ハッピーエンドビギナーズ

※教師if、二十代前半くらい

 

 

「あ」
「あ」

高専の事務室の入り口を挟んで、互いに短く声を上げた。
扉を開けたわたしの目の前には黒く聳える胸板がある。ちょうどわたしと入れ違いで部屋から出てきたその人はずいぶんと背が高く、でも顔は見えないものの五条くんではないとすぐにわかった。五条くんはもっとヒョロ長い。

「……お疲れ。ナマエ」

わたしの「あ」はただの感嘆符だったけれども、彼の「あ」には明らかに違う感情が含まれていた。言うなれば〝あ。やっちまったな〟〝あ。気まずいな〟の「あ」だ。だけど、見上げた口元にはすでににこやかな笑みが貼り付けられていて、少し眉を下げて笑うその顔を見ると胸がぎゅっと切なくなった。

どうせ取り繕うなら、最初からそうしておいてほしかった。そんな勝手な想いが心の中に溢れる。不意にこぼれた「あ」の一音だけでわたしの心臓がどれほど痛むのか、きっと彼は知らない。

「お疲れ。夏油くん」

つとめて明るく、わたしは答える。昔から、嘘はわたしのほうが上手なのだ。

高専一年生の終わりから三年生の半ばくらいまで、わたしは夏油傑くんの彼女だった。
だった、というのはつまり、いまはそうじゃないということだ。忘れもしない三年生の八月の終わり、季節が夏から秋へ移るのと同じようにして、夏油くんはわたしから離れていった。

『友達に戻ろう』

ただ一言、静かに、夏油くんは言った。場所は放課後の教室だったか、寮の廊下だったか、グラウンドの隅だったか、記憶が濁っていてよく思い出せない。

それって別れるってこと? と聞き返したわたしに、彼は『ごめんね』とだけ呟いた。何に対するごめんねなのかわからなかったけれど、それを聞く勇気はもう残っていなかった。もしも〝ナマエのことを好きでいられなくなってごめん〟なんて謝られたら、わたしは悲しさと惨めさに押し潰されて消えてしまうだろうと思った。
夏油くんは、最後までわたしの顔を見なかった。泣くのを我慢してきっとものすごくブサイクな顔をしていただろうから、それはそれでよかったのかもしれない。そう自分に言い聞かせることで、わたしはようやくそこに立っていられた。

あの日から数年。互いに高専を卒業して、わたしは高専所属の呪術師に、夏油くんは教師になった。いまはただの同期として、友達として、たまに顔を合わせれば当たり障りのない会話をする程度の仲だ。だけどわたしのいる飲み会に夏油くんは来ないし、わたしと二人きりになりそうなタイミングでは事務室にも絶対入ってこない。つまり、避けられているのだ。

別れた後もわたしがずっと夏油くんのことを引きずっていたって、彼はきっと気づいているはずだった。不器用なくせに他人の感情にだけは敏くて、でも〝友達〟のわたしを冷たく突き放すことができないくらいには優しくて、だからこそ、残酷な人だった。

「夏油くんはこれから午後の授業? がんばってね」

にっこりと、屈託のない笑顔を心がける。呑気なフリは得意だ。
お腹空いたなー、とかなんとか適当なセリフをくっつけながら、わたしはさり気なく夏油くんから視線を外した。事務室の入り口は、普通ならおとな二人でもぎりぎりすれ違えるくらいの広さがあるけれど、夏油くんが立ち塞がっているいまは通る隙間がない。〝どいてほしいです〟という意図を示したくて事務室の中を覗き込むと、その視界を塞ぐように夏油くんの体が動いた。

「あのさ」

まだ何か話すのだということに、びっくりした。
別れて以来、三往復以上の会話を交わした記憶がほとんどない。さっきまで二人の間にあった半歩分の距離が埋まって、わたしは再び夏油くんを見上げた。こんなに近くで顔を見るのも久しぶりな気がする。あの頃より伸びた黒髪。少しこけた頬。切れ長の涼しげな瞳が、まっすぐにわたしを見ている。

「……彼氏、できたんだってね」

ひゅ、と息を呑んだ。
よりにもよってその話を振られるなんて思わなかった。鼓動がどきどきと一気に速くなる。……落ち着け。この人とわたしは、いまはただの友達だ。

「……よく知ってるね。五条くんから聞いたの?」
「ああ、うん、話の流れで……」

あのおしゃべり目隠しめ、と心の中で悪態をつく。
この前、硝子ちゃんと五条くんと三人で飲んだときにうっかり口を滑らせてしまったのがいけなかった。五条くんから夏油くんへは何もかも筒抜けだと考えたほうがいい。それにしたってわざわざ夏油くんがわたしに直接それを言ってくるとは思いもよらなかったけれど。
わたしが顔を顰めると、夏油くんは背中を丸めて「ごめん」と謝った。だから、それは何へのごめんなの。

