪術師のご多聞に漏れずなかなか個性豊かなので、どんな子たちなのかはもうだいたい理解していた。

この二人は歳の割に大人びていて、悠仁よりはまだ落ち着きがある。が、表面上いい子に見える恵は実際ガンコで私の話なんか聞きやしないし、野薔薇に至っては速攻で私を下の名前で呼び捨てにするようになった。五条はいったいどんな教育をしているのだ、と憤慨しかけたところで、彼にそんなものを期待するほうが間違っていると思い直した。

要するに私は、初っ端から先生としての尊厳を保つことに失敗していた。まあ教師というだけで尊敬しろなどと偉そうなことは言うつもりもないが、それにしたって私も一応は呪術師としてそれなりの経験を積んできたのだから、もうちょっとくらい先生風を吹かせてみたりもしたかった。

「二人とも、悠仁に廊下走るなって言っといて。死人が出るから」
「言っても聞かないわよアイツ。鳥頭だし」

野薔薇はにべもなく言い放つ。言っても聞かないだろうことには同感だ。

「んなことよりナマエ、使ってない化粧水くれるって言ったの忘れないでよね。SK-IIIのやつ」
「あーはいはいわかったわかった」

私を指差してのたまう野薔薇はどこまでもふてぶてしい。その図太さがあればきっと術師として大成するだろうな。つんと澄まして歩く野薔薇を見てそんなことを思っていると、何か言いたげな黒い瞳と視線がかち合った。

「どしたの、恵」
「ミョウジ先生のこと、五条先生が探してましたけど」
「え、ほんと? あとで連絡してみるね」
「……ミョウジ先生って」

恵がじっとこちらを見つめてきて、私は内心どきりとした。しかし、あくまでも表には出さないように努める。呪術師はポーカーフェイスが大事だ。まさにいま目の前にお手本があるわけだが。

「伏黒ォ、早く行くわよ。腹減った」
「……おー。いま行く」

恵が口を開きかけたとき、先を行く野薔薇が彼を急かした。恵はまだこちらを気にしていたが、結局何も言わず足早に野薔薇の隣に並んだ。助かった。

「……あ! 課題のプリント、明日までだからね!」

ほっとしたところでようやく教師の本懐を思い出し、取ってつけたように言葉を投げる。二人は背を向けたままひらひらと手を振って行ってしまった。やはり私に先生の威厳はないようだ。

二人を見送って、ふうと息をついたときだった。

「熱心だねえ、ナマエちゃんセンセ」

肩にずしりと重みがかかって、私は今度こそがっくりと項垂れた。次から次へと、人の背後を取るのもいい加減にしてほしい。

「……五条、私やっぱ教師向いてないよ」
「はっはー、ナマエは童顔でチビだから舐められてるんでしょ」
「童顔はあんたに言われたくないんだけど」

じとりと睨み上げてやっても、五条はへらへら笑うだけだった。

「ていうか、僕と付き合ってることまだ秘密にしてるの?」
「当たり前でしょ、生徒の手前」
「僕は別に知られてもいいけどね」

そのほうが燃えるでしょ、と挑戦的な顔をする五条にはつっこまないことにした。こいつの性癖はどうでもいいが、ただでさえ失いかけている私の尊厳は守らねばならない。

五条と付き合い始めたのは、高専を卒業して数年経った頃だった。実はずっと好きだったんだよね、と言われてぽかんとしたときのことはよく覚えている。だってお互いずっとクラスメイトとして、同僚として接してきたはずで、それ以外の感情がそこに存在し得るなんてこれっぽっちも考えたことがなかった。

最初、いつもの冗談か何かかと疑った私は適当にあしらっていたのだけれど、その後も開き直ったように何度も告白してくる五条に、結局は絆されてしまったのだった。いまでは私の方が夢中になってしまってるだなんて、口が裂けても言えない話だ。そういえば、高専って職場内恋愛オッケーなのかな。

「ナマエは真面目だからちゃんと先生やってくれるだろうとは思ってたけど、予想以上だったね」
「ちゃんとやれてるのかなあ、これ」
「やれてるよ。妬けちゃうくらいね」

力なくぼやく私に、五条は喉奥で笑ったかと思うと、その黒い目隠しを指で引っ張り下ろした。途端に露わになった空色の瞳に心臓が跳ねる。

五条の見た目は、学生時代からほとんど変わっていない。無下限に加えて不老不死の術式でも持っているんじゃないかと疑いたくなるほどだ。そして昔持っていた粗暴さや青臭さを脱ぎ去った今の彼には、代わりに匂い立つような色香が備わっている。

私の背後の柱に手をついて、五条は楽しそうにこちらを見下ろした。背の高い五条の影にすっぽり覆わると、心の内まで覗かれているような、なんだか心許ない気持ちになる。五条はそんな私に気づいていて、わざとこういうことをするのだ。とことん性格がひねくれている。

「生徒の面倒もいいけどさあ、僕のことでも困ってみせてよ」

元はと言えばあんたが頼んできたんでしょう、と文句をつけたくなった。無茶苦茶を言う男だ。これ以上私の心労を増やしてどうするつもりなのだろう。現にいまだって、変な動悸がして困っている。

「五条にはいつだって困ってるよ」
「もっとだよ」

青い瞳が閃いて、次の瞬間には唇に柔らかい感覚が降ってきた。押し付けるようなキスの後、私の眼前でニコニコしている五条に愕然とする。ちょっとちょっと、ここ学校ですけど!?

「ちょっ、と……! 校内は」
「どーせ誰もいないって。少子化深刻なの」
「五、」

制止する私の手を絡め取った五条は、言葉ごと貪るように深く口付けてきた。今度はたっぷりと私の口内を弄び、ゆうに十秒は経ったかという頃ようやく唇を離す。息をついた私は慌てて口元を拭って、けらけら笑う五条を睨みつけた。破天荒なところは嫌になるくらい変わっていない。

「そんな赤い顔で睨んでも怖くないよ〜」
「……やっぱあんたが一番の問題児だわ……!」

余裕綽々の表情が心底憎たらしい。昔からこの顔をされて勝てたことがないのを思い出す。その証拠にほら、にやりと歪んだ口から覗く赤い舌に、もう目を奪われている。

「だってナマエの困った顔、最高に可愛いんだもん」

この学校には私の言うことをまともに聞いてくれる人はいないのか。もう転職しようかな。

ドーナツの穴が誰かの目である事

「うわっチューした!!」
「ちょ、教師が学校でなにやってんのよ……!」
「おい釘崎押すなって、バレちゃうだろ」
「あんたの頭が邪魔で見えない!」

「……(五条先生、あれ気づいててやってるな)」

 

 


手元に置いておきたくて教職に引きずり込んだら逆にあんまり構ってもらえなくなっちゃった五条先生と、周りにバレてないと思ってるのは自分だけな彼女。

Title by 天文学