蓮糸の沼へようこそ

※not離反if
※ろくでもない元カレとずるずるしています。
※甘さ控えめ

 

 

「スマホ、鳴ってるよ」

言われて、ふと顔を上げた。テーブルの隅に伏せて置いたスマートフォンが素っ気ないリズムで震えている。その鈍い振動に合わせて、目の前の皿の中身も小刻みに揺れた。

「……あー、ごめん。気にしないで」

画面を確認もせず、いそいそとバッグにしまう。誤魔化すように笑えば、向かいの席で彼は不思議そうに首を傾げた。一房だけ垂れた黒い前髪が、はらりと頬にかかった。

「出てくれても構わないけど」
「大丈夫、後でかけ直すから……」
「……」
「……」
「……急ぎなんじゃないかい?」

着信は一向に止む気配がない。バッグの中で唸り続けるスマホに、夏油くんは少し困ったような顔をした。

平日の深夜のファミレスに客は少ない。一人で晩酌中のサラリーマン。大きなヘッドフォンをつけてパソコンを叩いている女の子。飲み会帰りらしい大学生のグループ。そして、任務終わりのわたしたち。

ついさっき運ばれてきたばかりのせいろそば御膳を、夏油くんはもうほとんど食べ終えていた。そばと天ぷら、まぐろの山かけ丼に香の物までついたフルセットである。
反対に、わたしの手元のサラダうどんはまだ半分以上が残ったままだった。別に野菜なんか好きじゃないくせに、なんとなく健康に良さそうだからというだけで選んだそれは、案の定あんまり美味しく感じない。それよりも、大きな口でもしゃもしゃとたくさん食べる夏油くんをぼんやり眺めているほうが、よほどお腹が満たされそうだった。

「……ごめん。やっぱりちょっと、電話してくるね」

スマホはそれが使命であるかのように延々と鳴り続けている。バッグごと胸に抱え、ボックス席を立った。「すぐ戻るから」なんて、必要もないのに取ってつけたような言い訳をする。

「ゆっくりでいいよ」
「ありがとう」

本当に、すぐなんだよなあ。行っておいでと手を振る彼に曖昧な笑みを返しながら、虚しい気持ちになった。

 

学生時代、わたしは同級生の男の子のことが好きだった。

見上げるほどに背が高く、長い髪を無造作なお団子に束ね、切長の目をした、見た目にはちょっと怖い人だった。実際、血の気が多いところもあって、格闘技が大好きだし、親友と呼ぶもう一人の男の子とよく殴り合いの喧嘩をしては先生に怒られていた。
そんな彼を、どういうわけか気がついたらわたしは目で追っていた。外見よりもずっと柔らかくて穏やかに喋る声とか、たまに見せる不器用な仕草とか、分厚くて皮膚の硬い手のひらを、好きだと思った。でも、思っただけだった。

彼は敏い人だから、きっとわたしの気持ちには気がついていたと思う。それでもわたしたちは、始めから終わりまでずっとただの同級生だった。

わたしから一歩踏み出せば、あるいは何かが起こったのかもしれない。そう予感させる出来事は幾度かあった。たとえば放課後の教室で。たとえば雨のバス停で。任務先の古宿で。みんなが寝静まった後の談話室で。
わたしが果敢にも手を伸ばしていたなら、たぶん彼は拒まなかった。そうやって何人かの女の子と関係を持っていたことも知っている。でも、どの子もいつの間にか彼の隣からいなくなっていた。可愛い子、綺麗な子、お金持ちの子、料理上手な子。
彼女たちがいなくなっても彼はいつも通りに毎日をこなし、いつも通りに優しい顔で笑った。

夏油くんはそういう人だった。昔も、いまも。

 

『いまどこ』

耳を塞ぎたくなる。一週間ぶりに聞く声は、スピーカーから針が飛び出してきたかと思うほど刺々しい。

「……まだ、仕事中」

束の間スマホを耳から離し、一呼吸おいてからのろのろと口を開く。いつだって用件はひとつだけなのだからわたしの居場所なんてどうでもいいだろうに、なぜかこの男は毎回決まり文句のようにそれを尋ねてくるのだった。どうせ、いきなり本題に入るとがっついているみたいでカッコ悪いとか、そんな理由だろう。