「ナマエ。気を悪くしないでほしいんだけど」

夏油くんの瞳が一瞬、周囲を窺うように左右に振れる。言葉を選ぶ素振りを見せ、それから彼は声を潜めてわたしのほうへ顔を寄せた。

「あの人はやめておいたほうがいい。あまりいい噂を聞かないよ」
「……はあ」

あの人、というのは、わたしの彼氏のことだろうか。真剣な顔でこちらをじっと見つめている夏油くんのことを見つめ返す。

「噂って?」
「……酒癖が悪いとか、いろんな女性に思わせぶりなことをするとか、見かけるたびに新しい彼女を連れているとか」
「はあ」
「ナマエ、騙されてるんじゃないか? それともしつこく言い寄られて仕方なく付き合ったとか……」
「……」
「もし困っているならわた、……悟が、相談に乗るって言っていたから」

ごにょごにょと濁すようにだんだん夏油くんの語尾が小さくなって、最後には聞き取れなくなる。

嘘だ。五条くんは絶対にそんなこと言わない。もし本当に相談したところで彼は「ウケる、男運なさすぎでしょ」とか言って面白がるのがせいぜいである。
ばかばかしい。笑い飛ばそうとして息を吸って、でもうまく笑えなかった。
夏油くんは、どうしてこんな見え透いた嘘をつくんだろう。どうして、自分が相談に乗るって言ってくれないんだろう。そうやって優しくして、わたしがまた夏油くんのことを好きになってしまったら困るから? ――そんなの、そんなのずいぶん勝手じゃないか。

「……ご忠告ありがとう。考えておく」
「ナマエ。余計なお世話かもしれないけど、付き合うならもっとちゃんと相手を選んで、」
「そんなこと言うなら、じゃあ、夏油くんがもう一度わたしと付き合ってよ」

無性に腹が立って、意地悪を言ってやりたくなった。わたしがずっと抱え続けてきたモヤモヤを少しくらい思い知ればいいと思った。でもそうやって口に出した次の瞬間、わたしは激しく後悔することになる。

「……、それは」

驚いたように目をみはった夏油くんは、すぐにへにゃりと眉尻を下げた。この後に告げられる言葉をわたしは知っている。聞きたくなくて、会話を断ち切るように勢いよく踵を返した。事務室に何の用があったのかももう思い出せない。

「だったら夏油くんには関係ないでしょ」
「聞いてくれ。私はただ友人として君を心配して、」
「それこそ余計なお世話だよ」
「だが……」
「もういいから」

背中に、夏油くんが手を伸ばしてくる気配がした。でもそれはわたしに届く前に下ろされてしまう。これ以上一緒にいたら泣いてしまいそうで、わたしは逃げるように廊下を走り抜けた。

もう、ほっといてほしい。わたしをいつまでも〝夏油くんに捨てられた可哀想なナマエ〟でいさせないでほしかった。

 

五条くんからとある居酒屋の住所が送られてきたのは、それから二週間後のことだった。

『硝子と飲んでるよ。お前も来れば?』

メッセージには、メロンソーダとビールのジョッキをそれぞれ持った五条くんと硝子ちゃんの自撮り写真が添えられていた。楽しそう、と思うより先に、二人の間に写り込んだテーブルへ視線が吸い寄せられる。綺麗な焼き色のついた焼き鳥がいっぱい載った大きなお皿や、山盛りのサラダ、舟の形の器に美しく飾られたお造りが並んでいた。この二人にしては珍しく量が多いような気がしたけれど、どれも美味しそうだったから嬉しくなって『行く』とすぐに返事をした。それが迂闊だったのだ。

「……どうして夏油くんがいるの?」

お座敷の引き戸を開けて、まず目に入ったのはテーブルにのしかかるようにして突っ伏している大男の背中だった。長い黒髪は乱れ、荒い呼吸に合わせて隙間から真っ赤になった首筋が見え隠れしている。それでもなおビールのジョッキに手を伸ばそうとする彼の動きを止めることもせず、あまつさえ「がんばれー」などと面白そうに眺めながら、硝子ちゃんが冷酒のグラスを傾けていた。なにこの地獄絵図。

