幸福のしっぽのにおいがする

「いい匂いがしてきたねえ」
「してきたねえ」

炊飯器から立ち上る白い湯気に鼻を寄せて、甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。もうすぐ炊き上がる、ほかほかでつやつやの白米に想いを馳せる。うっとりと目を細めた私の隣で、悟も同じように浮かれた声を上げた。

ダイニングテーブルに置いたカセットコンロの上には、大きな土鍋が鎮座している。それからどっさり盛られた野菜と、五人分の食器。冷蔵庫には悟が買い付けてきた高級なお肉が眠っている。今日は私の家で鍋パーティーを開くのだ。寒い冬の日にみんなで集まってつつく鍋ほど美味しいものはない。

「これで一通り準備できたね」
「さすが、ナマエは手際が良くて助かるよ」

ほとんど手伝いもせず私の周りをウロチョロしていただけの悟だが、おべっかだけは一丁前だ。そうとわかっていても、単純な私は悟に褒められるとすぐに嬉しくなってしまう。にやける私の頭を、悟は満足げな顔で撫でた。

ちょうどそのとき、悟のポケットでスマホが振動する音がした。

「お、悠仁たちかな」

悟は長い指でスマホを取り出し、メッセージアプリの画面を操作している。

「いま駅に着いて、スーパーに寄ってから来るって」

何か買ってきてもらう?と訊かれた私は少し考えてから、食後につまむお菓子をお願いすることにした。ごはんもいいけれど、お茶とお菓子を囲みながらお喋りするのも楽しいよね。

いまからここに来てくれるみんなのことを考え、私はわくわくする気持ちを募らせた。悟の教え子さんたち——虎杖くん、伏黒くんに、釘崎さん。高専に立ち寄ったときに挨拶はしたことがあるけれど、あんまり時間がなかったから、ちゃんとお話しするのは初めてだ。悟の話ではみんな優秀な呪術師だというし、楽しみだな。

「なーに笑ってんの? ご機嫌だねえ」

ひとりでそわそわしていると、やはり表情に出てしまっていたようで、悟が私の顔を覗き込んできた。

「うん、みんなとお話しするの楽しみだなーって」
「そりゃよかった。ナマエんちで鍋パーティーするって勝手に決めちゃったから、もっと怒られるかと思ってたよ」

悪びれる様子もなく言われて、はたと思い出す。そうだった。おとといの夜、急に悟から「週末に鍋するから準備よろしく」という電話が来て、私は初めてこのパーティーのことを知らされたのだ。怒られそうなことをしているいう自覚だけはあるのが、逆にタチが悪い。けれど悟と付き合っていればこんなの日常茶飯事で、もう驚くことも腹を立てることもなくなっていた。順応って怖いな。

「悟があれこれ勝手に決めるのなんていつものことだもん。もう慣れちゃったよ」
「よくわかってるね〜! それでこそ僕のナマエ。いい子いい子」

悟はことさらに嬉しそうな顔をして、また私の頭をぐりぐり撫でた。こうしておだてられて、いいように使われているだけな気がしなくもない。

「……悟、とりあえず褒めとけばいいと思ってるでしょ」
「え、ちがうの?」
「もー!」

けらけら笑う悟に、私は大袈裟にそっぽを向いて見せた。あんまり甘い顔をしてこれ以上悟のワガママを助長してもいけない。いつも硝子から言われているのだ。「お前が甘やかすから五条はますます調子に乗る。ちゃんと尻に敷いておけよ」って。

悟がまた背後をうろうろしている気配がするけれど、無視してシンクに向かう。みんなが来る前に、散らかった調理器具を片付けてしまおう。そう思ってスポンジを手に取ったとき、しゅるりと何かを解く音がして、腰に巻いていたカフェエプロンが床に落ちた。十中八九、というか完全に、悟の仕業だ。

「……悟、いたずらしない」
「んー?」

エプロンの代わりに、悟の長い腕が私のお腹に絡んでくる。なんのこと?なんてトボけながら、悟は後ろから私をぎゅっと抱きしめた。暇すぎて構ってほしいのかな、と半ば呆れていると、その指はさらにするすると動いて私の服の下に潜り込もうとしている。私は慌てて悟の手首を捕まえた。

「……あのぉ、悟くーん?」
「どうかした?」
「この手は何なのかなあ〜?」
「いやー、エプロンしてキッチンに立ってるナマエがさあ」

徐々に力を込めてくる腕をぐっと抑えながら横を向けば、あでやかに微笑んだ悟の顔がすぐそばにあった。

「なんかこう、新妻〜ってカンジで、そそる」
「そ……!?」

この男、綺麗な顔でとんでもないことを言っている。
これから教え子が来るというこの状況で何を考えているのか、私は言葉を失った。が、すぐに頭を振って正気を保つ。悟のペースに巻き込まれたら終わりだ。

「だ、だめだよ!? もうすぐみんな来るのに……!」
「でも駅からここまでかなり離れてるし、買い出しもあるからまだ当分かかるでしょ」
「いや、そうだけどっ……」
「心配しなくても、ちゃんと最後までしてあげるよ?」
「そそそそういう問題じゃない!!」

事もなげに言ってのける悟が恐ろしい。してあげるよ?じゃないんだよ。なんとか腕から抜け出そうとじたばたしてみるが、がっちり抱きしめられていてびくともしない。見た目は細いくせに、びっくりするくらい力が強いのだ。顔を真っ赤にして暴れる私を、悟は能天気な顔で見ている。

そうやって不毛な戦いを繰り広げていると、不意に足元に落ちたエプロンが目に入った。さっき悟が言っていたことを思い出す。……動揺して聞き流していたけれど、あれはただの冗談、なのかな。冷静になって考えたら心臓が変な風に跳ねた。恥ずかしさと、真意を知りたい気持ちとがごちゃ混ぜになり、つい口走ってしまう。

「そもそも、わ、私……妻じゃない、し……」

もしそうなれたら、嬉しいけど。

もごもごと呟けば、急に沈黙が降りる。気まずくなってちらりと悟の顔を盗み見ると、彼はぽかんと口を開けていた。あ、まずいこと言ったかなと少し後悔する。

やっぱ今のなし、と言いかけたとき、悟がふっと息を漏らした。その唇がゆるやかに弧を描いていく。それはいつもの意地悪な顔じゃなくて、とても優しい笑顔になった。

「……正確には『まだ』、ね」

悟が目を細めてあんまり幸せそうに笑うので、私は胸がぎゅっとなって、なぜだか泣きたくなった。悟はいつも反則ばっかりだ。不意打ちでそんな顔するなんて、私はもう何も言えなくなっちゃうじゃないか。

赤くなった私の鼻先に、悟の形の良い鼻がちょんと触れる。トドメを刺すように甘い声でささやかれて、私はもう陥落寸前だった。

「ね、いいでしょ?」
「……う、」
「ナマエも僕のこと、好きだろ?」
「……す、好き、です…」
「ん。よくできました」
「……ばか」

悟はふふっと可愛く笑って、その一秒後にはえげつないキスをくれた。
こうやって悟の唇を受け入れてしまう私も、大概ばかだ。

幸福のしっぽのにおいがする


しばらくしてお菓子をこれでもかと抱えてやって来る虎杖くんと、高級肉にガッツポーズする釘崎さんと、なにかを察する伏黒くんと、結局流されちゃう彼女と、実はちゃっかり遠回りなスーパーを教えていた五条さん。

Title by 天文学