『都内?』
「うん……」
『じゃあ終わったらうち来いよ』
「……もう終電なくなるから、無理だよ」
『タクシー拾えば』

きゅっと喉が狭くなるような心地がする。即答しないわたしに、電話の向こうから苛立ち混じりの溜息が聞こえた。めんどくせ、と目を細める彼の顔がありありと思い浮かぶようだった。

「……やだ。行かない」
『なんで。会いたいんだけど』
「もう別れたじゃん、わたしたち」
『待ってるから』
「ねえ行かないって、」

最後まで言い切ることも許されず、一方的に電話は切れた。そこから十秒と経たないうちに、暗くなった画面にぽこんとメッセージが浮かび上がる。
『途中でゴム買ってきて』。内容はそれだけだった。

高専を卒業すると同時に、わたしは呪術師を辞めて一般企業に就職した。そうして至って平凡な、たまにちょっと変なモノが見えるだけのOLとして数年を過ごした。
元彼とはそのときに出会った。見上げるほどに背が高く、長い髪を無造作なお団子に束ね、切長の目をした、でもちっとも優しくない男だった。

呪術師に出戻ることを決めたとき、別れを告げた。彼は一般人だったし、不規則な呪術師の仕事の合間に関係を続けていくのは難しいだろうと思った。なのに数ヶ月経ったいまも、彼は出前のごとき気軽さでわたしを呼びつけるし、わたしはそんな男の連絡先を消さないでいる。仕事の内容やら転職の理由やらは一切訊かれたことがない。わかってほしいとも思わなかった。
きっと始めから中身などどうでもよかったのだ。お互いに。

「……めんどくさいな」

面倒くさい。いつまでも自分の所有物みたいにわたしを扱う男も、それを嫌だと突き放せない自分も、胸の底にこびりついた想いも、全部。

 

席に戻ると、夏油くんのせいろそば御膳はすべて空になっていた。

「電話、大丈夫だった?」
「あ、うん……平気」

にへらと笑って箸を取る。野菜の水分が出てびちゃびちゃになったサラダうどんは、さっきよりもっと食べる気にならない。しんなりしたレタスと一緒に一本、二本と麺を啜ったところで、不意に名前を呼ばれた。

「それ、いらないなら私が食べてもいいかな」
「え」

それ、というのはもちろんわたしのサラダうどんだ。かろうじて好きな野菜と呼べるプチトマトやコーン、アボカドだけを虫食いのように食べて、あとはしなしなの葉っぱばかりが残っている。

「え……いいけど、でも、こんな食べかけの」
「お腹が空いていて」

言いながら、大きな手はもう器の縁にかかっている。
すごすごと箸を引いたわたしを確認し、夏油くんはそのまま皿を手元へ引き寄せた。伸びかけのうどんも、彼の箸に掬われると途端に何か特別おいしそうなもののように見えてくる。

「ありがとう……」
「好きでもないのに無理して食べるものじゃないよ」
「……ごめんなさい」
「そうじゃなくて、私はおいしそうに食べているナマエが見たいから」

ちらと顔を上げる。やわく目を細めて、夏油くんがわたしを見ていた。
こういうことをさらりと言う人だったな、と思う。かわいいとか、えらいねとか、似合ってるとか、女に都合のいい夢を見せるような言葉を惜しげもなく口にする。

「ところで、今日はデザートは食べないの?」
「デザート?」
「学生の頃、ファミレスに来るといつも大きなパフェを頼んでいただろう」

これくらいの、と言いながら、夏油くんは手をテーブルの上にかざしてパフェのサイズを大袈裟に示した。「そんなに大きくなかったってば」「そう?」「さすがに」「さすがに?」他愛もないやり取りだけで、勝手に頬が綻んでいく。