「ねえ。二人で飲んでたんじゃないの」
「〝硝子と〟飲んでるって言っただけじゃん。嘘じゃないもーん」
「かわいこぶるな」

長ーい脚を畳の上に投げ出してけらけら笑っている五条くんを睨みつける。酒が一滴も入っていない白い頬を思いきりつねってやりたくなった。

「まあ座れ。あんたの好きなぼんじりもあるよ」

硝子ちゃんが手招くので、渋々と彼女の隣――つまりは夏油くんの向かいにわたしは腰を下ろした。夏油くんはテーブルの上でごろごろと頭を動かしながら、うんうんと苦しそうに唸っている。この様子だと、わたしが来たことにも気がついていなさそうだ。

「はーいコチラ、好きな女に余計なこと言って怒らせてヘコんでる夏油傑くんでーす」

五条くんが夏油くんの腕を取って、はーい、と挙手させるように持ち上げた。夏油くんの体にはまるで力が入っていないので上半身は相変わらずテーブルの上だし、手首から先はだらんと垂れ下がっているし、へたくそな人形劇みたいだ。……へえ。好きな女、いるんだ。へえ~。

「ナマエ、何飲む?」
「……焼酎。ロックで」
「ひゅう。いいじゃん」

硝子ちゃんが軽快に口笛を吹く。こんなの飲まなきゃやってられない。皿に残った料理を根こそぎ自分の取り皿へさらっていると、しばらく五条くんにされるがままだった夏油くんがおもむろに顔を上げてこちらを見た。普段よりさらに細くなった目が、確かめるようにしばしばと瞬きをする。

「……ナマエ?」

呟いた声はひどく掠れていて、ちょっと色っぽくて、どきっとした。そんなことを思ってしまう自分が悔しい。

「あー……うん。ナマエだよ。夏油くん、大丈夫?」
「ナマエ……」
「えっと……とりあえずお水飲む?」

わたしはへらへらと愛想笑いをしつつ、夏油くんの近くで空っぽになっている水のグラスへ手を伸ばした。これで夏油くんが素面だったらすぐに店を去っていたかもしれない。久しぶりに同期四人で集まれたという嬉しさと、ぼんじりと、そしてわたしを見ても困った顔をしない今夜の夏油くんがわたしをここへ引き止めていた。それでもさっきから、すきなおんな、という言葉がずっと耳の奥でこだましている。夏油くんの好きな子。どんな子なんだろうな……。

「ナマエ」

ぼんやりしていたら、不意に夏油くんがわたしの手を強く掴んできた。グラスに届きかけた指先はそのまま大きな手のひらに握りしめられる。ひ、と叫びそうになるのをすんでのところで飲み込んだ。
酔っ払っているせいか夏油くんの手はひどく熱い。わたしを見つめる眼差しも、どこか切なそうに潤んでいる。心臓がどくんと大きく跳ねた。

「あんな男じゃだめだ!!」
「まーだそれ言うか」

わたしは掴まれた手を思いきり振った。けれど岩みたいなこぶしは離れるどころか、さらにもう一方の手を重ねてわたしの手を握ってきて、びくともしない。何だこいつ、むかつくな。思わず舌打ちが出た。

「しつこいよ」
「おねがいだ、あの男とはわかれて」
「だからなんで夏油くんにそんなこと」
「私は、ナマエには幸せになってほしいんだよ」

きゅ、と胸の奥が痛くなる。

捨てた女に、しかも自分はちゃっかり他に好きな相手だっているくせに、なんてことを言うんだろう。あんたのほうがよっぽどタチが悪いと言ってやりたい。酒癖が悪いのも思わせぶりなことをするのも全部、自分のことじゃないか。……ただ、夏油くんが彼女らしき女の子と歩いているところは見たことないけど。でもそれだってわたしが知らないだけで、きっと夏油くんはわたしと別れてからもたくさんの女の子と付き合ってきたんだろう。そう思うと途端にものすごく惨めな気持ちになった。

「……夏油くんは勝手だね」
「かって、かもしれないけど」

それでも、縋るように必死な目を見たら、わたしは口を噤んでしまう。かさついた分厚い手にずっと触れていたいと思ってしまうし、酔っ払ってうまく回っていない呂律を愛しいとすら感じてしまう。惚れたほうが負け。本当にそうだ。

「いいかいナマエ、よくきいて」
「……」
「カレシにするならね、やさしくて、せいじつで、ナマエのことを大事にしてくれて、つよくて、おかねもちで、かしこくて、家事もできて、やさしくて、」
「……あーはいはいわかったわかった」

