振り返れば夏の淵

※高専時代
※細かい時系列はスルーしてお読みください

 

 

今日の五条はなんだか変だ。
いや普段がまともだと言いたいわけではなく、今日はなんというか、静かすぎる。

真夏の午後、黙って隣を歩く黒い影を横目で盗み見る。頭の位置が高すぎて、その表情を窺うことはできなかった。

思い返せば、朝から様子がおかしかった。
今日は五条と二人での任務で、彼の遅刻癖をよく知っている私は、わざと集合時間ぴったりに寮を出た。そして待ち合わせ場所に着いてみると、なんとそこにはすでに五条の姿があった。唖然とする私に彼は「おせーよ」とだけ言って、さっさと迎えの車に乗り込んでしまった。もしかしてまだ夢の中にいるのかと思って頬をつねってみたら、ちゃんと痛かった。

任務中もそうだ。私がちょっとしたヘマをして五条との連携が乱れた。いつもだったらキレ散らかすかネチネチ嫌味を言ってくるか、最低でも馬鹿にしたように鼻で笑ってくるくらいはするはずなのに、今日は「気をつけろよ」とかちょっと注意されただけだった。それどころか、私が苦戦していた呪霊を代わりに祓ってくれさえした。

そして極めつけは帰り道だ。同行した補助監督に急ぎで別の現場が入ったとかで、大きな怪我もなかった私たちは、あとは自力で帰れと途中で車を降ろされた。私は呪具や呪符をたくさん使うのでいつも重たい荷物を背負っている。この暑いのにやだなあ、と思っていたら、車を降りた五条は何も言わずにそれをひょいと担いでスタスタ歩き出した。天地がひっくり返ったかと思った。

そんなわけで、いま、私たちは炎天下を一緒に歩いている。五条は暑いとも重いとも言わない。いつもならうるさいほど文句を垂れているはずだ。それでなくても私たちは普段から喧嘩が絶えないのに、今日は全然突っかかってこない。それが嵐の前の静けさみたいで怖かった。

五条とは同級生としてそこそこの時間を重ねてきたけれど、高慢な彼と負けず嫌いの私は当然のように反発しあってばかりいた。「雑魚」と呼ばれれば「クズ」と返したし、ノートに落書きされたら五条の机の中身をぜんぶ窓から捨ててやったし、真冬に背中に氷を入れられたときはグーで殴り返した。当たらなかったけど。

それこそ、そこらの女の子だったら泣いちゃうかもしれない悪ふざけや、普通の男の子だったらドン引きしちゃいそうな仕返しもやりあった。もちろん本気で呪いあうようなことはなかったけれど、ただの同級生というには些か苛烈な、そんな仲だ。

そうやって過ごしてきた私たちは、顔を合わせれば口喧嘩が常だったので、こんなに静かな五条を見たのは初めてかもしれなかった。ましてや私に親切にする五条悟なんて、ドッペルゲンガーかそっくりさんだとでも言われたほうがまだ納得できる。淡々と私の荷物を持って歩く五条を見ていたらいよいよ気味が悪くなってきて、少し距離ができてしまった彼の制服の裾を引っ張った。

「ご、五条……大丈夫?」
「なにが」

少しだけこちらを見た五条の平たい声に、怯みそうになる。足をぐっと踏ん張って、いつも通りの軽い口調を意識した。

「具合でも悪い? 変なもの食べたんじゃない?」
「悪くねーし食ってねーよ」

五条は短く答えて、すぐにまた歩き出した。掴んでいた服の裾が手から離れていく。なんなの。大人しすぎて怖いんですけど。

明らかに様子がおかしいことはわかるのに、私には原因がまったく思いつかなかった。昨日までは普通だったはずだ。プリンを勝手に食べただの食べてないだのって夏油と喧嘩しているのを見た。

呪いや霊の類でないのなら、もしや、ついに本当に嫌われたのかもしれないと考えるほかなかった。思い当たる節は……、だめだ、たくさんありすぎる。積もり積もって、口も利きたくなくなっちゃったとか? でもわざわざ嫌いな相手の荷物を持ってあげたりするだろうか。高度な嫌がらせ?

