溺れた夏へ

※ハッピーな話ではありません。

 

 

金木犀の香りはあんまり好きじゃない。彼がいなくなった後の季節を思い出すから。

まだ暑さの残る九月の頃、夏油傑は消えた。突然のことだった、ように私には見えた。
私は、夏油傑のことをけっこう気に入っていたのだ。
彼が振り翳すばかみたいな正義感や高尚な理想論は正直うざったかったけれど、授業中に舟を漕いでいる横顔とか、みんなで夜通しゲームをした後の明け方にひとり煙草をくゆらす後ろ姿を、少なくともこっそり写真に残して持っておきたいと思うくらいには好きだった。そうしておけばよかったと、いまになってもふと後悔するくらいには。

くしゃくしゃに皺のついた紙を、指先で丹念に伸ばして広げる。あの頃の夏油傑も私とおんなじ気持ちだったのだろうか。彼の輪郭を脳裏に描き直そうと試みる。それは手を伸ばせば逃げていく蜃気楼みたいにゆらゆら揺れて、ただ優しい色をした何かであったことくらいしか、もう思い出せなかった。

溺れた夏へ

同級生のひとりが、非術師の大量殺人で指名手配犯になった。ひと月ほど前のことだ。

わずか三年余りの私の呪術師人生、奇想天外なことばかりが当たり前のように起こってきたけれど、これほどおかしな話はなかった。担任からそのことを聞いたときは面白くもないギャグだと思ってドッキリカメラを探したし、それが見つからないとわかると今度は急に置き去りにされたような途方もない気持ちになって、隣で木偶の坊みたいに突っ立っている五条のことを三回も見上げた。五条は、でっかい宝石に似た両目をこれでもかと見開いていた。その溢れ落ちそうな空色が、恐ろしいほど綺麗だった。

二週間近く、証拠保全だのなんだので封鎖されていた夏油の部屋は、それが済むとあっという間に空っぽになった。クローゼットからいつもはみ出していた服も、みんなで飲もうって買っておいた梅酒の瓶も、いつだったか五条が飛び跳ねてネジが何個か吹っ飛んだベッドも。まるで夏油傑という存在の証を塵ひとつも残してはならぬと言わんばかりに、何もかもが捨て去られた。

借りてた漫画、まだ持ってるのに、返す本棚もなくなってしまった。

私はカーテンすら取り払われた元・夏油傑の部屋の真ん中に寝そべって、薄く開いた窓の外を夕日が落ちていくのをずっと眺めた。ぴゅうぴゅうと吹き込む風は滴るような甘い花の香りを含んでいる。どこか懐かしくて優しい、思考をゆるやかに麻痺させていく毒みたいな。

「何やってんの」

そのまま目を閉じてしまえば都合の良い夢が見られそうだったのに、不躾な声で私の意識は呼び戻された。

音もなく私の背後に立ったその男は、相変わらず澄み切った青い目をしてこちらを見下ろしていた。下から見るとますます脚が長くて顔が小さくて、腹立たしいからまた私は視線を外へ戻した。

「待ってる」
「何を」
「夏油が帰ってくるかもしれないから」
「帰ってこないよアイツは」
「わかんないじゃん」
「帰ってくるくらいなら最初から出て行かない」
「……わかんない」
「わかってるくせに」

五条の声はひどく淡白で、私が必死になって縋りつこうとしている細い蜘蛛の糸を簡単に断ち落としてしまう。腹立たしい。半身のようだった存在をなくしてもなおこんなに揺るぎなく立っていられる五条が。何より、この人の前でちゃんと強がれない自分自身が。

「アイツはここには戻らない。二度と」

息を吸うごとに肺を侵す花の香りがひどく煩わしい。

金木犀が攫ってしまったのだ。きっとそうだと思いたかった。そうでなければ、こんなにも何かを塗り変えるように強く香り立つ必要なんてないじゃないか。確かにあったはずの彼の残穢や髪の匂い、何もかも私から隠してしまうみたいに。

五条を羨ましいと思う私は、なんと愚かだろう。でも五条は、彼の残した何かをしっかりその手に握っている。私にはとても抱えきれない何か。私には見えない何か。夏油傑が大事に持っていた何か。ほんのカケラだっていいから、私にも分けて欲しかった。ここから立ち上がって出ていく理由になる何かを。

「……これも、わかってると思うけどさあ」

五条が長い脚で軽々と私の体を踏み越えていく。そうして、すっかり暗くなった掃き出し窓を大きく開け放った。花の香りがもっと濃くなる。少しだけ伸びた五条の髪が幻みたいに揺れている。

「傑はお前のこと、けっこう気に入ってたよ」

強い風が、部屋の中を洗い流すように吹き抜けた。一瞬、目を閉じてまた開いた私の頭の上に、手のひらほどの紙切れがひらひら舞い落ちる。掴んでみれば、どこに紛れ込んでいたのか、それは一枚の写真だった。

七月の終わり、四人で行った花火大会。駅のコンビニで誰かが言い出して買ったインスタントカメラ。目立ちたがりのくせに夏油傑は、決して自分が写ろうとはしなかった。

「先に行くよ。僕は」

ここへ来たときと同じように、音もなく五条は部屋を出た。

どこへ行くって言うんだ。あんたらの行く道はおんなじだったはずなのに。そこに私もいたはずなのに。

「……なんで置いてくんだよぉ、ばか……」

どうして、と暴れて当たり散らしたくても、もう誰もいない。

その日、夏油傑がいなくなってから初めて、私は泣いた。
おろしたての浴衣とヘタクソなお団子頭で幸せそうに笑っている、あの夏の私の横顔をくしゃくしゃに握りしめて。

 


Title by 失青