夏油くんに捕まっているのとは反対の手で、わたしは大きなこぶしを宥めるようにそっと撫でた。それからぽんぽんと子供をあやすみたいに優しく叩いてやると、夏油くんの手から少しずつ力が抜けていく。

「ナマエ……たのむから、しあわせでいてくれよ」

夏油くんは最後に泣きそうな、祈るような顔でそう言った。元彼女にかける言葉としては最悪のチョイスだ。溜息が出てしまう。
ねえ夏油くん、そんなんじゃ勘違いされても文句言えないよ。いつかどこかの女に刺されたりしないか、わたしのほうが心配になっちゃうよ。黙りこくったわたしを見て、夏油くんは申し訳なさそうに顔を伏せた。

「……ごめん」
「夏油くんのそれ、もう聞き飽きたなあ」

そういえばこの人って、こういう人だったな。昔から変に責任感が強くて面倒見がよくて、でもちょっと独りよがりなところもあったりして。そうしみじみと思い出して、少し笑えた。

夏油くんの優しいところ、お節介なところ、めんどくさいところ。わたしは全部、大好きだった。

「あのね」

わたしの手を離そうとする夏油くんの手を押しとどめる。なんとなく悔しいから内緒にしておきたかったんだけど、夏油くんのこんな姿を見たらもうどうでもよくなってしまった。

「いまさらなんだけど、その人とはわたし、もう別れたよ」
「えっ」
「付き合って一週間で浮気されたから別れた」
「えっ」
「だから、いまは彼氏いないよ」

しょんぼりと項垂れていた夏油くんが勢いよく顔を上げる。今日一番に目が輝いていた。わたしに恋人がいないことがそんなに嬉しいのかな、なんて思うとちょっと期待してしまいそうになる。

「……じゃ、じゃあ」
「うん」
「あの男とはもう、あんなことやこんなことしてないってこと?」
「あんなことって……?」
「だから、キスとかセッ」
「怒るよ」

急に何の話をしてるんだ。さっきまで夏油くんの真摯さに感動すら覚えていたのに。腹が立ったので今度こそ手を振り解いたら、夏油くんは「あっ」と名残惜しそうな声を上げた。

「……でも、そうか。うん。なら、よかった」
「は?」
「よかった」

ぽつりと、独り言みたいに夏油くんが呟く。そうしてふにゃふにゃに笑った顔を見て、わたしはまたもや何も言えなくなってしまった。困った顔じゃない、安心したみたいな穏やかな笑顔。
なにそれ。よかったって、どういう意味。尋ねようとしても、心臓の鼓動が速くてうまく息が吸えない。まだお酒も飲んでいないのに頬が熱かった。だってなんか、こんなの、まるで――。

「傑さあ、昔付き合ってた子のこと、ずーっと忘れられないんだって」
「え」

ずっと黙っていた五条くんが不意に口を開いた。そうだった、五条くんたちがいること忘れてた。けれど恥ずかしいと思うより先に、五条くんの言葉で頭の中がいっぱいになる。好きな女。昔付き合ってた子。いろんなことがぐるぐると回りだして、眩暈がしそうだった。

「自分じゃその子のこと幸せにできないって。汚しちゃいそうで怖いんだって。それで自分から別れたくせにずっと未練タラタラでさ、また告ればって言っても『彼女にはもっといい相手がいるはずだ』とかなんとかウダウダして。クソめんどくさいよね~」

あーウケる、と形のいい唇でぺらぺら語る五条くんの話が全然理解できない。夏油くんはテーブルに頬をくっつけてすっかり寝入ってしまっている。ちょっと、ちょっと待って。テーブルの下で夏油くんの脚を蹴ってみるけれど、まったく起きる気配がない。寝てないでちゃんと説明してよ。ねえ。お願いします。

「カワイソーだから、また付き合ってやれば?」

五条くんが悪魔みたいににやりと笑う。わたしはついに堪えきれなくなって両手で顔を覆い隠した。五条くんが「ゆでダコじゃん。後で傑に見せてやろ」とげらげら声を上げながらスマホのカメラを向けてくる。この人ほんとに素面?

「ナマエ。焼酎もういらない?」
「……、……いる……」
「ひゅう。いいじゃん」

朝まで付き合うよ、と言って硝子ちゃんが呼び鈴を鳴らす。遠くでハイよろこんで〜! と景気のいい声がした。
こんなのもう、飲まなきゃやってられるか。

ハッピーエンドビギナーズ


夏油傑という男はめんどくさければめんどくさいほどいいと思っています。
タイトルは相互さんにつけていただきました。