ひとしきり考えて、私はふうと息をついた。本当にそうだとしたら。いつも喧嘩ばかりしているとはいえ、同級生に本気で嫌われるのは結構きついなあ。卒業までまだまだあるのに。
胸の奥にもやもやしたものが広がるのを感じながら、相変わらず口数の少ない五条の後ろをついていく。白い後頭部からはなんの感情も読み取れなかった。

焼けつくようなアスファルトの上を二人黙って歩いていると、頭がおかしくなりそうだった。平和を通り越して、タチの悪い白昼夢か何かかと思う。だからいつものコンビニの看板が目に入ったとき、心底ほっとした。この変な空気ももうすぐ終わるはずだ。気が抜けた私は、つい普段の調子で声をかけてしまった。

「ねえ五条アイス奢ってよ」
「はあ? お前、」

あ、いつもの顔だ。

振り返った五条は、不機嫌そうに口元を歪めていた。それを見た私はなぜだか安心してしまう。その顔で「お前調子乗んなよ」って言うんでしょ。わかってるよ。

——しかし私の期待に反して、その表情はすぐに引っ込んでしまった。

「……ったく、待ってろ」
「え」

ぼそっと言って、五条はそのまま早足でコンビニに入って行った。え、なんで。絶対怒ると思ったのに。

 

「ほら」

戻ってきた五条はアイスを二本持っていた。五条がいつも食べてるバニラのやつと、私の好きなチョコのやつ。五条と並んで駐車場の柵にもたれて、茶色の袋をばりっと破る。でも、どうしてか全然食べる気になれなかった。

「……五条」
「なんだよ。食わねーの?」
「私、何かした?」

思い切って問うた私に、五条は目を丸くした。いつもとんがってる私が殊勝な態度を見せたせいだろう。普段の五条なら絶対からかってくるはずなのに、彼はそうせずにただふいっと視線を逸らした。その仕草だけで、心臓を抉られたような心地がした。

「……別に?」
「……でも、だって、なんか、変じゃん」
「………」

五条は何も言わない。

……ああ、嫌だな。五条の考えていることなんていつも手に取るようにわかっていたのに、今日はひとつもわからない。それがこんなに苦しい。どうかしているのは私のほうだ。

空は馬鹿みたいに晴れ渡って、額からは汗が流れて、なのに私の指先はどんどん冷えていって、情けないほど喉が震えた。

「私に怒ってるなら、謝るから……だから……」

だから、いつもみたいにしてよ。

その消え入りそうな願いが自分の口から出たものだなんて、考えたくもなかった。どうして私、さみしいなんて思ってるんだろう。五条の顔を見ることができない。ジリジリとけたたましく鳴く蝉の声に押し潰されそうだ。落ちた視線の先で、溶けかけのアイスがぐにゃりと歪んだ。

「………傑が」

チョコレートの雫が私の指に伝う寸前、ぽつりとこぼすように五条が言った。

「……は……?」
「もっと優しくしろ、って」

なんで、夏油が出てくる。

混乱したまま顔を上げた私を、五条はまっすぐに見ていた。拗ねた子供のような表情で、でも今度は目を逸らさなかった。こんなに日差しが強いというのに、鮮やかな青い瞳だけがやけにキラキラと輝いて見えた。

「……好きなやつには」

右手に持ったアイスがついに崩れ落ちてアスファルトを汚しても、私は動くことができなかった。五条が私の空いた手首を掴んで歩き出す。異様に熱いその手のひらも、くらくらする私の頭も、たぶん夏のせいだけじゃない。

振り返れば夏の淵


顔を真っ赤にして帰ってきた女の子を見て夏油さんが爆笑する。

Title by 誰花