いまはもうなくなってしまったけれど、当時、高専の近くにあったファミレスには同期四人でよく通ったものだった。わたしは大きないちごとメロンが乗ったフルーツパフェが好きで、ご飯そっちのけでいつもそればかりを食べていた。
みんなでボックス席につくとき、夏油くんは決まってわたしの向かいに座った。メロンの角越しにたびたび目が合うことが恥ずかしくて、わたしは大きな口を開けることができずに、アイスが溶けてどろどろになったパフェをいつまでもいつまでもスプーンでつっついていた。

「夏油くん、そんなことまだ覚えてたんだ」

懐かしいねと呟けば、夏油くんがそっと目を伏せる。

「……覚えているよ。君のことは何でも」

ゆるりと弧を描いた唇から、引き剥がすように視線を逸らした。
わたしが呪術師に戻ったときも、夏油くんはこうやって優しい顔で笑うだけだった。数年のうちにずいぶん長く伸びた黒髪のほかには、何ひとつも変わっていなかった。

戻ってきた理由を訊かれなかったことには安堵した。やっぱり彼はわたしになど関心がないのだという少しの寂しさよりも、学生時代の好きな人を忘れられないがためにこの血生臭い仕事に出戻ったなんて、そんな気の狂った理由を知られなくてよかったと思った。

「……パフェじゃなくて、ヨーグルトサンデーにしようかなあ」
「どうして?」
「こんな時間だし」

漫然とメニューブックに落とした視線を動かし、テーブルの上に投げ出したままのスマホの時計を見る。終電の時間はとっくに過ぎていた。

「昔はもっと遅い時間にアイスとかカップ麺とか食べてたじゃないか」
「十代の頃とは代謝が違うんだよ。いまあんなことしたら太るし、それに次の日の胃もたれが大変だよ」

ふうん、と溜息のような相槌が返ってくる。夏油くんは膳を脇へどけると、長い腕で頬杖をついてじっとわたしを見つめた。

琥珀の欠片を閉じ込めたみたいな彼の瞳を前にすると、わたしは途端に自分の体が透明になっていくような心地がする。わたしが何を考え、何を好み、何を嫌い、何を求めているのか、心の裏側にしまっておいたものまですべて露わになるようで、落ち着かない。

「パフェにしておきなよ」
「なんで」
「後悔するかもしれない」
「……食べておけばよかったって?」
「〝やっぱりこれじゃなかった〟、って」

たとえば明日、わたしがまた呪術師を辞めても、彼はこんな風に笑うだろうか。
わたしから手を伸ばせば、彼は拒まない。それと同じように、わたしから手を離してもきっと彼は何も言わずに見送るだけなんだろう。

「ナマエだって、好きだろ」
「……好き、だけど」
「じゃあ」

夏油くんは備え付けのタッチパネルを瞬く間に操作して、いちごとメロンの乗った大きなパフェを注文してしまう。こうやって何人の女の好物を覚えては忘れ、彼女たちの願いをどれだけ叶えてやったのだろう。想像するだけで、眩暈がする。

「ねえナマエ」

彼の横を通り過ぎていく名も無い女の子たちの列に加わりたくなかった。わたしがいなくなった後でもいつも通りに毎日をこなし、いつも通りに優しい顔で笑う彼を、見たくなかった。それはきっと、どんな呪いよりも深く酷くわたしを傷つける。

テーブルに置いた手の横で、再びスマホが唸り声を上げた。あの男の苗字だけを無愛想に表示した画面が光り、わたしを急かしている。

「私にしておきなよ」

ふ、と手が重なった。分厚くて皮膚の硬い手のひらが、わたしのそれを包み隠すように握る。息を呑んだわたしに向かって、夏油くんはうっそりと微笑んだ。それはわたしがいままでに見た彼のどんな顔とも違った。甘やかで優しくて、けれどその奥でどろどろと渦巻いている見知らぬ色から、今度こそ、目を逸らせない。

「――私に、しなよ」

夏油くんの指が、スマホの上を滑る。

蓮糸の沼へようこそ

蓮の糸は、俗に極楽往生の縁を結ぶと言われているそうです。